139.名誉の決闘
灰竜の月十六日目、早朝。
領都は今日も朝早くから始動している。決闘の前に、学人はハンドルを握っていた。
使える車を探して森から出すのは大変だったが、絶対に必要な物だ。キャビンを中心に三角形を意識したボディは、最高速度に達すれば、きっとその姿はさながら弾丸のようであろう。
もちろん舗装道路の存在しないこの世界で、そこまでの速度を出す機会は無さそうだ。
煙草を片手に、半分を失った右腕で器用に車を操る。最初こそぎこちなかったものの、練習がてらドライブしているとすぐに慣れた。
決闘の時間は――いや、時計の無いこの世界で時間をいうのもおかしいが、太陽が四半昇った頃とされている。今は既に真上に差し掛かろうとしていた。完全に遅刻だ。
決闘と聞いて、学人が思い浮かべたのは巌流島の決闘だった。宮本武蔵と佐々木小次郎の有名な決闘である。
実は武蔵は遅刻していなかっただの、小次郎は老齢だっただの、そもそも小次郎という人物は実在しなかっただのと諸説あるらしいが、学人の知っている話はこうだ。
遅刻した武蔵に腹を立てた小次郎は冷静さを欠き、敗北した。ざっくりとだいたいこんな感じだ。学人の遅刻もこれになぞらえて意図的なものである。ゴードンに対して効果があるのか確証はないが、ほんの少しでも勝率があがるのであれば、やらない手はない。
そろそろいいかと指定の場所へハンドルを切る。島ではなく見晴らしのいい丘の上だ。学人が到着すると、当然のことながら関係者が勢揃いしていた。
ペルーシャとハーネス夫妻。一緒にいる獣人族の団体は、おそらく兄弟たちなのだろう。ペルーシャによく似ている。ジーニアスとエヴリーヌを始めとする使用人の集団もいる。
ザットは険しい顔で、ヒイロナは不安げな顔でこちらを見ていた。
『遅いぞ! 人を待たせるのが貴殿の礼儀なのかっ!』
車から降りると、決闘相手のゴードンが怒鳴っている。白い体毛の下は長い耳の先まで真っ赤になっていることだろう。
学人はそれを無視してエヴリーヌに近付いた。
『エヴリーヌ、悪いけどひとつ頼まれてくれるかな?』
『え? ワタシですか?』
学人の頼みを聞いたエヴリーヌは困惑の表情を浮かべてゴードンを見やる。
許可を出したのはペルーシャだった。
『かまへんよ。皆でぱぱっと見て来たり』
『はぁ……お嬢様がそう仰られるのなら』
使用人たちが四方八方に散らばって、小さな落とし物を探すように、丘全体をくまなくチェックしていく。
遅刻を悪びれもしないどころか勝手な行動を取る学人に、ゴードンの怒りはますます膨らんだ。
『何の真似だ!』
『何のって、ここは君の指定した場所だからね。罠が仕掛けられていないか確認するのは当然の権利じゃないか?』
『貴様ッ!』
『それともなんだ? 調べられて困るような物でもあるのかな?』
もちろん学人とて、ゴードンが今更そんなくだらない事をするとは思っていない。そもそも罠などという卑劣な行為は許されないのだ。こんな決闘の場でできるわけがない。
しかしながら調査を止めさせるという事は、何かしら仕込んでいると認めるのに等しく、ゴードンは怒気を飲み込んでその様子を眺めるしかない。
学人もしばらく見守り、やがてエヴリーヌが報告にやって来る。
『この丘に一切の異常は認められません』
『そうか、ありがとう』
去り際に、エヴリーヌは囁いた。
『足の件はバレておりません。上手くお使いください』
学人は一瞬何の事かと首をかしげる。
思い当たったのはひとつだけ、“黄金の足”だ。だがどう上手く使えと言うのか。牽制くらいになってくれればいいが……。
『ではこれよりゴードンとガクトの決闘を執り行う!』
仕切るのはペルーシャの父、アルベルトだ。改めて決闘の説明がなされる。
武器は何をどれだけ使おうとも自由。相手の生死も問わないという簡潔なものだ。決闘は、互いに武器を構えた瞬間から始まる。
ゴードンが細身の剣を抜き、鞘を地に投げた。煌めく刀身が抜刀の反動でしなる。
学人は捨てられた鞘に視線を移し、そして嘲笑った。
『負けるつもりなのか?』
その言葉に、ゴードンは顔を引きつらせる。
『言っている意味がわからんな』
『勝って帰るなら、剣を収める物が必要だ。まさか抜き身のまま持って帰るわけにもいかないだろ? 鞘を捨てたってことはつまり、自分が負けるとわかっているからだ』
『拾えばよかろう?』
『……たしかに』
ゴードンは学人の腰にある銃を見て、
『さあ、その棒切れを抜きたまえ。今頃になって怖気づいたのであれば話は別だがね』
『僕の武器はこれじゃない。何でもいいんだろ?』
学人はそう言って車を指さした。
こんな使い方は決して褒められたものではない。しかしやはり便利な道具であると同時に、簡単に人を殺傷できる凶器でもあるのは事実だ。命運がかかった事態に直面した今、敢えて間違った使い方に抵抗は無い。
車に乗り込んだ学人は、ダッシュボードに固定された固形燃料に火を灯した。助手席にはモールから持ち出した品々を積んである。
準備は万端だ。
車の装甲に守られている安心感からか、緊張こそあれど不安感は無い。
学人は一気にアクセルを踏み込んだ。ギアはセカンド。
急激に回転数の上がったエンジンが過剰な雄叫びをあげる。
同時にクラクションを叩き押す。
警告が発せられた。
得体の知れない物体が威嚇しながら突進してきたらどうなるだろうか。普通は驚いて竦んでしまうか、咄嗟に身を横に投げるだろう。
躱したなら、体勢の崩れたその時を狙う。呆然と立ち尽くすのならそのまま撥ねてしまえばいい。どうせ大した速度にはならないのだから、この世界の住人なら死にはしないだろう。いや、それどころかほとんど無傷で済んでしまうかもしれない。
つまるところ、遠慮は何ひとついらないのだ。
しかしゴードンは学人の思惑に反した行動に出た。彼は戸惑う素振りなど一切見せず、こちらに向かって突撃して来たのだ。
そして身を翻しながら跳躍したかと思うと、次の瞬間、きめ細やかな亀裂が学人の視界を遮った。
ひとつ、ふたつ。フロントガラスには二つの蜘蛛の巣状のヒビが出現し、学人はブレーキを踏まざるを得なかった。
「どこ行った?!」
慌ててゴードンを探す。
振動が無かったので、上に登ったわけではないようだ。しかし目視できる範囲のどこにも姿は見当たらない。
右のサイドミラー。
ルームミラー。
それなら左のサイドミラーは……。やはりいない。少しでも死角を減らすべく、補助ミラーをいくつも足しているというのに。
「ハァ……ハァ……どこだ」
次第に高鳴る鼓動と、それに呼応して広がる焦燥感、恐怖心。奇妙なのは追撃の手が無い事だ。何ならフロントガラスをぶち破って、そのまま急所を狙えたのではないか? 砕けず持ち堪えた事に、科学技術の偉大さに感謝する。
しかしこれは大きな間違いだった。ゴードンの追撃は現在進行中だったのだ。
「うわっぷッ!」
突如目の前に白い何かが飛び出した。シートとの間に挟まれて、視界と動きが封じられる。
魔法?!
学人はゴードンについて何も知らないに等しい。もちろん探りは入れたのだが流石は貴族、情報管理が徹底されていて一切の情報が引き出せずに終わった。彼は何が得意で、どんな魔法を使うのか全てが謎のままだ。
白い障害物は存外にすぐしぼんだ。すぐさま払いのけると目の前には魔法の正体があった。
「エアバッグ……?」
どうしてこんな物が作動したのだろうか。
そう考えたのも束の間、派手な音が車内に響き、砕けたガラスが学人に降り注いだ。
エアバッグに気を取られて忍び寄る気配に気付けなかったのだ。咄嗟に顔を庇った腕をどける。割れたサイドウィンドウの向こうには、既に何者の姿も無い。
反射的。
そこには思考の欠片に無く、ほぼ反射的に学人は助手席へと飛び移っていた。未だ目で捉えられない脅威に――運転席の割れた窓に銃口を向ける。
続く動きは認められず、静かなものだ。空を舞うコンドルの声すら耳に届いてくる。
ゴードンの姿を探して視線をさまよわせる。
運転席側のサイドミラーが破壊されている。窓と一緒に壊されたのだろうか。どちらにせよ死角を増やすのが狙いだろう。
学人は下敷きにした荷物から、小さな紙筒の束を取り出した。そしてダッシュボードの固形燃料に手を伸ばして点火する。
爆竹だ。最近見かけないと思っていたのに、普通に百均で売られていた。
放り投げられた爆竹が窓の外で炸裂するが、ただそれだけだった。煙を残して再び不気味な静けさが戻ってくる。
「ハァッハァッ!」
息苦しい。鼻は本来の役目を忘れ、代わって口がしきりに酸素を体内に取り込んでいる。
どこだ? どこに潜んでいる? 銃を警戒してか、しばらくしても姿を見せる様子はない。
「銃を……警戒して……?」
彼は――ゴードンは何と言った? 聞き間違えていなければ『さあ、その棒切れを抜きたまえ』と、間違いなくそう言った。
それはなぜか。両者が武器を構えないと決闘が始まらないからだ。学人の視線がある場所に向いて、身の毛がよだつのを感じた。
ドアロックが解除されている。
フロントガラスは本当に砕けなかったのか。砕かなかったのではないか? 視界を奪われた学人がブレーキを踏むと見越して。
「ハァッハァッハ……ッ!」
決闘の宣言から十日。決して短くない期間を、ゴロゴロを寝て過ごすはずがない。
「くそッ! 僕はマヌケか!」
彼は知っている。理解している。銃の事も、車の使い方も。
そう、宣言されたあの瞬間から――
「決闘は既に始まっていたッ!」
脱出しなければ。手遅れになる前に、この狭い空間から脱出しなくては。ゆっくりと、確実に追い詰められている。
モールから持ち出した物は役に立たない。殺虫剤、カラースプレー、防犯ブザー、花火など……。浮ついていたというか、高揚状態にあったのかもしれない。この世界に無い物を選んだつもりだったが、一体何に使えると言うのか。車さえあれば安全安心と思い込んでいたせいでもあるだろう。
背後にあるサイドミラーを確認する。見える範囲には誰もいない。もしバンパー付近に潜んでいたとしても、ドアが盾の役割を果たすので安全だ。
ドアを勢いよく開け放ち、学人は背中から外に飛び出した。視界から車内が遠ざかり、フレームが目に入ってくる。
そこで、学人の心臓は飛び跳ねた。
ルーフの上、ゴードンが待ち構えていたのだ。飛んで火に入る夏の虫とはまさにこの事だ。
狙い澄ましたゴードンが、剣を突き出しながら飛びかかってくる。学人の体はまだ空中にある。着地するのが先か、ゴードンの剣が届くのが先か。
一瞬早く着地した学人は、慣性を乗せたまま大地を蹴る。想定していない運動にバランスを取れるはずもなく尻餅をつくが、ここで止まってはいけない。後ろにかかる力を利用して、さらに後方へ転がり逃れる。
刺突は躱した。しかし――
「ッ! がっ……はッ」
学人の脇腹に激しい衝撃が加わる。ゴードン渾身の蹴りが学人を逃がさなかった。
それでも学人は転がり、必死に立ち上がろうとする。
しかし、遅かった。片膝立ちになったところで、学人はそれ以上身動きができない。なぜなら細い刀身が腹部を貫通していたからだ。
急速に力が抜けるのを感じた。
『おっと、動くんじゃないぞ。大切な内臓が傷付いてしまう』
咳と一緒に少量の血が吐き出された。
『いいザマだ。このまま引っ掻き回してやろうか? それとも切り裂いてやろうか? 自分の腸がどんな色をしているのか知りたくないかね? ええ?』
痛い。まずい。どうにかしないと。でもどうやって? 動けばきっと死んでしまう。痛い。焦りだけが思考を巡る。
『吾輩が手にちょいと力を入れるだけで、貴殿は死ぬ。しかしだ――見たまえ』
顎で示された方を見やる。ペルーシャが数人がかりで押さえつけられていた。それでもなお、目に憎悪の炎を灯して暴れている。
学人がやられそうになって、たまらずに飛び出したのだろう。
『どうやら貴殿はモテるようで羨ましい限りだ。ここで貴殿を殺せば、吾輩は冷えきった新婚生活を送る羽目になる。いや、その前に八つ裂きにされてしまうかもしれないなあ? これは困った。誰も幸せになれない』
ザットの放つ殺気が、学人にもひしひしと感じられる。ヒイロナは据わった目でこちらをじっと見つめていた。
「だめ……だ。みんな、そんな……事をしたら……」
ただでは済まない。賞金首としてきっと死ぬまで追い回されてしまう。それだけに留まらず、ハーネス家とラムール家を巻き込んだ――いや、事態はもっと深刻だ。
どうにかしないと。どうにか……。
『敗北を宣言したまえ。両者の合意さえあれば死なずに済むのだ。貴殿だけでなく、他の皆も』
敗北宣言。たしかにそれしか道は無い。どう足掻こうとも、この状態からの逆転は不可能だ。死を覚悟で反撃して、よしんば相討ちに持ち込めたとしても、その後の事が恐ろしい。
『……める』
『聞こえんな。他の者全員に聞こえるように! 大きな声で宣言したまえッ!』
不甲斐無い自分が憎い。
軟弱な自分が憎い。
愚かな自分が憎い。
悔しさに満ちた学人の唇は血に塗れていた。
『僕、山田学人は……敗北を認めるッ』




