16.生存者達
学人、竹岡、門脇は消火器一本と懐中電灯。
ドグには悪いが、荷物持ちとして消火器を二本持ってもらう。むしろ、こんな重い物を持って歩くのは、彼にしか頼めない。片腕で軽々と二本を持ち、松明も持っている。
北泉には懐中電灯で後方の警戒をしてもらう。
「なぜかな。こんな状況だと言うのに、私は今、楽しくて仕方がないんだ」
門脇がそんな事を言い出す。
それは学人も感じていた。絶望的な状況にもかかわらず、気分が高揚しているのだ。非日常の中で、脳が刺激されているのだろう。
音を立てないように注意しながら、奥にある階段を目指す。
天井に非常口のピクトが見えた。それに従って狭い通路を覗き込むと、そこには扉があった。
ゆっくりとノブを回して開けてみる。
もちろんの事ながら、窓は一切無い。壁に亀裂が走っているものの階段はしっかりとしていて、途中で崩れているという事はなさそうだ。
全員が顔を見合わせ、頷いた。
階段室に入って扉が閉まると、何か音が聞こえたような気がした。上の方からだ。
音の発生源は遠いらしく、かすかなものだった。緊張が走り、皆が息を呑んでいる。どうやら気のせいではないらしい。
何階かはわからないが、何か重い物がぶつかるような、鈍い音だ。
階段を昇り始める。
物資調達の時もそうだったが、スライムが全くいない。学人が襲われたのも大声を出した直後だった。もしかすると、声に反応したのだろうか。
不思議に思いながらも足を進める。このまま遭遇しなくて済むのであれば、それに越した事はない。
二階……。
三階……。
四階……。
二十階建てのビルだ、先は長い。
「門脇さん!」
突然、北泉が叫んだ。
壁の亀裂からスライムが滲み出て、張り付いたまま身体を伸ばしてきていたのだ。
「え? うあああああッ!」
門脇が悲鳴を上げながら、消火器のノズルをスライムに向ける。
北泉を自分の後ろにやると、レバーを絞って消火剤を噴射した。
粉末の物とは違い、粉塵が舞って視界を遮られる事はない。一見、頼りなさそうに飛び出す消化剤がスライムに襲い掛かる。
学人が夏休みに作ったスライムはアルカリ性で、酸で中和させると形を保っていられず、溶けてしまった。ホウ酸イオンがどうとかいう原理だったが、今はそんな事はどうでもいい。
このスライムは酸を分泌する。たぶん酸性だ。
ならば、アルカリ性で中和してやれば、溶けるにしろ固まるにしろ何らかの反応を見せるはずだ。
この強化液消火剤の主成分は炭酸カリウム、つまりアルカリ性だ。
「やった!」
学人が思わず歓喜の声を上げる。
スライムはジュウジュウと音を立てて蒸発してしまった。少しでも動きを止める事ができればとは思っていた。それがまさか蒸発してくれるとは嬉しい誤算だ。
蒸発していく様を見て、ドグも細い目を丸くしている。
しかし喜ぶのはまだ早い。スライムに見つかってしまったのだ。
「走れ!」
竹岡が叫ぶと、堰を切ったように亀裂からどんどんスライムが湧き出してきた。
五階……。六階――ッ!
五階を走り抜け、踊り場まで来ると六階の扉が開け放たれたままになっているのがわかった。扉の向こう側からは巨大なスライムが顔を覗かせている。
学人が消火器を噴射し、足止めをする。しかしスライムは次から次に湧いてくる。キリがない。
「早くッ!」
全員が行ったところで消火剤が切れてしまった。
空になった消火器をスライムにぶつける。やはり粘液に打撃は効かず、怯む様子を見せなかった。
学人もすぐに階段を上がり、ドグから消火器を一本受け取る。
七階……。
八階……。
息を切らし、進むペースがみるみるうちに落ちていく。
九階……。
十階……。
消火器を噴射して、スライムを蹴散らしながら進む。
思っていたよりも出てくる量が多い。消火器はついに門脇の持つ、最後の一本になってしまった。
十階に到達すると、学人達は立ち止まってしまった。
十一階への踊り場、スライムが行く手を阻んでいた。
「ひいいいいいいッ!」
門脇が消火器を学人に押し付けると、悲鳴を上げて廊下へと逃げ出してしまった。
「門脇さん、どこへ! くそっ!」
自分の命を最優先に。そういう約束だ。
学人が消火器を噴射する。しかし、スライムの量が多すぎてとても足りそうにない。
五秒ほどすると、消火剤の勢いが急激に衰え、出なくなってしまった。
「山田さんマズイっす! 下からもッ!!」
下から来るスライムはドグが松明で足止めをしているが、松明一本だ。さほど足止めにもならない。
十階の廊下に出るか。出たところで逃げ場があるわけではない。結局は追い詰められてしまう。
全滅。
その単語が学人の脳裏をよぎる。
十階の廊下から人影が飛び出し、噴射音が響いた。
「さあ、今のうちに!」
門脇だ。
消火器を二本調達して戻ってきたのだ。
門脇を殿に道の開いた階段を駆け上がる。
一本目の消火器を使いきり、二本目に手を伸ばす。
「門脇さんも早く!」
「ああ、すぐに行く!」
言いながら、ノズルを上に向ける。
階段の裏側に張り付いているスライムが、上を行く竹岡に忍び寄っていた。
そうはさせない。門脇の意識がそちらへ持っていかれる。
スライムは比較的小さなもので、すぐに蒸発させる事ができた。それを確認すると、階下に目を向ける。スライムがまたあふれている。
「うぁっ!」
門脇がその場に膝から崩れた。
突然、太ももに焼けつく様な激痛が走った。すぐ側の扉の陰から粘液をかけられたのだ。
「門脇さん!」
「来るな!」
階段を降りようとした学人に怒鳴り声が飛んだ。
門脇は噴射の手を休める事なく、壁へと這いずる。そうしているうちにもスライムは湧き出し、とうとう逃げ場を失ってしまった。
「山田さん、もうだめです!」
「だけど……ッ!」
門脇は学人と竹岡を見ると、笑顔を浮かべ、
「振り返らずに行きなさい」
そう言うと、残り少ない消火器を噴射し続ける。
学人は頭を振って、再び階段を昇り始めた。
少しして噴射音が途絶えると、それは断末魔に変わった。
「あああああああッ!! あああああああああッッ!!」
だが、その声もたった数秒で聞こえなくなってしまった。
悲鳴を聞いた北泉が絶叫し、恐怖のあまり泣き崩れる。
「北泉さんっ! 早く立って!」
「もういやああああああああああああッ!」
北泉は動こうとしない。小柄な女性とはいえ、成人した人間を担いで二十階まで昇るのは無理だ。
だからといって、置いていくわけにもいかない。竹岡と二人で無理矢理引きずって行く。
なんとか十二階に着いた瞬間、突然二人の腕にかかっていた重みが消えた。
北泉の体が宙に浮く。
振り返ると、ドグが北泉を抱えていた。
『あの男の勇気ある行動を無駄にするなッ!』
二人にはなんと言っているのかわからなかった。
だが、今までほとんど口を開かなかった男が叫んでいた。
十三階……。
今度ははっきりと聞こえた。下で感じた、あの重くて鈍い音だ。
「山田さんヤバイっす!」
先を行った竹岡が叫んでいる。
「ドアが壊れて開いたままになってるっす! 急いで!」
急いで駆け上がるが間に合わない。
十四階。また巨大なスライムが、壊れて開いたままの扉から出て来ていた。
(ここまでか)
「山田さんっ!!」
「竹岡さん! あなただけでも行ってくださいっ!」
上にはスライム。下にもスライム。
ドグが松明で追い払おうとするが、この量では何の役にも立っていなかった。
もう逃げ場も武器も無い。年貢の納め時だ。
扉から這い出たスライムが、こちらへ向けてまごつく。もう間もなく粘液が飛んでくる。
学人にあったのは、絶望感よりも満足感だった。
やれる事はやったのだ、これで駄目なら仕方がない。
不思議と、素直に死を受け入れる自分がいた。
「え?」
目の前のスライムが突然弾け飛んだ。
竹岡が何かしたのか。違う。彼も唖然とした顔をしている。
扉の奥に、小さな火が見えた。もくもくと煙が上がっている。あれは煙草の火だ。
『よー、ドグ。暇だったんで遊びに来てやったぜ』
闇から出てきたのはジェイクだった。
「お前……ッ!」
学人がジェイクに掴みかかる。
文句のひとつでも言ってやりたかった。だが、ジェイクは友人の為に危険を顧みず、崩れた鉱山に飛び込んだのだ。
そんな男を前に、言葉が出て来なかった。
それに、ジェイクがいなければ生存者を見つける事もできなかっただろう。
ジェイクは学人の手を乱暴に振り払った後、何も言わずに指で上を差した。
「……ッ!!」
『ジェイク、助かった』
『いいからさっさと行け、全員で白くなるまでシェイプアップする気か?』
十五、六、七、八、九……二十階。
二十階までスライムが現れる事も無く到達できたのは、ジェイクがスライムを倒してしまっていたからだろう。階段は一面黒い水で濡れていた。
二十階廊下、学人が廊下を見回す。
「……あれだ!」
廊下の一番奥、窓からは月明かりが差し込んでいる。
しかしその手前の部屋からは、また新しくスライムが湧いていた。
「もう少しだ! 急げ!!」
バシャバシャと黒い水しぶきを上げながら、最後の力を振り絞って走る。
『どけ』
後ろから追い抜いて来たジェイクが、手に持ったハンマーでスライムを叩き潰してしまった。叩き潰されたスライムはそのまま溶けてしまう。
学人はその光景に驚くがそんな事は後だ。五人は窓から外へ出た。
「やっぱり、思った通りだ!」
出た先は強い風が吹き付ける山脈の上、岩肌であった。
学人が鉱山に入る前に見た不自然な人工物、あれは山脈を貫いたビルだったのだ。
窓に足を掛け、屋上によじ登ったところで、学人は大事な事を失念していた事に気付く。
外に出る事に頭がいっぱいで、出た後の事を何も考えていなかった。
結局、逃げ場が無い。スライムがすぐそこまで迫って来ている。
『ロナッ!』
ジェイクが地上に向かってヒイロナの名前を叫ぶと、下から氷の滑り台が伸びてきた。
『滑り降りろ!!』
学人達は滑り台に飛び乗り、地上へと帰還した。




