15.晩餐
山田学人。今年で二十五歳になる。
気は小さい方で、彼女はいない。それどころか友達すらいない。言い訳ではなく、純粋に一人が好きだったからだ。
常に一人な事以外はごく平凡に、小中学校に通い、高校へ進学。
高校卒業後は専門学校に入った。しかし、二十二の時にその道を挫折。今は特に目標があるわけでもなく、ただただ無気力に、とある会社で営業をしている。
……営業をしていた。
昔から勉強が苦手で、中学三年の時に「入れる高校がない」と担任の教師にハッキリと言われた。
だからといって運動が得意というわけでもなく、いわゆる落ちこぼれだった。
さすがにこれはまずいと思い、死に物狂いで勉強した。その甲斐あって、底辺とはいえ無事に高校を卒業する事ができた。
……昔から勉強が嫌いだった。
社会に出ても、役に立たないものがほとんどだと思っていた。
小中学生当時は、役に立たないものを勉強する必要はない。そう言い訳ばかりしていた。
古文。使わないだろう。
豆の遺伝。使わないだろう。
図形の証明。だからそれが何だというのだろう。
実際、社会に出てから役に立ったものは少ない。
しかし……社会人になってわかった事がある。
今まで不要だと言い張ってきた勉強。あれらは全て必要だった。
勉強の内容……ではなく、頭を使う事が必要だったのだ。
もし、自分に子供ができて、自分と同じ事を言っていたとしたら。そう教えてあげたい。
もし、過去の自分に何か助言をできるとしたら。そう教えてあげたい。
勉強嫌いな学人はもちろん、夏休みの宿題を期限までに提出した事はなかった、
せっかくの休みなのに、勉強だなんて馬鹿馬鹿しい。
そんな中でも一応好きな宿題があった。夏の自由研究だ。
あれは小学校何年生の頃だっただろうか。学人は自由研究に、当時クラスで流行っていた“スライム”をテーマにした。
作り方は簡単だ。
洗濯のり。ホウ砂。水。色を付けたかったら絵の具。あと、スライムを作るための容器。
ホウ砂。普通に生活していたらあまり聞かない物だが、これは薬局で簡単に買う事ができる。
たったこれらを混ぜるだけで、あっという間にスライムのできあがりだ。
もっとも、分量が良くないとカチコチになったり、ドロドロになって失敗してしまうが。
学人の予想だと、あの黒いスライムは鉱物を溶かす事ができない。
垂れてくる時、木でできた支保工は溶けていたが、金属部分や岩盤には穴が空いていなかった。
液体の体だ。きっと岩盤のほんの少しの隙間を、滲む様にして移動しているのだろう。
この変電室には亀裂が無い。無傷だ。三日も立て籠もっていられたのがその証拠だ。
あのスライムは一体何でできているのだろうか。酸を分泌するなんて、普通に考えてありえない。
そんな事を言ってしまうと、意思を持って人を襲う時点でありえないが。
要するに学人たちの常識なんて通用しない。
その通用しない常識の範囲で思い付いた事だ。駄目な可能性の方が大きい。
それでもやるしかない。もし駄目でも、何らかの反応はあるはずだ。
…………。
脱出に必要な物を集める。
変電室には何も無いので、調達しに行く必要があった。行くのは学人、竹岡、ドグの三人だ。
恐る恐る扉を開けて、外の様子を窺う。通路にスライムの姿は無く、しんと静まり返っていた。
骨が転がっていたりするが問題ない。歩き回る腐った死体と比べるとはるかにマシだ。
スライムは骨を溶かせないのだろうか。それともやはり美味しくないのだろうか。白い骨だけが綺麗に残されていた。
人骨が身に着けているリングが見えた。変色してしまっているみたいだが、学人の思った通り金属や鉱物は溶かせないらしい。
まずは消火器だ。変電室の物は使えない。
通路に設置されている物をさらっていく。ラベルを見るに強化液タイプの物で、これならいけそうだ。
他に欲しい物は明かりだ。万が一松明が消えてしまうと、真っ暗闇に放り出される事になってしまう。
それに、炎だけではどうしても視界が狭い。
懐中電灯は意外にあっさりと見つかった。管理室だ。
壁にいくつもぶら下げられていた。
ビルの様子が映し出されていたであろう、モニターがずらりと並んでいる。
他にもボタンの様な物が沢山付いた、見慣れない機器などもある。
使える物は何でも使いたい。手早く物色してみるが、これといった物は出てこなかった。
「山田さん、これ」
どこから持って来たのか、竹岡がヘルメットをかぶっていた。気休めにもならないだろうが、一応受け取る。
集まったのは懐中電灯が四つ、消火器が五本、それからヘルメットだ。
階段はいくつかあり、その中でもビルの中心付近にある物を使う事になるだろう。隅にある階段は、壁が岩盤に押し潰されて崩れている恐れがある。
館内見取り図を目に焼き付けておく。管理室とは逆方向だ。
管理室を出る。
右手にライトを向けると、闇を切り裂いてビルの入口が見えた。
ガラスが割れて岩が雪崩れ込んでしまっている。
次に左手を照らす。
すると、カフェだろうか。店舗らしき物が見えた。
学人はともかく、他の四人は空腹と喉の渇きに飢えている。何か持って帰った方がいいだろう。
店内はなかなかに広く、軽食なども出していたようだ。パンやハムなど、傷んでいない物をビニールに詰めていく。
冷蔵庫には十分な量の水分も残されていた。
これ以上は何も持てそうにない。力のあるドグも消火器三本でいっぱいいっぱいだ。
変電室に戻ると歓声が上がった。
脱出前に英気を養う。もしかすると、これが最後の食事になってしまうかもしれない。
最期の晩餐と呼ぶにはかなり寂しいが、飢えたまま死ぬ事を考えればご馳走にも見える。全員が一口一口を噛み締めた。
「ふー」
学人は悪いと思いつつも、みんなから少し離れて一服をする。
これからの事を考えると、心臓の高鳴りが治まらない。
学人の脱出計画には、何の根拠も無ければ確証も無い。正直なところ、そうだったらいいなという感覚に近いかもしれない。
それでも、彼らは学人の言う事を信じて、賭けてくれた。自分だけでなく、四人の命を託されたのだ。
こんな経験は初めてだ。少しでも冷静にいられるようにと、心を落ち着かせる。
カフェから持ち出した紙とペンで説明をすると、ドグも納得してくれた様子だった。
「すまないが、私にも一本もらえるかね?」
ため息と一緒に煙を吐いていた学人に近寄ったのは、初老の男性、門脇だった。
門脇は差し出された煙草を見て、
「またきつい物を。明日からはもっと軽い物にする事をおすすめするよ」
苦笑いを浮かべた。
「煙草は随分と前に辞めていたんだがね」
そう言って、門脇は久しぶりの煙草にむせていた。
死ぬかもしれない。その前に一本、という事だろう。
部屋の中は緊張が渦巻いている。何をしようが、気が鎮まる気がしない。
「気負う必要はない……と、言っても無理か」
重い沈黙を破って、門脇が言う。
「発案者は君だが……全員自分の意思でここを出るんだ。これから何があったとしても、誰も君を責める事はない」
少し間を置いて続ける。
「わけもわからないまま逝くよりも、生きようと前を向きながら死ぬ方がいいと思わんかね?」
こだわりもなく笑う。
その笑いにあてられたのか、沈黙していた竹岡が口を開いた。
「おっちゃんの言う通りっすね。オレとした事が情けないっす。いつまでもうじうじと」
皆、学人の言う事に縋ったのではない。腹を括ったのだ。
学人の言う事を信じていないわけではない。だが、ここでただ死を待つよりも、最期まで諦めずに前を向いてみせると、そう覚悟を決めた。ただそれだけの事だ。
全滅しても、それは誰の責任でもない。
「私は、生きてここを出て、家族に会いたい。死にたくない。みんなにひとつ言っておきたい事がある」
門脇の声色が変わる。
「たとえ誰かが危機に陥っても、私は助ける事はしない。だから君たちもだ。絶対に自分の命を最優先にすると約束してくれ」
門脇に返事をする者はいない。
だが、それは否定的なものではなく、同意の沈黙だった。
「ここを出たらみんなで打ち上げやりましょう! 店はオレが押さえますんで!」
竹岡の能天気な言葉に失笑する。
学人は、不思議と肩の荷が下りた気がした。緊張に強張っていた身体も、いつの間にかほどけている。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか」
学人は笑いながら、煙草をもみ消した。




