143.客人 2
ひとしきり笑ったあと、小鳥は居ずまいを正す。
可笑しくて、声を出して笑ったのはいつぶりだろうか? 初めてかもしれない。こちらの世界に来てから。
名残を惜しみつつも余韻を振り払い、学人に目を合わせた。
「あくまで可能性の話です。私は仮想空間を前提に帰る方法を探りますので」
「僕は現実世界として帰還方法を探せばいい」
「ええ。危険は承知ですがお願いします。もちろんご家族と再会したあとで構いません」
「たしかに僕が適任だろうね。これからも色んな場所を旅するだろうし、期せずとはいえ貴族の身内になってしまった。でも……」
「おっしゃりたい事はわかります。仮に方法を手に入れたとしても、無事に帰れる保証が無い。いえ、それどころか帰れない可能性の方が圧倒的に高いでしょう。常に動いている地球をどうやって補足すればいいのか? 時代は? ジェイクさんとヒイロナさんの例で見れば、亜空間という場所に少し居ただけなのに、この世界では二年という歳月が経過していた……。つまり時間の流れという概念が破綻している」
小鳥は寸分違わず学人を代弁している。しかしまだ足りない。重要な部分がまだ足りていない。
帰れる、帰れない以前の話だ。ここまで考えが一致しているのだから、きっとその欠けている部分も彼女は持っているのだろう。
帰る事が本当に正しいのか。
いや……正確には――
「全てを失った人が大勢いるのは小鳥さんが一番よく知っていると思う」
「ええ、痛いほどに」
「その人らは帰っても何も無いんだ。そんな危険を冒してまで帰る意味があるとは僕には思えない。むしろこっちで得た何かを失ってしまう」
「そうなりますね。“何か”を持ち帰るわけにはいきませんから」
「僕の思い過ごしだったらいいんだけど……小鳥さん。君は全員で帰る話を前提にしてないかい?」
「帰るか残るか。それは各々の判断に任せるべきだ。そういう事でしょう? 私もそう思っていました。少し前までは」
やはり行き着く問題と、それに対する答えも一致していたようだ。ただし少し前までは。
今は違う。彼女は今、個人を尊重する気は無いようだ。
短期間でなぜ考えを改めるに至ったのか……。学人は視線で続きを促した。
「岩代さんが亡くなりました。私たちが都市を発つ数日前の話です」
岩代。病院で立て籠もっていた難民を指揮していた人物だ。
原因は何だったのだろうか。戦争の負傷か? 病気か? わざわざ今このタイミングで出したという事から、深く関係しているのは明白だった。
「死因は……あれを衰弱死と呼んでいいのなら衰弱死です。病院にいた時からあまり体調が優れなかったようで、お医者様と治癒師様が手を尽くしましたが、原因は結局わからないままでした」
「でした? 判明したの?」
「ジータさんに診ていただいたんです。私たちの脳が魔力を吸収している話はご存知かと思います。たしかに恩恵は大きい。我々がこの世界の言語を短期間で理解できたのも、きっとそのせいでしょう。脳が活性化している。でも同時に負担が大きいんです」
「つまり岩代さんは脳への負担に耐えられなかったと……」
「ええ、子供や高齢の方にはそのようです」
「ちょっと待って。という事は」
病院――あそこにはそれなりの数の老人や子供がいたはずだ。
小鳥もはっきりとは口にしないが、彼らがどうなったのか想像に難くない。
皆、死んだ。
「そういった理由で、我々は少なくともこの世界には居られないのです。このままでは次の世代にバトンを渡す事なく、ゆっくりと全滅していくだけでしょう。未来で待っているのは、お互いにとって不幸なだけなんです」
学人は椅子に体重を委ねた。
これが硬い木の椅子ではなく、ふかふかのソファーだったらどれほどよかっただろうか。はね返ってくるゴツゴツとした感触はとても不愉快で、意気消沈さえ素直にさせてくれない。
今はとにかく沈む気持ちに逆らわず、ただただ身を任せたい気分だった。
「それでもいいから残ると言い張る人がいたら?」
「認められませんし、あの最期を見ればそんな事を言う人はいないでしょう。衰弱死と言っても安らかなものでは無いからです。激しい頭痛に何日ものたうち回った挙げ句、最終的に死に至ります。痛みでどうにかなったのか、自分の両目を抉った方もいらっしゃいました」
胃薬が欲しい。呑気にも学人が思ったのはそれだった。
このまま話を続けていては早い段階で胃がやられそうだ。
「わかった、引き受けるよ」
「ありがとうございます。もちろん任せっきりになるという事はありませんので」
その後小鳥からは、中継都市では既に周知の事実である旨が説明された。
それなりの人数がそのような最期を遂げているのなら、さすがに隠し通せるものでもなかったのだろう。中継都市にいる全員が、一丸となって向き合わなければならない問題だ。
「まあ、貴族の肩書きが役に立ちそうでなによりだよ」
普通なら踏み入れられないような場所に切り込む事も可能だろう。
半ば投げやりに言うと、小鳥は強い眼差しで学人を見た。
「誤解しているようですが、仮にあなたが中継都市に留まっていてもこうやってお話をしていたと思います。それはあなたが強い人だからです、学人さん」
強い人? そんな馬鹿な。
ここまで常に誰かに助けられてきた。でなければ一体何度死んでいただろうか。
そしてこれからも、誰かの助けがなければ進めない。一人でなら、次の都市さえもたどり着けないだろう。
どれだけ譲っても、決して強いとは言えない。
苦い顔の学人に小鳥は続けた。
「強い、というのはなにも腕力に限った話ではありません。どんな事実を突きつけられようとも、諦めずに前に進む意志のある人が“強い人”だと思いませんか。そうでしょう? 傭兵を率いて病院に行った時のように」
陳腐な台詞だ。
しかしこの世界で生きていくには大事な事かもしれない。
「転移した原因。その話をするあなたには、諦めや絶望といった感情がこれっぽっちも無かった。私に遠慮するわけでもなく、世間話をするように淡々と。理解を超える話だから? 個人でどうにかなる話でもないから? いいえ、どちらでもない。まるで実現可能な方法を知っているみたいに」
探りを入れるかのような口調に、学人は背筋が冷たくなるのを感じた。
小鳥の観察力がすごいのか、それとも女の感というやつだろうか。きっと両方だ。
学人が渋い顔をすると、小鳥は焦ったように取り繕った。
「いえ、すみません。別に不快にさるような意図はないのです」
「いいよ。要するに自信を持てって言いたいんだろう?」
そういう事にしておいた。
再会直後に気まずい雰囲気を作ることもない。
小鳥は咳払いをし、
「とにかくあまり入れ込まないように気を付けてください」
「肝に銘じておくよ」
「それと――明日、領主に謁見します」
やはりそれが一番の目的だろう。
大方、領主の人柄について聞き取りでもしたいといったところか。しかしそれならば――
「領主についてならジェイクに聞くのがいいと思うんだけど?」
「もう聞きました。でも、出てくるのは悪口ばかりで参考になりません」
子供か。
呆れて言葉も出ない。
「気になりますか? お二人の関係」
「ああ……いや、まあ」
「もしもの時の人質として同行していただいているユージーンという方から、二人の間に何があったかお話を聞きました」
嵐の夜、最終的にヴォルタリスとは共闘関係にあった。その時は共通の敵が有り、一体感すらあったものだ。
しかしそれでも昔を水に流す事はできなかったらしい。余程の事があったのだろう。
たしかに気にはなるが、本人が話す気になるまでは余計な詮索をしたくない。煮え切らない態度を察したのか、小鳥はそれ以上踏み込もうとはしなかった。
「領主とは和平交渉に臨むつもりです。もちろん、相応の賠償をしてもらった上での話ですが」
皆の納得できる落とし所が果たして見つかるのだろうか?
そうするのが一番だと理解していても、心は納得しないだろう。それだけの人間が傷付いて、そして死んだのだから。
「これを、持っていていただけませんか?」
言いながら、小鳥がバッグから一本の金属製の筒を取り出した。
「これは?」
「ジータさんの書簡です。我々と魔力の関係が記されています。要約すると、魔力の消失は微々たるもので、この世界にほぼ影響の無い旨が説明されています」
「どうしてこれを僕が? 明日必要になるんじゃないのかい?」
「念のためです。一応言っておくと、ジータさんは同じ物をいくつか用意してくれました。中継都市にも何通か置いてありますけど、もし私たちの身に何かがあったら、その時はそれを上手く利用して皆さんの身の安全を確保してください」
「マジですか……」
えらい物を受け取ってしまった。
すぐにでもつき返したい気持ちだが、小鳥はもっと大きなものを背負っているのだから、とてもそんな真似はできない。
「最後になりましたけど、ひとつ重大なお知らせがあります」
最後になったのではなく、したのだろう。
つまり、その重大なお知らせとやらは、書簡に対する報酬といったところか。
しかし話を聞こうとした直前、扉の向こうがにわかに騒がしくなった。
怒鳴ったり喚いたりといった風ではないものの、しかし切羽詰まったような雰囲気が伝わってくる。その声に、侍女の一人が受け答えしているようだ。
それも束の間。扉が乱暴に開け放たれた。
ペルーシャだ。
『ニャんや、誰や?』
小鳥と目が合い、場が凍った。
いくら恋愛感情の無い結婚とはいえ、新婚早々他の女を連れ込まれれば良い気はしないだろう。
来る修羅場で先制したのは、学人の『違うんだ!』という台詞だった。
『いや違う事はあらへん。あんまりよろしくないとアタシは思う』
『本当にごめん、違うんだよ。招き入れたのは僕だ。だから僕が責められるべきなんだ』
『は?! 自分マジか。ニャんや、あいつら知り合いニャんかいニャ? どういう関係や?』
『いや、その。こちらは吉村小鳥さん。僕と同じ、日本の生き残りだ』
ペルーシャは学人と小鳥を交互に見て、
『……よーしわかったガクト。一旦落ち着こうニャ? はい、深呼吸。吐いてー吸ってー。水も飲む? アタシが言うてんのはそっちやニャいから。あんまり歓迎されへん奴らが来た』
――公爵邸。
腕を回し、首を回し、上半身をひねる。体の調子を確かめていたジェイクは、もう問題ないとの結論を出していた。
シャルーモから受けた傷はほぼ完治している。動けばまだ痛むが、無理というほどでもない。
『ロナ』
テーブルでお茶をすするヒイロナに声をかける。
つま先で床を押し、椅子をカタンカタンと鳴らしている。よほど退屈なのだろう。そのくせ向かいで瞑目しているメルティアーナとの会話は無い。
なんだこいつら気色悪りぃ、と思いながら、返事の無いヒイロナにもう一度声を投げた。
二度呼ばれ、どこか遠くから引き戻されたような反応を返した。
『なに?』
『悪いがザットを探してきてくれ』
『どうして?』
『使いを頼みたい』
『お使いくらいならわたしが行くわよ。なに?』
『テメーに任せられないからザットを呼んでんだよ』
『ふうん。随分と仲が良くなったんだね。そんなに仲良しなら口笛でも吹けば飛んで来るんじゃないの?』
ブツブツと不満を漏らすヒイロナにうんざりする。
学人の一件からずっとこの調子で、八つ当たりをされていい迷惑だ。
使いとは学人への伝言なのだが、こんな状態のヒイロナにハーネス家を行かせられるわけがない。
遅くとも数日中には領都を出た方がいいだろうと、ジェイクは考えていた。この土地ではあまりにも目立ち過ぎた。
旅の目的は学人の身内を探す事である。目立てば目立つほどトラブルを呼び寄せる可能性が高く、それは旅の障害にしかならない。
身支度をするヒイロナの奥。テラスを見てジェイクは固まった。
長い黒髪をなびかせて、遠くを見つめる女が立っている。顔はわからない。
『ロナ、そこにいるのは誰だ? いつからそこにいる?』
訊いてから、自分が間抜けな質問をしている事に気付いた。ここしばらくはこの部屋に誰の出入りもなかった。
仮に侵入者だとしても、三人いて気付かないはずがない。
『誰って? 何が?』
ジェイクの視線につられて、テラスを見たヒイロナはきょとんとしている。
『何がってお前、そこに――』
ふと、女がこちらを向き、顔を見たジェイクは言葉を詰まらせた。
そんな馬鹿な。ここにいるはずがない。自分の腕の中にあった彼女は間違いなく死体だったし、たしかにこの手で体を灰にした。
『ジータ……』
ジータが何かを訴えるような瞳でこちらを見つめている。
霊体か……。いや、それにしては……。
目をこすり再びテラスを見ると、そこには当然のように誰もいない。
『ジェイク? 大丈夫?』
『すまない、なんでもない』
念のための確認をと、テラスに出る。ただの幻覚だ。
しかしそんな幻覚を見るだなんて、罪悪感を抱いているのだろうか? いや、散々拒絶をして見せて、それでも追いかけ続けたのはジータだ。
だからそんなはずがない。
何気なく幻覚が見ていた方向を見やる。跡形も無くなった正門付近で、無数の炎が動いている。
規則正しく並んだ無数の炎は、一直線に城へ進んでいるように見えた。無性に気になったジェイクは、双眼鏡をいた。
『ロナ、やっぱりお前が使いに行け。ガクトに伝えるんだ。今すぐにここを発つ!』
『なによ突然、どうしたの?』
ジェイクに促され、双眼鏡を覗いたヒイロナもやはり声を上げた。
『あれ……国王軍?!』
別に国王軍が来る事自体はおかしくない。これだけの惨劇があったのだから、むしろ来ない方がどうかしている。ジェイクはむしろ国王軍到着前に、できるだけ領都から離れたかった。
しかし目的は本当にそれか?
到着があまりにも早すぎるのだ。事前に知っていなければ、今頃の到着になるはずがない。
そしてもっと最悪な事に――
『それだけじゃあねえ。あれは“悪魔の右腕”ルアージュの紋章だ』
ジェイクの危惧していたトラブルは、唐突に舞い込んできた。




