142.客人 1
新聞、テレビ、インターネット。これらの優れた情報網が無いこの世界では、情報屋という職業が活躍している。彼らは独自のルートや方法を駆使して都市から都市へ、情報をいち早く伝達していく。
鮮度の高い情報はもちろんその分値段が張り、発信源から距離があればあるほど、それに比例してさらに跳ね上がる場合も少なくない。
商人や旅人たちによって届けられてしまうと、それはもう腐った情報として売り物にならない。当然だ。誰でも知っているような事に金を出す馬鹿はいないからだ。
ヒルデンノース軍、中継都市にて敗北。そう題された情報に学人は耳を傾けていた。
提供元はハーネス家専属の情報屋で、その入手速度は一般の情報屋よりも早い。つまり今聞いているのは、まだ領都まで伝達されていないはずの物である。
学人は文字の読み書きができないために、こうやって朗読してもらっている。
戦闘の様子や死傷者などの被害情報が詳細に告げられる。
ジータ・クルーエルは戦争を鎮めた英雄として讃えられていた。ヒルデンノースの兵を洗脳して戦争を引き起こそうとした暗躍者、天使族メルティアーナは逃亡。ジータが後を追ったが、その足跡は掴めていない。
概ねヒイロナから聞いた話と一致している。中継都市で起きた事の全てが、メルティアーナに擦り付けられていた。
居たたまれない気持ちになるが、これが最善なのだとメルティアーナ本人も言っていた。そうでなければ戦争に終わりは見えず、全面戦争に発展しかねない。
最後に、洗脳を解かれたヒルデンノース軍は都市復興に尽力している。という言葉で締めくくられていた。
気になるのはメルティアーナの今後だ。彼女の無実を知る一部の貴族によって、今は保護されているが、先が全く見えない。
『旦那様、お客様がお見えです』
聞き終えたタイミングを見計らったのか、エヴリーヌが迎えに来た。
旦那様。間違ってはいない。しかしそう呼ばれるのには少々抵抗がある。正直なところやめてもらいたいのだが、どうやらそういうわけにもいかないらしい。
思わず聞き流しそうになってしまったエヴリーヌの言葉に、学人は改めて首をかしげた。
『客? ……僕に?』
誰だろう?
領都での交友関係などたかが知れているのに、わざわざ客と言うのはエヴリーヌに面識が無いからだろう。しかし学人自身にも思い当たる節が無い。
『騎竜兵を引き連れた女性で、ヨシムラコトリと名乗っておりました。あれは流星リーザの手の者、お心当たりがないのであれば叩き返しますが』
『いや、通してくれ』
……。
学人とペルーシャの住まいは本邸から少し離れた場所にある。
自由に使ってよいとアルベルトから贈られた、清らかさを表現したような真っ白な屋敷だ。情報屋のいる本邸を出て、到着した頃にはすっかり日が暮れていた。
竜に跨る戦士が数人、その中心にいるのは――間違いない。
「お久しぶりです、学人さん。ヒイロナさんからこちらにいると伺いましたので」
「小鳥さん、ご無事でなにより」
どうしてここにいるのか、などという野暮な事は訊かない。領主ヴォルタリスと話をつけに来たのだろう。
にこやかだった小鳥は学人の右腕を見ると、言葉を詰まらせながら眉をひそめていた。
「学人さんこそご無事で――とはいかなかったようですね……」
「ご結婚おめでとうございます」
客間で出された紅茶を飲みながら、小鳥の第一声はそれだった。
しかし純粋な祝福ではなく、どこか苛立ちを含んでいるようにも感じられた。別に悪い事をしたわけでもないのに、学人は目を逸らさずにはいられない。
「ヒイロナさんが随分とご立腹でしたけど?」
詳しい話を聞いたわけではなく、ヒイロナの態度を見て何かやらかしたのだと思っているらしい。
できれば触れずにいてほしかったが、それは無茶な注文だ。久しぶりに会ったら結婚していて、大きな屋敷で旦那様と呼ばれているのだから。
誤解があってはいけない。ヒイロナの怒りはペルーシャに向けられているものだ。もっとも、ペルーシャを庇う学人にも矛先は向きつつあるが。
「……いや、それは本当になんと言うか。どっちかって言うと僕も巻き込まれた側……です。はい」
経緯を説明すると、小鳥は一応納得したようだった。もちろんヒイロナの怒りに対する納得だ。
ペルーシャが外出中で心底よかったと学人は安堵した。小鳥からも苦情が行くに違いない。
「でもそれを聞いて安心しました」
「え? それはどういう」
「私たちはいずれ帰る身ですから、学人さんがこの世界に入れ込んでいるのではないかと心配で」
いずれ帰る身、か……。
もし帰る方法があるとすれば、それは女神の魔力が不可欠である。あるいはその魔力に干渉できた生命の魔力があれば、代替品として何らかの可能性を見出だせたかもしれない。
しかし女神は既にいないし、生命の魔力もシャルーモが持つごく僅かだけだ。
現時点で帰ると言うには見通しが暗い。いや、絶望的である。
シャルーモが話していた、ジェイクを含む四人を殺すというのは当然論外だ。話すわけにもいかない。
それ以外の知り得た情報を聞かせると、小鳥は静かに「そうですか」と言うばかりだった。
「月が綺麗ですね」
席を立ち、窓から外を覗いた小鳥が言った。
つられて見上げる。少し欠けてはいるものの、夜の散歩をするには十分な明るさだ。
「でも僕はまだ死にたくないかな」
「そういう話ではなく、ただ純粋に綺麗だとは思いませんか?」
「綺麗だけど……それが何か?」
学人は怪訝に小鳥を見やる。
視線をかわすような簡潔な笑みを浮かべた小鳥は、ところで……と切り出した。
「学人さんはこちらに来てから息苦しいと感じた事はありませんか?」
「いや……」
「そうですか。では体を重く感じた事は?」
「運動した後以外でだったら、無いかな」
「目がかすむだとか、目眩がするといった事は?」
「特に無いけど、これは何の質問?」
これでは……これではまるで診察のようだ。
直接的に訊き返すのをためらったのは、ずっと頭の片隅にある事があったからだ。
未知の病気。
地球に住まう人類にとって初めて足を踏み入れた土地なのだから、そういった不安が常にあった。未知の病気と遭遇し、それが死に至るようなもので、さらに疫病だったなら即全滅だ。
もしや中継都市で誰かが発病したのでは? とも思ったが、そんな報告は一切無かった。
不自然に始まった質問のあと、続く話は学人の思い描いたものとは全く違った。
「あの月。距離が一体どのくらいあるかご存知ですか?」
「月? そう言えば気にしたことなんてなかったな」
「私の計算での話ですが……大きさはたぶん直径三五〇〇キロ、距離はおよそ四十万キロほどでしょうか。常に動いているわけですから、あくまで目安といった程度でしょうけど。それを踏まえた上でこの間の月食を参考に導き出した、この世界の大きさは約一三〇〇〇キロ」
聞いた事のある数字だ。そうだ、あれは小学生の頃、誰もが一度は耳にする――
「よくできていると思いませんか? この世界は。酸素濃度は同じ、大きさも重力も同じ。月があって、太陽がある。地球の、私たちの月というのは極めて稀な存在だそうですよ。衛星にしては大きすぎる、あまりにも」
「小鳥さん……もしかして君は、君はここが地球だとでも言いたいのかい?」
「いいえ、違います。そうだとしたら、説明のつかない部分がたくさんあります。私が言いたいのは、ここが地球を模して創造された世界だという事です。以前に少しお話しましたよね? 集団催眠の話」
言われればそんな話をした気がする。他国から新兵器か何かで攻撃されて、夢を見せられているのではないかと。
しかしそれは否定したはずだ。夢にしてはあまりにも鮮明すぎる。特に、肉体的な苦痛はどう説明すればいいのだろう?
改めて否定すると、意外にも言い出した張本人も学人と同意見だった。
「私はここが仮想世界である可能性が極めて高いと考えています。そして、そこにこそこの世界から脱出する糸口が隠されている
「仮想世界……プログラム……まさか君は」
この世界がプログラムにより形成されているとすると、抜け出す方法――つまりクリアするには用意されたイベントを完遂する事が真っ先に挙げられる。
ところがそんな物はどこにも見当たらない。ただのひとつを除いて。
他に方法があるとすれば――
「君はまさか、あるかどうかもわからないバグを探し出そうっていうんじゃ」
「その通りです。これだけの大規模なプログラムだとしたら、必ずどこかにバグがあるはずです。どんな些細な物でもいい」
そこを突けばあるいは……いや、もし発見できれば、それだけでも大きな前進となろう。
席に戻った小鳥は、視線でテーブルをなぞり、眉間にはしわが浮かんでいた。
そのまま沈黙したかと思うと、次いで周囲をうかがう素振りを見せる。まるで、警戒をしているように。
「誰にも聞かれたくない、言いにくい事? 大丈夫。誰も日本語なんてわからないよ」
「ええ、それはわかっています」
小鳥は険しい顔つきのまま瞑目し、やがて決心したように口を開いた。
「……実は、ひとつだけ見つけてあります」
小鳥の表情をそのまま写したかのごとく、学人は顔を強張らせた。
「今なんて?」
聞き間違いか? 念の為に、大事な事なのでもう一度訊く。
「まだ誰にも話していないのですが、バグ――というよりもこれは仕様なのだと思います。とても簡単な事だったんです」
話を進める小鳥に対し、学人の頭は置いてけぼりだ。突然の告白だけが、頭の中で反復されている。
小鳥もそれに気付いていたが、待つつもりは毛頭もない。呆けそうになっている学人の名前を呼び、意識を向けさせてから続けた。
「いいですか? 胸に手を当てて、たったの一言だけ呟けばいいんです。簡単でしょう? そうすれば今自分がどういった状況であるのか、一目でわかるんです」
「そんな馬鹿な」
「ええ、本当に馬鹿げています。私も最初は認めたくありませんでした。ちなみに私は、レベル三十五の女帝だそうです」
いや、ありえないと断言できる。普通に考えてありえない。しかしそれなら“普通”とは何だ? という話になってくる。世界転移が果たして普通と呼べるだろうか?
答えは考えるに及ばない。“普通”ではない。
学人は吉村小鳥を見た。視線はしっかりとこちらを向き、彼女は至って真面目に話をしている。それなら試さずにはいられない。
半信半疑のまま胸に手を当て、緊張のあまり大きく息を吸い込んだ。
発するべき言葉は――
「ステータス・オープン」
結論を言うと、何も出てはこなかった。
何かやり方がまずかったのか? 混乱を極める学人の思考を遮ったのは、
「――ップ!」
小鳥が口から吹き出す息の音だった。
「す、すみません。フフ、まさかそんな。こん、こんな見え透いた嘘に、本当に真に受けて、しまうなんて」
肩を震わせながらも、必死に笑いをこらえている。
「小鳥さん、あのさ……」
「本当にすみません。クク……でも、でも大丈夫です。その、私もやりましたから!」
「そうじゃなくて」
吉村小鳥との付き合いはあまり長いとは言えない。しかし中継都市に滞在していた短い期間の中で、学人から見た小鳥の人物像からは、意味もなく人を不快にさせるような冗談を言う風には見えなかった。
意図を確かめようと、不満げな視線を送る。すると、小鳥はポツリポツリと語り始めた。
「その、時々……時々なんですけど、不安に、なるんです」
学人は以前、小鳥に尋ねた事があった。前の生活でも人を率いていたのか、と。
返事は違った。中小企業の人事をしていただけで、部活動やサークルの部長経験すら無かったのだ。
それが今は彼女の判断ひとつで、多くの人の命を左右する立場にある。その重圧は計り知れないだろう。
「違います。そうですけど、そうじゃないんです。本当は普段と変わらない日本での生活が続いていて、私にだけ、違った景色が見えているのではないかと……そう、不安になるんです」
学人は押し黙る。どう声をかけていいのかわからない。
短い沈黙のあと、ふいに、小鳥が口元だけでくすりと笑った。
「でも大丈夫でした。少なくとも、あなたと私は同じ物を見ているようです」
それであの冗談か。いや、本人からしてみれば大真面目な話だったのかもしれない。
あのやりとりでどう不安が払拭されたのか、学人にはいまいち理解できなかったが、本人の気が晴れたのであればそれでいい。
「ちなみに、他の人にも同じ事をやったの?」
「まさか。気が触れてしまったのかと思われて大事になってしまいます。あなたは特別ですから」
「え?」
「あ、変な意味ではないですよ? 竹岡純平、北泉京子、山田学人。この三人は私の中で特別なんです。三人とも、中継都市には留まらなかった。特にあなたにとってあの都市は、ただの通過点でしかなかったので」
小鳥は手に持ったカップに視線を落とし、しばらく弄んだあと、残念そうに言った。
「ステータスの書かれたウィンドウでも出てくれればよかったのに。そうだったらよかったのに」
「たしかに、そうだったらよかったのかもしれないね。あとついでに家の庭がジャングルで、飼い犬がライオンだったら……そうだったらいいのに」
「学人さんは知らないのかもしれませんけど、ライオンはネコ科の動物なんですよ?」
二人はどちらともなく笑みを交わした。
本当に――そうだったらいいのに。




