135.魔樹の森 3
逃げ続けて足を止めた時、二人は汗にまみれていた。
途中でいくつもの別れ道を過ぎた。あの無数の根が追いかけて来る気配は、今のところない。
後方を警戒しながら呼吸を整える。
このまま進んで、一体どこに繋がるのだろうか。良くて同じ場所をループ、最悪は行き止まりだ。こんな窮屈な場所で、追い詰められてしまってはもうどうしようもできない。
『念のために訊くけど、あれは?』
『わかりません。あんなのがいるだなんて、記録には一切ありません』
予想通りの返答だったが、うんざりした。
『またか……』
無意識にぼやいていた。
エヴリーヌはそれに興味を示す。
『また?』
『ああ、ペルーシャと出会った時もそうだったんだけど……いや、その前の中継都市でもか』
そう遠くない過去を思い返す。
病院に籠城する青木たちの救出に向かった際、見た事のない魔獣に、傭兵たちは少なからず動揺していた。
国境都市で誘拐されたあの夜、大蜘蛛を見たペルーシャは驚愕していた。
『それって……間違いなく異界の召喚が原因ですよね? 嵐の夜にハーネス家も襲撃されました。見た事のない魔獣に』
考えるまでもなく、『だろうね』と学人は返した。あの根の持ち主も、おそらくは同じ類だろう。
だとすれば、エヴリーヌの事前情報に無いのも無理はない。
『あれ? ちょっと、怪我してるじゃないですか!』
一息ついて、ようやく学人の脇腹に気が付いたようだった。あれでもない、これでもないと自分の服をまさぐり、そうして取り出したのは片手に収まるくらいの小瓶だった。
『水ください。傷口が汚いので洗い流さないと』
本来ならきちんと消毒したいのだが、こんな場所では仕方ない。学人は言われるがままに水を手渡す。
染み込む痛みに、学人は呻いた。
次に小瓶の液体をふりかける。
『それは何? ポーション的なやつ?』
『? ……なんですかそれ。ほら、見てください。中に魔石が入っているでしょう。止血と消毒、あと多少の鎮痛効果があります』
空になった小瓶をカラカラと見せつける。
痛みは本当に少しひいた程度だが、傷口に薄い膜が張り、たしかに出血が止まっていた。
エヴリーヌは小瓶に水を補充しながら、
『ワタシは再生魔法を使えませんので。これ最上級の魔石で、とっても高価なんですよ。お嬢様が持たせてくれたんです』
手当てが終わると無言になった。考えている事は二人とも同じだった。
おかしい。追撃がこない。
このトンネルを掘ったのは、あの魔樹で間違いないだろう。森全体に張り巡らせて、獲物がかかるのを待っている。
そんな能力を持っているのに、たかだか小規模の崩落に手間取るだろうか?
もちろん手強いと見て諦めたか、もしくは疲弊を待っているという線もある。しかし、エヴリーヌの魔樹に対する評価から、そんな知能を持ち合わせているとは考えにくい。
黒く塗り潰された闇の向こうを注視するあまり、二人は足元がお留守になっていた。無音でゆっくりと忍び寄る存在を見落としていた。
気が付いた時には既に遅く、学人は足首を掴まれていた。
『え? ちょっと!』
咄嗟に学人の腕を取ったエヴリーヌと共に、猛スピードで引きずられていく。
柔らかい土の上だからいいものの、途中で岩が突き出たりしていたらと思うと気が気でない。
やがて先ほどの崩落現場まで戻ってきた。上部の僅かに空いた隙間から這って出たらしい。土の山で引っ掛かる。
速度は著しく落ちたものの、それでも確実に引っ張られている。どれだけもがこうとも、自力で外すのは無理だ。せめてもの抵抗に、崩落で顔を出したであろう、別の木の根に縋る。
しかし脆い。かろうじて耐えてはいるが、そう長く持ち堪えそうにない。なにより引っ張る力が強く、片腕だけでは木の根よりも先に力尽きそうだ。
『もう少し頑張ってください!』
エヴリーヌが叫ぶ。
何か妙案でも思い付いたのか、円環が握られている。
『今足を切り離しますので! 絶対に動かないで! 手許が狂うと綺麗に切断できませんから!』
『ごめん、何言ってるかわからない! 足?!』
『死ぬよりはましでしょう! せーのっ!』
円環が赤みと熱を帯びて放たれる寸前、足に伝わる力が急に抜ける。足が解放された。
切断されたわけではない。確認すると、根の先端が絡みついたままだ。
耐えきれずに千切れた? そんなはずがない。触ってみると、あんなにうねりを見せていたのにもかかわらず、とても硬い。
切断面は……逆に柔らかい。というよりもまるで溶けたかのような、腐った野菜のようなぬめりがある。
這いずる気配は既になかった。
忽然と消えた魔樹に首をかしげながらも、二人は出口を求めて彷徨った。
縦穴を登ろうと試みたが、土が崩れて案の定失敗に終わった。
歩けど歩けど視界は変わらない。進んでいるのか、同じ場所を巡っているのかすらもわからない。
エヴリーヌは首から下げた小さな笛を口に咥え、時折息を吹きかけている。犬笛そっくりのそれは、音の代わりに魔力を飛ばして反響させる。
ザットに自分たちの居場所を伝える、唯一の手段である。もっとも、彼が二人を追ってこの中にいる保証はないので、当然期待はしていない。成果も上がらなかった。
眼前に異物が現れたのは、それからもうしばらく彷徨って、そろそろ休憩を挟もうかという頃だった。
行き止まり――壁だ。
コンクリートの壁。
おそらく何か建物の地下にでもぶつかったのだろう。地面から天井まで、一直線に貫く造形はどう見ても自然物ではない。
大きな衝撃が加わったのか、または魔樹がこさえたのかは定かではないが、幸運にも一部が割れて穴になっている。中身の鉄筋が断ち切られているので、あるいは両方なのかもしれない。
学人は疲れも忘れて、穴に身を潜り込ませた。
服に引っ掛かる鉄骨に苦労しながら、やっとの思いで向こう側へ。飛び降りるとしぶきが上がり、水音が冷たい暗闇に消えていった。
膝下まで冠水している。
『ななな、なんですかココ。随分と広いみたいですけど』
『地下駐車場みたいだね。どこのかはわからないけど』
『ちゅう……え? なんですかそれ』
ここは人の出入りを前提とした建築物だ。つまり、必ず出口がある。
安堵する学人とは対照的に、エヴリーヌはすっかり怯えてしまっている。そういえばペルーシャも、駐車場でビビりまくっていた事を思い出す。
『やっぱり僕じゃ不満?』
『何がですか?』
『……ほら、ペルーシャの……』
話しかけたのは、エヴリーヌの気を紛らわせるためか、それとも自分がそうしたかったのか……。
膝下とはいえ闇の中で水に浸かるのは恐怖でしかない。普通とは違い、何が潜んでいるかもわからないのだから。
水の抵抗に逆らいながら、重い足を進める。
『まさか。お嬢様が選んだ方なのですから、ワタシは全力で応援します。できる事があるなら、力添えも惜しみません。ワタシの望みはお嬢様の幸せですので』
『こんな場所で足なんて切ったら、どっちにしろ死ぬと思うんだけど。そうは思わない?』
不満を口にする学人に合点がいったように、
『あ、ひょっとして、もしかしなくても怒ってます?』
『別に』
『大丈夫です。綺麗に切ったら止血も簡単です! それにシオ爺が近くで待機してますし!』
『誰だよそれ……』
『今日、御者をしてくれていたお爺さんですよ。あの方、ハーネス家の誇る治療師なんです』
それでも納得がいかない。しかし学人はそれ以上追及しなかった。会話は無駄だ。
数台の車を横切る。
この駐車場はそれなりの収容数を持っているらしいが、停まっている数は知れている。軽トラック、白いバン、社名の入った普通車。他にも遠くでランタンの灯がいくつか反射している。これらは全て、海水で駄目になっているだろう。
学人が目指しているのは、闇の先に浮かぶ明かりだ。電気が点いてるわけではなく、反射するランタンの灯のひとつだ。
体の動きに合わせてゆらゆらと揺れている。他と違うのはその位置。少し高い場所のようだ。光が一切差し込まないので、車道出口がどこなのかわからない。
他に目指せるものがなかった。
ようやく辿り着いた先で、反射の正体がわかった。ガラスだ。
数段の階段を登った先に、おそらく警備室なのだろう。入館手続き用の窓ガラスと、その隣には建物に通じる扉。手前には赤い防水バケツが転がっている。喫煙所も兼ねているらしい。
そうだ。ここは以前に来た事がある。
この建物にはサーバールームがあって、自分の担当ではないが自社から三人のエンジニアを派遣している。つまり客先だ。
リーダーは古橋という。学人の親と同世代の男だが不思議と馬が合うので、彼が帰社した際にはよく夕食を共にしていた。
水から出て、学人は硬直した。
『どうしたんですか?』
『なあ、エヴリーヌ。正直に答えてほしい。本当に誰も見つからなかったんだよな?』
『はい、そうですけど……なにか――』
柱の陰に、服が落ちていた。
紺色の作業着で、靴下や靴までもが、中身だけがすっぽりと抜け落ちたような状態で。
ならばその報告が嘘なのでは、と考えをよぎる。しかしこれは似ている。ショッピングセンターで起きた事と。
だとすれば魔樹にやられたと考えるのが自然か――。
学人が息を吸い込み、言葉を発しようとしたその時、どこからか金属を叩く音が響いた。
ノックの類ではなく、破壊しようとする音だ。
車道出口のシャッターが下りているのかもしれない。それを何かがこじ開けようとしている。
二人は息を殺し、柱に隠れた。




