138.エヴリーヌ
魔樹の森より帰還して三日。
その日の夜は、少しばかり雨が降っていた。
雨雲が月明りを遮り、闇に紛れて行動するには最高の夜だ。風も出ていて、それも姿を隠すのに一役買ってくれている。
エヴリーヌは真っ黒な外套を羽織り、闇に溶け込んでいた。そして周辺街の入り組んだ裏道を彷徨い、尾行がない事を確認すると、
……一人だけいた。
いや、正確には屋敷を出た時からずっと尾けられている。そしてその追跡者は隠れようともせずに、堂々と張り付いている。
しかし、エヴリーヌは何の対処もしないまま、廃屋の中へ身を潜り込ませた。
人が住まなくなって久しい家屋の中は、蜘蛛が我が物顔で巣を張り巡らせ、劣化してできた隙間からは雨風が容易に入り込んでくる。積もった埃が宙を舞って、濡れた外套に吸い付く。泥だらけで不快な足元が、さらに不快さを増した。
密会と言えばこういった廃屋が定番だ。最初に誰が定着させたのかは知らないが、もし会う機会があるのなら文句のひとつでも言ってやりたい。
床に手を触れると、どこも埃が堆積したままだ。つまり、密会相手はまだ到着していないという事になる。
変だと思う。埃が不自然に払われていれば、誰かが何かをしていたという証拠になるのに。利点といえば、匂いが曖昧になるところぐらいだろうか。
特殊な香水で薄めた体臭を、埃はさらに包み隠してくれる。
『やあ申し訳ない。お嬢さんをこんな場所で待たせるのは趣味ではないのだが……出発に少々手間取ってしまってね』
遅れてやってきた密会相手も、やはり黒い外套に身を包んでいる。これも定番だ。
たしかに理に叶ってはいるのだが、その由来を紐解くと「雰囲気がでるから」というわけのわからないものらしい。定着させた人物に会えるのなら、一発かましたい。
密会人は二人。小柄な人物と、大柄な人物。大きい方は護衛だ。
小さい方の『失礼だけど、確認させてもらうよ』の言葉を合図に、大きい方から身体検査を受ける。武器は持って来ていない。ここで話がこじれるのは一番まずいからだ。
身体検査が無事終わって、さっそく本題に入る。
魔樹の森で見た物。興味津々なふりをして聞き出した道具の数々や、その使い方。そして秘密裏に運び出した品の数々。手に入れた情報を惜しみなく提供していく。
さらさらと文字を紙に落とし込む音がする。時折小声で言葉を交わし、二人は何かと比較して、逐一確認している様子だ。
その度に会話が中断され、いい加減苛立ちを覚え始めた頃、小さい方が言った。
『君の報告に偽りは無いようだ。できればもっと詳細が欲しい。たとえば――』
一方的な提供が終わり、質疑の形式に移行する。
ひとつひとつの質問に正直に、わからない所は取り繕うとせずにわからないと答えた。そうやって密会は滞りなく進み、終盤に差し掛かる。
『これが最後の情報ですが……決闘には本人が出ます』
『ほう……? てっきり番犬が出るのだと思っていたのに』
小さい方が意外そうな反応を示した。
『彼らの世界では、決闘は法で禁止されています。しかし禁止される前の時代では、代理人を立てるのは卑怯者のする事。その思想が受け継がれているようです』
『吾輩には何の関係も無い事だな』
『いいえ、貴方様もご自身がお出になるのをおすすめ致します』
『なぜだ?』
『ヤマダガクトも、貴方様本人が出るものだと思い込んでおります。しかしもし代理人が出るのであれば、あちらも相応の相手を出すそうでございます。そうなれば勝ち目はございません』
『やはり番犬か』
『奥様……プルミエール様がお出になられます』
馬鹿なッ! と小さい方、ゴードンは声を荒げた。それこそ卑怯だ。将来の義母と一体どうやって戦えと言うのか。
ましてや今回は助命の必要が無い決闘だ。倫理的に許されるはずがない。
『卑怯には卑怯を持って応えるのが礼儀、という考え方だそうです。あ、ちなみに奥様は張り切っておられましたよ』
剛球のプルミエール。それが彼女が現役時代に持っていた字名だ。
魔力を吸収し巨大化する鉄球を持って、立ち塞がる全てを粉砕したと言われている。
先日の嵐でのハーネス家の被害も、大半が勢い余った彼女の鉄球によるものだ。湧き出る魔獣は何もできずに屠られていった。
戦いぶりは衰えておらず、その姿はまさに狂戦士。かつて初代国王を相手に破壊の限りを尽くした伝説の竜人族、リズイズ・アイリッシュを彷彿とさせた。
代理人でもある護衛の男は、たしかにゴードンよりもはるかに強い。しかし、全力で戦ったとしても、対策を練ったザットとは違い、プルミエールには及ばないだろう。
『貴方様がお出になれば何の問題もございません。先ほども申しました通り、異人はとても脆弱な種族でございます。何らかの道具を用いたとしても、対処するだけの情報がこちらにはございます。ただ……』
『ただ、何だ?』
『脚にだけはお気を付けくださいませ』
『納得いかんのはそれだ。そのように脆弱な種族が、何故そのような能力を持っているのだ?』
『どうやら彼が特別のようです。いえ、彼だけに限らず、彼らにも魔法とはまた違った特殊能力を持つ者が、少なからず存在するようです。たとえば一瞬のうちに物を消し去ったり、別の物に変化させてしまったり。……権力者に利用されるのを嫌って、普段は隠しているそうですが』
『奴の場合、それが脚力だったと――門を破り、巨大魔樹をも絶命させる蹴りか……』
渋い顔でゴードンが唸る。
退く時を見極めるのも“強さ”で、貴族としては必要なものだ。
『若様……』
大きい方――護衛の男が不安げな声を漏らす。ゴードンの身にもしもの事があれば、責任を問われて不名誉な死が待っているのだから当然だろう。
ここは退くか、敗北を覚悟で護衛が戦うべきだ。
『黙れ。吾輩は退かぬ』
『しかし……』
『二度は言わんぞ』
不動の意思を見せるゴードンに、護衛はそれ以上何も言えずに引き下がるしかない。
ゴードンは考える。強烈な蹴りは放てないものの、瞬発力という意味での脚力なら自分にも自信がある。反射神経をひとつ取っても、獣人族が人間族に引けを取るはずがない。
そう、当たらなければよいのだ。
『彼らは元来、殺生を嫌う種族でございます。余程運が無い限り、命を落とすような事はないでしょう。要するに、脚が出る前に息の根を止めてしまえばよいのです』
密会はそれで終了した。
去り際、ゴードンが思い出したように振り、言った。
『褒美は何が望みだ?』
それに対し、エヴリーヌは膝を折り、外套をつまんで見せてたおやかに頭を伏せる。
『必要ありません。貴方様の勝利が、最高の褒美となりましょう』
『フン。従順な侍女なことだ』
『どうやらひとつ、勘違いなさっているようでございますね。ワタシは別に貴方様の味方ではありません』
意表を突かれたゴードンは、思わず眉根を寄せる。
『なんだと?』
『ワタシはいつの時も、お嬢様の味方でございます。お嬢様の幸せを思えば、どちらに与するかなんて考えるまでもないこと』
――。
一人取り残されたエヴリーヌは、力無くへたり込んだ。
終わったかと思うと緊張が解けて腰が抜けた。心臓が激しく脈打っている。鼓膜を震わせるその鼓動がどこまでも耳障りだ。
侍女をやっていれば上級貴族を目にする機会は多いが、若いエヴリーヌにとって、ああして正面から会話をするのは初めての経験である。
果たして上手く騙せているのか、それとも騙されているのか、まるで実感が持てない。
こんな目に遭っているのも全部、あの男のせいだ。
あの男が素直に代理を立てるか、もしくはおとなしく足を切断されていれば、こんな危険な橋を渡らずに済んだものを……。いや、足を失ったくらいではまだ『自分が出る』と言い張ったかもしれない。
――疲れた。とにかく眠りたい。
それだけを考え、エヴリーヌも廃屋を後にする。
温暖な気候とはいえ、雨と冷や汗に濡れた体にこの湿った風は厳しい。足早に路地を行こうとした時だった。横合いから声をかけられたのは。
『どういうつもりだ、テメェ』
濡れ鼠になった犬がこちらを睨んでいた。
『これはザット様、ご機嫌麗しゅう。ザット様もお散歩でございますか?』
『ああん?』
『一体何の事でございましょう? どういうつもりなら、どうなさるおつもりでしょうか? 殺しますか?』
『白々しい事を。オレに尾けさせたろ』
『もしもの場合は証言してくださいね。ワタシにできるのはここまでです。あとはガクト様ご自身で何とかしてもらうしかありません』
護衛の男も名のある兵士だ。彼が出るよりも、ゴードンが出た方が勝機はあるだろう。
そして――とうとう決闘の朝を迎える。




