133.魔樹の森 1
数日後、学人は森林地帯へと足を運んでいた。
ハーネス家への道中で見た、例の船の探索の許可が下りたからだ。
距離的に考えれば街道から北上し、一直線に向かうのが一番いいのだが、森の南側は草木が深い上に凹凸も激しい。そのため北東から進入することとなった。
今日は護衛としてザットが同行している。
門の件は説得が大変だった。学人がいくら自分のやった事ではないと説明しても、ザットは信じようとしなかったのだ。
論より証拠と何度かザットと手合わせをし、自分の弱さを証明しなければならなかった。なんとも情けない話ではあるが、いつまでも間違った認識をされていると、後々困った事になるだろう。
学人の素人丸出しの動きや非力さを体験して、ようやく納得したようだった。
街道から外れて森までは徒歩で向かう。雑草の茂る地面は未だぬかるんでいるので、馬車は待機させざるを得なかった。
北東からではあの船は確認できない。森は想像以上の面積を有しているようだ。
学人は森から視線を外し、少し前を行く人物に目をやる。
これから森に入るというのに、丈の長い侍女服を躍らせながら、鼻歌混じりで軽快に歩いている。これで手にバスケットでもあれば、今日は楽しいピクニックだ。
二人を先導しているのは、ハーネス家から派遣されたエヴリーヌである。護衛兼案内役と言えば聞こえがいいが、実際の所は監視役といったところだろう。
ハーネス家は学人が門を蹴破ったと誤解したままである。そんな力ある人間にわざわざ護衛など付けるだろうか? いや、それは考えにくい。
ペルーシャの父、アルベルトは最後まで学人を認めようとはしなかった。少しでも情報を引き出し、ゴードンが有利になるよう働きかけてもなんら不思議ではない。
上機嫌に歩くエヴリーヌは一見無邪気にも見えるが、彼女はハーネス家側の人間である。そう考えると今は親睦を深めようという気にはなれなかった。
最悪、暗殺の機をうかがっているのかもしれない。
エヴリーヌは唐突に足を止めて振り返ると、学人の空気を察したのか、屈託のない笑顔を振りまいた。
『今日はザット様とワタシがお守りしますので、どうか大船に乗ったつもりでいてくださいね!』
『ああ、うん。ありがとう』
『ところで、今日本当はここにいるのはジーニアス様のはずだったんです』
『へえ、そうなんだ』
『なのに、どうしてワタシがいると思いますか?』
『さあ、わかんないな』
学人の態度はあからさまだった。
エヴリーヌは仕方なさそうに笑った。
『どうしてだと思いますか?』
『いや、だから……うーん。じゃあジーニアスさんとザットが喧嘩するとでも思ったから、とか』
『そうですね。でも違います。ワタシはお嬢様から色々と聞いているんですよ。存分に貧弱っぷりを発揮してくださって大丈夫ですからね!』
聞けば今日の護衛、案内役は、ペルーシャが半ば無理矢理彼女に決めたらしい。重要な情報を渡しているところから、ペルーシャが彼女に寄せる信頼の大きさがうかがえる。
『あとー、そうですね。相性もありますかね?』
『相性?』
『森ですよ、森。あそこは魔樹の巣になっているんです。植物相手に鉤爪は骨が折れますから』
『ああ、それで……』
学人はザットの腰に目を落とした。
今日は手斧を二本携えている。剣闘士という経歴から、殺傷能力さえあれば得物にはこだわらないのだと思い込んでいた。だがそれは大きな間違いだったようだ。
学人は頭を森の話に戻す。
まだ本格的にではないものの、ハーネス家による先行調査は既に行われている。その報告によれば、生存者は誰一人として見つかっていない。
『それってまさか』
みんな魔樹の餌食になった。
他に至る考えはなかった。だが、エヴリーヌの返答は、
『違うと思います』
『え? どうしてそう思うんだい?』
『形跡が無いんですよ、形跡が。あなたは魔獣どもが食事の後片付けをすると思いますか? いいえ、ありえません。反射だけで動く下等な魔樹ならなおさらです』
ややおぼこい顔立ちで美人とはいかないものの、しかし有り余る愛嬌でいっぱいのエヴリーヌの顔は、まるで汚物を見るかのような嫌悪で歪んでいた。
『今の話でわかったのは、君が大の魔樹嫌いって事くらいだよ』
森に入ると足場はさらに酷くなった。
飛び出た岩肌や木の根のせいで起伏が激しく、おまけに太陽の光も届きにくいので潮だまりが残ったままになっている。
領都の近くにあるにもかかわらず、鉱山都市の森とは違い全くと言っていいほど人の手が入っていない。領都としてはあまり重要な土地ではないのだろうか。
『ザット、この森は』
『あー。駄目だなこりゃあ。手の施しようがねえ』
ザットは幹を剥がしながら首を振った。
今はまだ目立った変化はないが、しばらく経てばどんどん枯れていってしまうだろう。それは森に限らず、周辺一帯全てだ。
土壌に染み込んだ塩だけを、都合よく取り除く魔法などないというわけだ。
『あ、この道はだめですね』
ふいにエヴリーヌが歩みを止めた。
彼女が指さす方向を確かめると、獣の物とおぼしき骨が散乱している。
『あの場所は魔樹が罠を張っているので、少し回りましょう』
エヴリーヌは周囲を見回し、なんとか通れそうな場所を見つけて先導する。
とは言っても獣道だ。伸び放題の草を処理しなければならない。悪戦苦闘している背中を見て、これは好機だと思った学人は小さくザットに話しかける。
『どう思う?』
『何がだ?』
『彼女だよ。嘘ついてると思う?』
エヴリーヌが危険だと言った場所は、特にこれといって変わった様子はない。骨が散乱している点を除けば。
『ほら、僕の時はなんか匂いを嗅いでいたじゃないか。あれは汗か何かの匂いで見極めていたんだろう?』
『おいおい、年頃の女にいきなり顔をうずめて匂いを嗅げってか? とんだ変態だな』
『いや、ちが――』
『だいたい貴族どもは訓練を受けている。匂いでの判断はほぼ不可能だ。それに――』
ザットはスンスンと鼻を鳴らせて、続けた。
『潮の臭いが酷い』
たしかに磯臭い。もはや海の匂いではなく、魚が腐ったような悪臭が混じっている。
二人がついて来ていない事に気付いたエヴリーヌが手を振っていた。
『なにしてるんですかー? 行きますよー』
そこから先は、道なき道を草木をかき分けて進んだ。
決して真っ直ぐ進むような事はなく、何度も何度も磁石と地図を確認しながら迂回する。エヴリーヌがいなければ、魔樹と戦いながら道を行く羽目になっていたのかもしれない。
やがて、目の前に現れたのは――
『アスファルトだ……』
木々に踏み割られた、かつての文明だった。
粉々に砕けたアスファルトが、辺りに散乱している。それもかなりの範囲で。
もはや道路としての面影はこれっぽっちも残されてはいないが、かなりの幅を有した車道であった事が見て取れる。まるで森に撒いた道しるべのように、奥へ奥へと続いていた。
他に目に付くのは、工場の壁に使われるような灰色の波系スレートや、大破して横倒しになったトレーラ。それらの全てが森に呑まれている。
数年経った状態で古代遺跡だと言われれば、疑いの余地なく信じてしまいそうだ。
『エヴリーヌ、ちょっと待って』
『はい? どうかされましたか?』
『少し休憩しよう。疲れちゃって』
『うーん……休憩と言われましても。こんな森の真ん中で、ですか? あとちょっと行けば少し開けた場所に出るはずなので、それまで頑張ってください』
『いいや、無理だね。なんてったって僕は貧弱なんだ。あそこなんてどうだろう?』
学人が示したのは、緑のフェンスに囲われた細い鉄塔だった。多少傾いてはいるものの幸い損傷は少なく、土台のコンクリートが緑を拒絶している。
見慣れない奇妙な物体に難色を示すエヴリーヌだったが、学人が勝手にそちらへ足を向けるとしぶしぶ承諾したようだった。
「やっぱりそうだ」
鉄塔を見上げた学人は自分の予想が当たっていた事に満足した。送電線にしてはやけに細すぎる。
「となると、あれが……」
脇にある、金属製のキャビネットを確認する。大きな力が加わったのか、ひしゃげて扉に隙まができている。
中を覗くと真っ暗で、無音の状態だった。念のためにスマホを起動させて、こちらも確認する。
やはり圏外だった。
『これは何ですか?』
『なんでもないよ、ただの鉄の塊さ』
『そうですか……ところでガクト様、ここまで来ておいてなのですが、これ以上の探索はおすすめできません。できれば引き返した方が』
『どうして?』
『ワタシも魔樹に気を取られていて今まで気が付きませんでした。この森は、なにかがおかしい』
『なにかが?』
たしかに不気味な森ではあるが、そんなものは入る前からわかっていた事だ。耳を澄ませても木々のざわめきが聞こえるだけで、他に不審なところはない。
そう――
『何も聞こえないんです。獣の声も、鳥の鳴き声さえも』




