145.天使と悪魔の輪舞1
およそ六百年前……アイゼルを建国した初代国王、アイゼルハイムは宣言した。
欲しければ奪ってみせよ。
気に入らなければ奪ってみせよ。
力こそ正義である。
王国は広大なため五つの領に分けられ、それぞれに信頼できる部下を領主として配置した。彼らに打ち勝つ事ができれば、その者が領を治める事となる。
これは王国が存在する限り、未来永劫、不変の掟である。
建国当時の領都は都とは名ばかりの有様で、むしろ集落と呼ぶのが相応しい状態であった。もっとも、王都も似たようなものであったが。
建築技術や資材が現在ほどあるはずもなく、領主の住まいも防壁すら無いみずぼらしいものだ。しかしそれでも数度の戦争に耐えたと記録されている。
これは領主に仕える名も無き戦士たちの偉大な功績だ。
数多の戦士たちが胸に野心を抱き、領都の入口から一直線に領主の元へと進んで行った。
一度の戦争が終わると、今度は逆方向に人が流れる。ある者は無傷で、ある者は大小の傷を負って。
また、帰りには姿を見かけない者も少なくはなかった。
何度も何度も戦士たちが行進するものだから、当然ながら自然とその道筋を避けて建物が建てられる。計画的なものではないのに、どの領都にも城へ続く一本道ができあがっていった。
何百年と戦士たちの花道を飾った、かつては自分も歩いたその道を、ジェイクは静かに監察していた。
仮に双眼鏡を通さなくとも、国王軍の動きは手に取るようにわかるだろう。ごった返す人並みが進行に合わせて割れていくからだ。
夜目の利く森林族とはいえ、その人数までは把握しにくい。国王軍と侯爵兵、総勢五十人ほどだろうか……。内訳まではわからない。
このまま一直線に城まで行くなら良し、しかしそうでないのならば、一体どこへ向かうのか。しっかりと見届ける必要があった。
『敵なのか?』
いつの間にか隣に立つメルティアーナがそう尋ねてきた。
『私は現在の世界をあまり知らない。しかし六百年以上生きているお前が、生物としての規格を逸しているお前が、まさか国王と何の関わりもないはずがあるまい。この仮説が正しいとすると』
『ああそうだな、少なくとも敵じゃあねえな』
理屈っぽい言葉に嫌気が指したのか、はたまた気が散るからなのか、ジェイクは吐き捨てるように遮った。
それからしばらく双眼鏡に夢中だったが、ふいに目を離した。
『俺はここらでずらかるぜ』
言いながら、自分の荷物をまとめ始める。
ーーとは言っても、友人からもらった二本の剣と、竜のレリーフが施された弓と矢。それから煙草と数着の着替えに旅に必要な小物くらいものだ。
国王軍はよりにもよってこちらに向けて道を折れていた。目的はジェイクか、メルティアーナか、あるいはその両方か……。いずれにせよ面倒事であるのには違いない。
手早くまとめ終えると、ジェイクは再び双眼鏡を覗いた。
崩れた建物の隙間に、こちらに向かうルアージュを筆頭に例の一団が確認できる。しかし先ほどよりも人数が減っている。途中で二手に別れたか……。
円形の視界を振り回すと、もう片方はすんなりと発見できた。どうやら大通りを曲がってそのまま直進している。その先にあるのは、領都の外壁に空いた大穴だ。一旦は都内に入ったのに、わざわざそこから外に出ようとしているのか。
ジェイクは記憶を頼りに、その先の地形を思い描いた。平坦な土地を越え、林を抜けた向こう側にある物といえば……。
『やっぱり俺らにも用があるらしい。奴ら、ハーネスの屋敷に向かっている』
となれば玄関から出るのは難しい。そもそも衛兵がこの階層から出してはくれないし、無理矢理通ったとしても、下階は避難民でごった返している。抜け出す頃にはルアージュと鉢合わせだ。
ジェイクはテラスに身を乗り出し、逃走に使えそうな場所を探す。
だが、屋根までは遠すぎる。足場が一切無く、飛び降りるにしても高すぎる。
『とんだマヌケだぜ、クソ! ここは逃げられない造りになってやがる』
仕方がない。正面を強行突破だ。
『メルティアーナ、テメーはどうするんだ?』
『私か? まさか連れて行こうという気なのか?』
『ここにいても結局は殺されるだけだろ』
『何を考えているんだ、お前は。私がいればそれこそ旅の障害だろう。それに私が逃げるわけにはいかない。誰かが、女神のした事に対する責任を取らなければ』
『責任……責任、ねえ……』
心底馬鹿馬鹿しい。
『テメーに何の責任をどう取れるってんだ? 精々公開処刑を披露するくらいだろ、それが一体何になるってんだ』
『それも致し方ない。それで少しでも人々の気が晴れるのなら』
『馬鹿はテメーだボケ! そんなくだらねーもん、次の日には綺麗さっぱり忘れられてらあ!』
『ならばどうしろと言うのだ! 私は誰かに裁かれなければいけない! 国王軍が来たというのなら渡りに船だ。国王が直々に断罪すれば、少しは意味が見い出せるだろう!』
『違うな、テメーが許しを乞うのは王国じゃあねえ。巻き込まれた異人だ。責任を取ると言うのなら、あいつらであって俺らじゃあねえ』
声を荒げたメルティアーナだったが、ジェイクの鋭い切込みに返す言葉が見つからず、押し黙る。
言われなくてもわかっている。しかし自分がいれば、ただそれだけで迷惑なのだ。
『手を貸せ、メルティアーナ。今だけでもいい』
侯爵邸に到着したルアージュは、自らは門前に待ち、侯爵の私兵を突入させた。目標は三階、ジェイク・E・イーストウッドが保護されている部屋だ。
しばらくしてテラスから私兵が顔を覗かせ、白い布を振る。これは部屋に誰もいない事を告げる合図だ。
『やはり勘付いて逃げましたか……』
ルアージュは呆れるばかりだったが、侯爵は驚きを隠せない。一見するとわからないが、逃げ出せないよう造られている部屋だ。
『そんな馬鹿な。きっとどこか隠れているに違いない! くまなく探すのだ!』
『おそらく天使ですよ、ヒルデンノース卿。もっとも彼だけでもなんらかの方法で逃走していたでしょうが』
『天使が……。乗り物扱いされる事を嫌う彼らが、誰かを抱えて飛翔するとは到底思えませんな』
『もぬけの殻なのがその証明です。余程の信頼関係があれば、それも例外なのかもしれません。では、お願いしていた走竜を』
『承知しました。おい、連れて来い』
侯爵が手を叩くと、一頭の走竜が連れられて来た。
周囲を威圧するような雰囲気を出しているが、それでいて実に静かである。手塩にかけて育てられた、侯爵自慢の一頭だ。
ルアージュが近寄ると、竜は値踏みするように視線を這わせ始める。いや、実際値踏みしているのだ。自分が乗せるに値するのかどうか。
足先から始まり、腰、胸部、腕。そして最後に目を合わせる。
竜は身震いをしたあと立ち止まり、ルアージュに背を向けた。
よかろう、乗せてやる。そう言っているように、ルアージュは感じた。
『流石はヒルデンノース卿。良い竜をお持ちでいらっしゃる』
『……して、どちらへ行かれるおつもりですかな?』
『ジェイクが逃走したという事は、途中でハーネス邸に向かった兵をも検知しているはずです。異人ヤマダガクトに危険が及ぶとなると、彼は林を突っ切る最短距離で向かわざる得ません。しかし、そこにはハーネス邸に向かったと見せかけた、我が精鋭部隊が待ち構えています』
『林で? 逆に不利ではありませんか?』
『精鋭部隊の彼らは魔力を探知して、目標の位置を把握できます。ですので視界の悪い場所ではむしろ有利と言えるでしょう。彼らが相手ではたとえジェイクといえど、そうやすやすと突破できません。それにーー』
『それに?』
『討ち取る事が目的ではありません。彼と会話ができればそれで良いのです』
ルアージュを乗せた竜は闇夜を駆ける。
領都を出てしまえば林までは起伏が無く、障害物もあまり無い。風を切る音と、大地を蹴る重鈍な音だけが耳に入る。
風圧から相当な速度に達している事がわかる。仮に並走できる竜を探すとなると、それはかなり骨が折れるだろう。しかし竜からはそれほどの振動は感じられない。明らかに騎手を意識した走りだ。
速度、乗り心地共に非の打ち所が無い。
この調子で進めば、林の手前でジェイクに追い付けるのでは? とも思ったが、どうやらそういうわけにもいかなかったらしい。
突如闇から這い出た林を前に、竜がひとりでに止まって頭を仰け反らせる。
指示を待っているのだ。
ルアージュはすぐには突入せず、林に神経を集中させる。
まず何も聞こえ得てこないという点だけで、十分警戒するに値する。本来であれば領都で別れ、先行させておいた精鋭部隊が待ち構えているはずなのだ。
ジェイク保護のために編成した特別な部隊だ。よもや既にやられてしまったとは考えがたい。
さもなくば強引に突破されて、追跡劇が繰り広げられているのだろうか。
仮に夜明けまで様子を伺っても、これといった変化は起こらないだろう。ルアージュはゆっくりと、慎重に林の中へと竜を進めた。
しばらく進んだ所で唐突に人の気配を感じ、竜がひとりでに足を止めた。
彼、あるいは彼女が止まった理由はすぐに察する事ができた。竜の腹に接する足から伝わってくるのだ。小刻みな震えが。
それが怯えからくるものだと本能的に感じた。。
かくいうルアージュ自身も動けずにいた。
背中越しに鋭い魔力を向けられているのを感じる。気配の主がその気になれば簡単に首を飛ばされてしまうだろう。
冷たい刃を首筋に当てられている気分だ。
決して迂闊だったわけではなく、なのにいとも容易く後ろを取られてしまった。この状況を打開する手段を、すぐに思いつけそうにない。
『私はこの辺りの地理にはあまり詳しくないのだがーーこれは見たままの感想だ』
女の声だ。
さも世間話をしているような、穏やかな声色だった。話の内容だけ見れば、実際そうと言えるだろう。
『この林はほとんど人の手が入っていない。その証拠に木の根元は雑草ばかりで土壌が見えない。木々も貧相なものばかりで、あまり動物もいないのだろう。とても静かな場所だ。伐採、狩猟、どれを取っても規模としてあまりにも貧弱だ。昼間であろうと普段から誰も立ち入らないのであろうな。そうは思わないか?』
問いかけられているようで、実はそうでない。むしろまだ発言は許されていないのだ。
ルアージュが答えるのを待たぬまま、女の声は続いた。
『そこで考えてみたのだ。太陽が落ちたこの頃、どういった人物がこのような林に来るのかと。理由などそう多くないのではないかと私は考える。人の目に触れたくないような、なにか特殊な事情を抱えた者。あるいは何かを追って、踏み込んできた者ーーさて、騎士さまは一体どういった用でこの場にいるのかな?』
魔力は未だ向けられたままだ。
ルアージュは振り向く事もできず、そのままの姿勢で答えた。
『我が名はルアージュ。アイゼルハイム王国国王直属の騎士である。我らに敵意は無い、その魔力を収めてはくれないか? 堕天使メルティアーナ』
『堕天使ーー?』
ひとつの単語に反応したメルティアーナは、飲み込もうとするように呟き、そしてたまらずに吹き出した。
『ーーくく、はっはっは。堕天……堕天か。それはいい。ああそうだ、私はたしかに堕天した』
『大体の事情は知っているつもりだ。中継都市では軍の侵攻の罪を被ってくれたそうだな。国王陛下に代わり感謝を申し上げる』
意思を示したというのに、メルティアーナは依然として攻撃的な姿勢を崩さない。
むしろ魔力をより強めて、しかし口調は穏やかなままだった。
『お前は勘違いしているようだが……敵意の有無は私が決めるのであって、お前ではない』
『……たしかに』
『いいだろう、ゆっくりだ。ゆっくりとこちらを向け。それ以外に不審な行動を取れば即刻首を斬り落とす』
言われるがまま、ルアージュは手綱を操ろうとするーーが、竜は頑なに動こうとしない。
『竜が怯えて動けない。頼むから魔力を引っ込めてくれないか?』
『そうか、それはいけない。しかしお前はそうではないのだろう? ならばお前が降りてこちらを向けば良いではないか』
無論、ルアージュに降りる気はさらさらない。足を失ってしまえば、ここでジェイクを見失う事になる。
ルアージュは身を乗り出し、そっと恐竜の頬を撫でてやる。
僅かながらも安心感を得たのか、それとも観念したのかはわからないが、恐竜は緩慢な動きであるものの反転を始めた。
『いい子だ』
メルティアーナの姿が目に入ると、ルアージュは思わず息を飲んだ。
淡い光に包まれながら周囲には粒子がキラキラと舞っている。
人形のように整った顔と、そこにある鮮やかな青い瞳はいつまでも眺めていたいという願望を湧き立たせる。大戦時に見た、どの天使とも違っていた。
妙に柄の長い槍斧を突きつけられていたが、そんな些末な事は気にならないほどに、その美しさに見惚れてしまっていた。
頭に浮かんだ言葉は単純なただの一言。
神秘的。
ただのそれだけだった。




