140.サラリーマン・ファイター
ペルーシャ・ハーネス・セントレイアは後悔していた。
全て自分の身勝手が招いた事だというのに、学人と出会ったのがそもそもの間違いだと思った。
あの日、ノット・マーシレスとの再会は本当に偶然だったのだろうか。本人が死んでしまった以上、もはや真実はわからない。
ペルーシャが魔法都市ペルセスカムスに滞在していた時の話だ。歴史が古く、どこか埃っぽい街並みと魔法図書館で有名な都市である。どこもかしこも紙の匂いのする、他では見られない独特の雰囲気を持つ都市なのだが、一ヶ所だけは変わらない場所がある。それは酒場だ。
ゴミゴミとしていて、そのくせどこか温かい。食事を摂っていたペルーシャにノットは声をかけてきた。
ペルーシャは顔を上げてそれを確認すると、返事をせずに食事を再開した。ノットは意に介さず対面に座った。騒々しい酒場での、あの時の会話は一字一句鮮明に覚えている。
食事の邪魔をされて不機嫌になったペルーシャは、嫌味たっぷりにこう言った。
ニャんや、引きこもり体質の研究者様が出歩くニャんて珍しい事もあるもんやニャ。
ノットはその言葉を真正面に受け止めて笑う。
はっは。やだなぁ凄い偏見だねそれ。図書館に篭っているだけじゃあ研究は進まないからね。意外と外出も多いんだよ。
今思えばここが最初の分岐点だったのだろう。この時に突っぱねていれば――
ノットはわざとらしく周囲を見回し、顔を寄せて耳打ちをしてきた。
ところでペルやん、ひとつ仕事を頼まれてくれないかなぁ?
拒否一択だ。金に困っているわけではないし、なにより縛られたくない。あと面倒臭い。
ペルーシャの拒絶を無視し、ノットはこう続けた。
まあまあそう言わずに。悪い話じゃないからさ。私の予想では多分、国境都市近辺からラブーン地方くらいにかけてかな? 今はまだだけど、近い将来異世界が出現するはずなんだ。
研究のしすぎで頭がやられたか? 素直な感想がそれだった。
――アタシのせいや。
話の飲み込めないペルーシャに、ノットは簡潔で、かつわかりやすく説明してくれた。
要するに女神大戦の影響で、こことは違う別の世界が引き寄せられている。そして最初に現れる時期がもうそろそろという事らしい。
本来であれば酒飲みのホラ話だと一笑に付す話だが、魔術研究者が女神を持ち出したとなれば話は別だ。
ノットは柔らかい笑みでこう言った。
ペルやんには様子を見てきてほしいんだ。そこでもし生物――具体的には人類かそれに近い生物が居れば捕獲してきてくれるかい?
当然断った。
阿呆か、そんニャもん人攫いにでも頼んだらええやん。人間の捕獲も、動物の捕獲もアタシの専門外や。
ノットは慌てて言い直した。
ああごめん、言い方が悪かったね。できれば平和的に、協力的に連れて来てほしいんだ。方法はペルやんに任せるよ、と。
あくまで王国のため。未知の世界との平和的問題解決のためと強調していた。
しかしやはり受ける気にはなれない。断ろうとした矢先に提示された報酬は対価としては全く釣り合わず、そしてにわかに信じがたいものだった。
ペルやんは人体生成術って知ってる? 別人になって新しい人生というのはどうだろう?
魔法図書館には世に知られていない禁術が数多く存在していると聞く。いや、人体生成術は知っている。一定の地位を持った貴族しか知らない神話学で習った覚えがある。
空中庭園の生き残りがその魔法を使って、今も生きているという話だ。名前こそ明らかにされていないが、彼らは女神が再びこの世界に舞い戻るのを待っているのだ。何百年も前の戦争に、終止符を打つために。
だから、実在するのだろう。しかしこんなお使いのような仕事で?
ペルーシャはあまり期待しないながらも、それでもその言葉に乗った。
――アタシのせいや――
国境都市で学人を見つけたのは、本当に偶然だった。奇抜な服装をした酔っぱらいが嘔吐していた。
ペルーシャは横目で見て、こう思った。ニャんやあいつ、けったいニャ格好してんニャあ。
だが思い直した。あれがそうだ。とりあえず攫ってみて、違っていればその辺で捨ててしまえばいい。
ペルーシャは静かに近付いて、声をかけた。
『だいじょーぶ? はい、水や』
何かが少しでも……ほんの少しでも違っていれば――
甘い報酬に目がくらんだ。
何もかも、自分勝手な欲に駆られたせいだ。学人が殺されるような事があれば、ハーネス家もラムール家も全部巻き込んで、最期まで自分勝手を貫き通してやる。周りもみな勝手なのだから。
――ええで、アタシも一緒に死んだる。
『あかん、確保やッ』
飛び出そうとした瞬間、プルミエールの合図で組み伏せられてしまった。数人に押さえられて振りほどく事は叶わない。それでも怒鳴り散らして抵抗する。
ヒイロナとザットは? あの二人が黙っているはずがない。しかし期待に反して、二人は動いていなかった。
ザットの背後ではジーニアスが待機している。もちろんいつでも制圧できるように。
ザットは殺気を孕んだ魔力を惜しげもなく垂れ流している。これは警告だ。学人にもしもの事があれば、刺し違えてでもゴードン――お前を殺す。
ジーニアスを無視できない彼の、唯一の抵抗手段だった。この場に居る者の中で、彼の圧倒的存在感に気付かないとすれば学人くらいのものだろう。
ペルーシャは自分の非力さを呪いながら、学人に視界を戻した。目が合った。まだ生きている。
その直後に発せられた敗北宣言は、ペルーシャを安堵させた。
学人の命に比べれば、自分が嫁ぐ事など比べるべくもない。
『フッフッフ。良き仲間を持った事に感謝したまえよ』
勝ち誇るゴードンの声は学人に届いてなどいない。
興奮して火照った体温が頭にまで伝達し、脳を焼いて意識は朦朧としている。ふわふわと浮いたような思考は、たった一言に支配されていた。
負けた。
負けた。
負けた!
負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた。
それ以外は真っ白だ。何も考えられない。何も思い出せない。
学人の意思とは無関係にビクリと体が反応した。ゆっくりと、慎重に剣が引き抜かれていく。
『聞こえているか、ヤマダガクト? 貴殿の健闘を讃え、吾輩とペルーシャさんの儀に招待しよう。もちろん特別招待客としてだ。祝福する権利が貴殿にはある』
『儀……?』
ああ、そうか。ペルーシャ。
徐々に本来の思考が戻ってくる。彼女はこれからどうなるのか。わかりきっている。好きでもない男の元へ嫁ぎ、そして自由は永遠に奪われる。
なぜだ? 負けたせいだ。
のぼせた頭が少しずつ冷えていき、正常さを取り戻していく。ここまでに至った経緯が走馬灯のように流れてくる。この世界に降り立ったその瞬間から、今に至るまですべて。
仕事で訪れていた郊外の町、鉱山都市、中継都市、国境都市でのショッピングセンター、湿原の迷宮、どこかの林、そして領都。何度か死にそうな目に遭って、その度になんとかなってきた。だから、心のどこかでは今回もなんとかなると考えていたのは否めない。
そして今回もなんとかなった。ただし、それは自分の命に関しての話だ。よくよく思い返せば勘違いしていただけで、中継都市や領都では多くの犠牲を出している。
決してなんとかなんてなっていないのだ。
『フフ……そうか。そうなのか。フフフ……あははははは、そうか!』
『気でも触れたか?』
不気味に笑いだした学人を、ゴードンは哀れんだ目で見下ろす。
『ハァ、ハァ。いいや、僕は正気だ。どうして今ペルーシャの話が出てきたのか不思議でね。おかしくてつい』
負けたせいで今こうなっている。でも、負けただけだ。
ゴードンの顔つきが怪訝なものとなるが、学人はおかまいなしに続けた。
『僕は君の顔に泥を塗ってしまった。まとまっていた縁談を横からぶち壊しにされたんだからね。僕は君の名誉を傷付けたんだ。でも、君は君の手で、名誉を取り戻した。だから、この話はここで終わりだ。ペルーシャは関係ないだろう、ペルーシャはっ』
『何を言っているのかわからんッ! この男を黙らせろ、不愉快だ!』
ゴードンは護衛の男に言いつけるが、護衛は目に見えて青ざめていた。
業を煮やして今一度声を荒げようとする。しかし、次の怒声は尻すぼみに終わった。護衛は青い顔を小さく振り、言った。
『……いいえ、若様。その男の言う通りです。決闘の宣言にペルーシャ様を賭けて、とは明言されておりません』
そんな屁理屈が通るものか! 心で叫びながらゴードンは周囲の反応を見る。
アルベルトはしまったと言わんばかりの顔で、プルミエールは口元を隠しつつ笑いを堪えている。
学人は離れていこうとするゴードンの腕を追いかけて掴んだ。
『簡単な解決方法がある。もう一度やればいいんだ。僕はペルーシャを賭けて、君に決闘を申し込む。今っ! ここでだ!』
ゴードンは絶句した。今? ここで?
ここで初めて、自分の置かれている状況を理解した。学人はいつでも蹴りを放てる体勢に、いつの間にかなっている。
『なるほど、良い案だ。しかし決闘には領主の承認が必要だ。今すぐにというわけにはいくまい』
逃げる気だ。今決着を付けなければ、きっと同じ結果を繰り返すだけだろう。
逃さない。
『僕は君たちの規則に従って決闘を受けた。今度は君が僕らの規則に従うべきじゃないのか? 僕らの決闘に時と場所を選ぶ権利は無い。だから今ここでだ。それとも君が腰抜けだっていうなら話は別だけど』
『両方とも罪人になるぞ……』
『それは僕に関係ない話だし、その程度ってことだ。それに今やったとこなんだから、誰かが言いふらさない限り大丈夫だよ。最悪共犯にしてしまえばいい。さあ決めろ、僕の決闘を受けるのか受けないのか!』
ゴードンは考える。果たして、これから飛んでくるであろう破壊の蹴りを躱しつつ、山田学人を打破れるだろうか。
いや、掴まれた腕を振り払っている間にも“黄金の足”が自分を粉砕するだろう。この至近距離での回避は恐らく不可能だ。奇跡が起きたとしても内臓破裂は覚悟しなくてはならない。そんな状態で戦えるか? 無理だ。死ぬ。
『受けるか……退くか……だと?』
ここまできて退けるはずがない。
受けて立つ。そう言ってやる。危険だが先に蹴りで牽制すれば、もしくは掴まれた腕を思いっきり引っ張ればあるいは。
ゴードンは腹をくくった。
『その決闘――ッ!』
『若っ!』
すんでのところで護衛が止めた。
『なりません、若様。それだけは』
時が止まったかのような静寂ののち、風が吹き抜ける。争う二人の熱気を冷まそうとするように。
『退く時を見極めるのも強さか……』
ゴードンはか弱く呟き、決闘の辞退を宣言した。




