141.狂い咲き
この世界で絶対に安全な場所と言える場所は存在しない。
これは学徒が肝に銘じていたはずだった。
都市の外では魔獣が獲物を求めて目を光らせ、内側でもペルーシャに誘拐されたのがいい例で、安全であるとはとても言い難い。
しかし、ハーネス家の敷地内であっても例外ではないとは考えてもみなかった。
分厚い雲に隠れていた月が顔を出したようで、窓から月明かりが差し込む。真っ暗闇だった視界が開けた。白を基調とした建物なせいか、光を反射して思ったよりもよく見える。
学人は今、人気の無い廊下にいた。
「う……」
ゴードンに刺された脇腹が痛む。無理もない。怪我をしてからまだ二十四時間も経っていないのだから。
決闘のあとずぐに学人は気を失った。ペルーシャの持ってきた水を飲むと一瞬で落ちた。
またか……。自分を呪いたくなる。
意識を取り戻したら、ペルーシャと共に馬車に乗せられていた。移動用の物ではなく、何らかの儀式の際に用いられる華やかな装飾の物だ。
儀式とは結婚式である。
さながらパレードのように領都を練り歩き、ハーネス家と山田家――つまり王国の貴族と異人の貴族が縁を結んだと世に知らしめるのが目的だ。
もっとも、相手がゴードンであってもこれは行われていたのだろう。いくらなんでも準備が良すぎる。
ハーネス家の屋敷に戻ると饗宴が催された。
それは上流階級の華やかなイメージとはかけ離れたものだった。
食欲、物欲、色欲。ありとあらゆる欲を集めて詰め込んだような、狂宴と呼ぶにふさわしい。食べ物や酒、果ては体液の入り混じった悪臭が屋敷中に充満する酷い有様だった。邪教徒の儀式と教えられれば信じてしまいそうなほどだ。
「うぷ……っ」
思い出しただけで吐き気がする。頭が痛い。学人が飲まされて潰れるまで、そう時間を要しなかった。
次に目を覚ませば、この館の一室に寝かされていた。
口に当てた左手に違和感を感じる。見れば、いつの間にか小指に金色のリングがきらめいている。
誓いの言葉が無ければ誓いのキスも無い。元々は当人の気持ちなど一切無視した縁談なのだから、既成事実さえあればそれでいいのだろう。
本当に知らないうちにはめられたこの指輪は、呪いの指輪にさえ思えた。
――ヒタ――ヒタ――ヒタ
耳の奥に足音を感じて振り返る。
幻聴だ。そんなものが聞こえるはずがない。しかし脅威は確実に迫っている。
捕食者の視線を背に浴びながら、学人は足を進めた。
どうにかしてこの建物から逃げなくては。
ここは一体どこなのか。
人の気配を感じないので、少なくとも宴のあった場所とはまた違うようだ。なによりあの不快な臭気がどこにもない。
貴族の館というのはどうしてこんなにも複雑な設計がされているのか。そこまで大きな建物でもないにもかかわらず、迷路のようになっている。おかげで下階への階段が見つからない。
いくつか扉を開け、部屋を通り抜け、ようやく階段を発見した。
道理で見つからないわけだ。数ある部屋のひとつが階段部屋となっている。
学人は来た道を振り返り、まだ安全である事に安堵しつつ中に進む。
階段に足を降ろそうとして、しかしそこで踏みとどまった。
階段を折り返した先、つまり下階から明かりが近付いている。姿を現したのは女で、手に持った明かりを揺らしながら、ゆっくりゆっくりとこちらへ上がって来る。
やがて踊り場に到達すると、こちらに背を向けたままその足を止めた。
後ろ姿で逆光ゆえに誰だかはわからない。だがシルエットからして、侍女の一人である事がうかがえる。
『いかがされましたか? こんな夜更けに。クスクス』
この声はエヴリーヌだ。知った人間と出会ったことで、学人は方を撫で下ろした。
だがそれも一瞬、緩みかけた気を引き締める。彼女は本当に自分の知っているエヴリーヌだろうか? 学人は少し上擦った声で返事をした。
『ちょっと、お、お腹……そう、小腹が空いたから、コンビニにでも、行こうかな……って』
『……? コンビニという物が何か存じ上げませんが、クスクス……でしたらお夜食を用意致しますので――』
言いながら、ゆっくりとこちらを向く彼女の顔は、目の据わった笑顔に歪んていた。
『――どうぞ、フフ……お部屋でお待ち下さいませ』
普通じゃない。
その証拠に、言葉とは裏腹にエヴリーヌは足を更に上段へと乗せている。クスクスと含み笑いをし、瞳は常軌を逸していた。
口調も妙だ。エヴリーヌは侍女でありながらも丁寧な言葉遣いが苦手で、砕けた物言いを混ぜてくる。
『なるべく早く頼むよ』と言い残して、学人は慌てて扉を閉めた。
――ヒタ――ヒタ――ヒタ
まただ。耳奥で足音が聞こえる。
目視できる範囲には誰もいない。聞こえるはずがないのに、さっきよりもかなり近付いている。徐々に追い詰められている。
学人は目についた扉にすがり、中へ身を隠した。
心臓が高鳴っている。
足音に聞こえたものの正体はこれか? 静寂に包まれた部屋の中では、より大きく感じる。
月明かりの漏れる窓に近付く。他に出口は無く、最悪の場合はここからの脱出も検討しなくてはならない。
しかし外を覗いて、その案は即座に却下された。ここが何階に位置するのかわからないが、天井が高いせいもあって、とても飛び降りられそうにない。
そうしているうちに扉の向こうに気配を感じた。
エヴリーヌか、それとも――
「お願いだ、そのまま通り過ぎてくれ……」
学人は呟きながら願った。
しかしその願いも虚しく、無情にも扉は開け放たれた。
現れた影にはギラリと二つの瞳が浮かんでいる。捕食者の鋭い眼光を受け、学人は身動きすら取れずに腰を抜かす。
普通じゃない。
『ま……待って、落ち着いて一旦話し合おう!』
懇願とも見える提案に、影は首をかしげて静かに佇んでいる。
『ほ、ほら、この通り怪我してるしさ。また今度っていうことで』
影はようやく呆れたような声を発した。
『だからニャんやねん? そんくらいの傷、死ぬわけやあらへんやろ』
あ、駄目だ。聞く耳なんて持ってもらえそうにない。
『それにほら! 別に誤魔化せばいいだけじゃないかな!』
『はぁ? そんニャもん匂いでバレバレやんけ。阿呆か』
ああ、これだから獣人族は……。普段頼もしい嗅覚が、今は自分を追い詰めている。
彼女から逃げ切れるはずがないのだ。それは以前に何度も経験済みだ。
影は獲物に喰らい付こうと、じりじりと距離を詰め始める。
『前は我慢したったやろ。それともニャんや? ヤマダガクトは無能ですって開き直るか? ああん?』
それはそれで嫌だ。後日ジェイクにどうからかわれるかわかったものではない。
でも、しかし――
『観念せえや、男の子やろ。よかったニャあ? アタシがそういう時で』
普通じゃない。
牢獄で見た、あのギラギラとした眼だ。
言葉はもはや無力で、情けない話、腕力さえも無力だ。
『たーっぷり――可愛がったるからニャあ』
学人の全身の毛穴という毛穴から汗が噴き出した。
『うわああああ、やめろ、来るな! それ以上僕に近付くんじゃない、ペル
喰われた。




