27.魔獣の棲む世界
広場に混乱が広がっていく。
城壁の上から矢が射られるも、鋼鉄の様に硬い肌を持つサイクロプスには何の足止めにもなっていない。
門の付近にいた人々が蜘蛛の子を散らしたように避難する中で、流れに逆らって門の方へと歩みを進める者がいた。
『どけい、門を上げろ! おでが行く!』
青い肌に丸太よりも太い腕、はち切れんばかりに盛り上がった筋肉。鉱石族よりも大きいその男は、重戦車のようにも見えた。
先ほど見かけた、瓦礫を軽々と持ち上げていた戦鬼族だ。
老人の様に背中が曲線を描いている。重心の安定した歩き方が、その曲がった背が生まれ持ったものである事を告げていた。
『戦鬼族のアルガンだ!』
誰ともなく声を上げた。
それを皮切りに、皆が次々に足を止める。
『なに、アルガン?』
『本当だ、“鉄拳のアルガン”だ!』
『アルガン、やっちまえー!』
巨体が門をくぐるとすぐにまた閉ざされる。
その男、鉄拳のアルガンの背中には、万雷のコールが浴びせられた。
門から離れたはずの人々がいつの間にか再び門に殺到し、まるで闘技場を彷彿とさせる光景だ。
早くもどちらが勝つかの賭けすら始まっている。
アルガンは両腕に装着した巨大な鋼鉄のナックルを打ち鳴らして、雄叫びを上げた。
アルガンとサイクロプス。両者が軽い足取りでその距離を縮める。
体格を見れば五分五分。重量級マッチだ。
先に仕掛けたのはサイクロプスだった。咆哮を上げて、呼び動作も無しに石柱が薙ぎ払われる。
並みの者ならこの時点で敗北していただろう。
高速で振るわれる石柱は、一瞬のうちに目標を叩き潰す。おそらく何が起きたのかも理解できずに死んでいたに違いない。
だが、アルガンはその速度にしっかりと反応した。
本来であれば躱すべきその石柱に、思いっきり拳を叩き込んだ。
重い音と共に、石柱に亀裂が走る。
あまりの衝撃に、サイクロプスが体を仰け反らせた。固く曲がった背中と、鍛え抜かれた足腰で衝撃に耐えたアルガンは、その一瞬の隙を逃すまいと一歩足を踏み込む。
アルガンの拳がサイクロプスの腹を捉えた。
強固な皮膚で護られた腹が陥没する。
痛烈なボディブローを受けて、たまらずに胃の中のものがぶちまけられた。
出てきたのは甲冑を着込んだ、胃酸でドロドロに溶けた死体だった。既に人としての原型はない。両目のあった場所には二つの穴が空いているだけの、無残に変わり果てた姿だ。
アルガンの猛攻は止まらない。
一方的。それは誰の目にも一方的に映った。
次々に繰り出されるアルガンの重い拳は、対象が倒れる事を許さない。
ぶつかり合う金属の音が響き渡り、大量の血が舞い散る。最後にトドメと言わんばかりに、脳天から叩きつけた。
ようやく倒れる事を許可されたサイクロプスは、地面を赤く染め上げてぴくりとも動かない。
アルガンが勝鬨を挙げるかのように、両腕を天にかざして吼えた。
門の内側からは、都市が震え上がるかと思うほどの歓声が沸き上がる。アルガンの圧勝だ。
圧勝だったからこそ、次の瞬間に何が起きたのか誰もわからなかった。
吼えていたアルガンが、背中から落とし格子に叩きつけられていた。
動く様子のないアルガンを目の前に、観衆は氷を張ったように静まり返る。
皆が状況を理解したのは、その少し後の事だった。
『サンドゴーレムだ! ウィザードをかき集めろ!』
警備兵が言い終わるよりも早く衝突音が轟き、鋼鉄の格子が大きく歪んだ。
格子の間隙を縫って、砕けた何かが観衆に降り注ぐと悲鳴が上がった。
岩だ。
飛んで来た巨大な岩が砕けて、その破片が格子を通り抜けてしまったのだ。間髪入れずにまた岩の砲弾が発射される。
格子はなんとか持ち堪えるも、逃げる暇も無かった人々に岩の破片が襲い掛かる。一瞬にして石畳に血の絨毯が敷かれた。
アルガンはあの砲弾にやられてしまったらしい。辛うじて防御をしようとしたのか、ナックルは変形していて、折れた腕からは白い骨が飛び出していた。
急な展開に付いていけず、学人は動けないでいた。
興奮に満ちた闘技場はもうそこには無い。あるのは怒声や泣き叫ぶ声、呻き声が入り乱れる混沌と化した修羅場だ。
サイクロプスを圧倒していた男が、次の瞬間には敗北していた。まだ息はあるようだが、もう戦う事はできないだろう。
全く先の読めない光景を前に、ただただ唖然としてその様子を眺めている事しかできなかった。
また激突音が響く。
都市の外側には砂の山が確認できた。
流砂の如く、砂が上から下へ流動していて蠢いている。砂がざわめきが増すと、大地が抉られて砲弾が発射された。
サンドゴーレム。
ゴーレムという名だが、これはスライムの一種である。砂の身体にはもちろん物理的な攻撃は意味を成さない。
下手をすれば攻撃を絡め取られて、そのまま呑み込まれてしまう。そうなってしまえば一巻の終わりだ。どんな生物でも脱出する事は叶わず、大量の砂を食わされて窒息死の運命を辿る。
スライムというだけでも厄介だが、さらに厄介な事に特殊な魔力を扱う。大地の魔力だ。
雄大な大地を、たかがちっぽけな生き物が支配下に置こうなどとはおこがましい。だが、その大地から生み出されたものとなると話は別である。
この力は、彼らだけに許された、彼らだけのものだ。
度重なる砲撃に格子がとうとう限界を迎えた。
壁の一部を破壊して、広場の方へと転がる。
学人の視界が弾けた。
気が付けば、石畳に這いつくばっていた。
飛散した岩が学人のいる、広場の奥の方にまで襲い掛かったのだ。
立ち上がろうと身をよじるが上手く力が入らない。
学人が自分の足に目をやる。曲がってはいけない場所から、曲がってはいけない方向を向いていた。
「あ……」
状況を理解するのに数瞬。
理解ができたら、次に来るのは激痛だ。
「あああああああ!」
骨折の激痛に悶える。
運が良かった。死ななかったのだから。
学人のすぐ側で立っていた男は、頭から血を流して動いていない。ほんの一メートル右にいたら、死んでいたのは学人だ。
痛みの中で、ようやく気付く。
運が良かったのだ。今も、今までも。
この広い廃墟に突入してからも、運良く弱い魔獣にしか出くわさなかった。もし都市に着く前に、外であの魔獣と遭遇すればどうなっていただろうか。
ジェイクとヒイロナは上手く切り抜けたかもしれない。だが、学人は違う。死んでいた可能性の方が高い。
もちろん、二人は学人の事を助けてくれようとするだろう。その結果、足を引っ張ってしまって三人とも死んでしまうかもしれない。
この都市に着くまでも、何度か死にそうな目には遭った。
それでも、大きな怪我をする事も無く、切り抜ける事ができた。そう、運良くだ。
自分は死なない。根拠の無い思い込みを、知らずのうちに小鳥にも押し付けようとしていた。
小鳥が言っていたのはこの事だった。何もわかっていないのは学人の方だった。
風峰や門脇の死を眼前にしても、何もわかってなどいなかったのだ。
学人は現実を受け入れきれずに、何かリアルなアトラクションの中にでもいるような気分だったのだ。
それが、この痛みでようやく嫌でも気付かされた。
今いるこの世界はアトラクションでも何でもない。まごう事なき現実だ。
致命傷を負えば死ぬ。当たり前だ。
みんなで力を合わせれば何とかなる? そんなわけがないだろう。どうにもならない事だってある。
希望的観測で皆に救助を強要すれば、それは死ねと言っている事と変わらない。
混濁する意識の中で、小鳥の声が聞こえた気がした。
――あなたの目には、周りの光景がどう映ったのですか?




