130.グリーフ・ロアー
ジェイク・E・イーストウッドは歩いていた。
行く手に広がるのは焼け爛れた大地。右も、左も、後ろも。煙を噴き上げる灰の土地が、遥か先まで延々と続いている。
もう丸一日歩き通したというのに、景色は何ひとつ代わり映えしない。
こうなったのはもう数日前の話だ。だのに、堆積する灰は未だに高温を保ち続けていて、至る所で燻っている。
靴底はとうの昔に焼け落ちてしまった。無防備に晒された足には突き刺したような痛みが広がる。次から次に灰が纏わりついてくるので、これでは剣山の上でも歩いた方が幾分ましなくらいである。
下から突き上げる熱気が体力を容赦なく奪う。汗が出なくなってから既に久しい。口の中は枯れた井戸のようにカラカラだ。
それでも前に進まなければならない。今更引き返すのは――といった理由ではなく、進む足を止められない。
強制ではなく、これは義務だ。
気力もとうに限界を超えており、立ち止まってしまいそうになるが、そうなれば衰弱死する前に焼け死んでしまう。
ジェイクは忌々し気に空を仰いだ。
ああ、空はあんなにも青いのに。
こんなにも清々しい天気なのに。
パキッという音のあと、絶え間ない激痛とはまた違う痛みが足を襲った。危うく転びそうになる。
踏み折った黒焦げのそれは焼け落ちた木なのか、焼け崩れた誰かの腕なのか脚なのか――もはや判別すら難しい。
『誰か、いな゛――』
声を絞り出すも、焼け付く痛みに負けてかすれる。そして当然のように返事は無い。
天使族の軍隊と善戦を繰り広げる戦士たちでさえ、女神がひとたび気まぐれを起こしただけでこの様だ。今回は一瞬にして全てが焼かれ、後に残されたのは灰のみである。ここが色彩に富んだ楽園だったなんて、一体誰が信じるだろうか。
抗えない力の差を目前にしても、絶望する事は許されない。絶望してしまえば待っているのは死よりも過酷な運命だからだ。
それになにより――元はと言えば自分たちが始めてしまったからだ。
灰に埋もれた石に足を取られ、ジェイクはとうとう手をついてしまった。地面に触れた手と膝に新たな激痛が刻まれる。
それでもなんとか立ち上がろうとして、視界を左右に振る。何か掴まれる物は無いか……あるはずもないのに。
誰かが一人、転がっていた。
かなりの幸せ者だ。まだ原形をとどめているのだから。
彼なのか彼女なのかわからない。しかし、ジェイクには不思議と“彼”である事がわかった。
頭が内側から裂けている。灼熱の炎に晒されて脳が沸騰、破裂でも引き起こしたのだろうか。眼窩から眼球の飛び出した痕跡がある事から、そんな想像をした。
彼は――ロンダドールはせめて苦しまずに死ねたのだろうか。今はそればかりを願う。
親友の残骸を目にしても、心が揺れ動く事はほとんどなかった。もしかすると無意識のうちに抑え込んでいたのかもしれない。
自分には、嘆く資格はない。
さらに進んだ。
今度は壁の一部にたどり着いた。
比喩でもなんでもなく、本当に一部。おそらくこれは砦の一部だ。真っ黒に佇むそれは遺跡と呼んでも差し支えない様相である。
裏側に回ると、ここにも幸運の持ち主がいた。
膝を抱えて丸くなってはいるが、なぜか頭だけはこちらを向いていた。
骨格が浮き彫りになっていて、外観からは人間であった事以外何もわからないのに、やはりジェイクはその人物を知っている。
河が決壊したように、ジェイクの心は罪悪感の激流に飲み込まれた。自分一人ではとても償いきれない罪。
――クスクス。
感情を逆撫でする笑い声が耳に触れる。
『何が、可笑しい?』
笑い声の主に問いかける。
灰の舞うこんな場所でも、身を包む純白のドレスには一点の穢れもない。穏やかな笑みを浮かべて、この風景を作った張本人は僅かに残った瓦礫に腰かけていた。
『だってそうではないかしら? お友達には何とも思わなかったのに……酷い子ね』
目の前にいるのは本物か、幻覚か。果たして誰のせいなのか。
『黙れよ』
『クスクス。あなたのせいじゃないわ、ジェイク。わたくしは間違いなくここにいるもの。これもそれも、あなたのせいじゃない』
いや、これは俺のせいだ。自責の念に駆られて、再び真っ黒な亡骸に目を落とす。
亡骸は何も語らない。
最期の瞬間を認識できたのかも、苦痛を味わったのかどうかさえ。
サク――サク――。
気のせいか。偶然拾ったかすかな音にジェイクは息を止めた。自分の呼吸ですら妨げになるほどの小さな音。この場所に、絶対にあるはずのない音だ。
空耳である事を期待して耳に神経を集中させる。
やはり聞こえた。
歩調は遅いものの、これは灰を踏みしめるものだ。どこにいるのかまではわからないが、それはたしかに誰かの足音で、着実にこちらへ近付いている。
『ア……ア、ァア……ァ』
ジェイクは後ろを振り返ると、音の元凶をしっかりと確かめた上で矢を放った。
炭化したロンダドールだった。
死者が動く。それはこの浮遊大陸においてあり得ない事だった。ここには、亡者が生成されるほど濃度の濃い瘴気が存在しない。
となれば、考えられるのはたったひとつだけ。目の前にいる女神の仕業だ。
『あら、その玩具は気に入らなかった? クスクス』
『玩具じゃねえっつってんだろッ!』
今までに何度このやり取りをしただろうか。にもかかわらず、ジェイクは自分でも驚くほどの声量で怒鳴っていた。
喉の痛みなんて関係ない。
『いいえ、それはわたくしの物よ。玩具以外の何物でもないの。もちろんジェイク、あなたもよ』
澱みない瞳を受けて、ジェイクは言葉に詰まってしまった。
何か言い返さなくては。
言い返したからからといって何かが変わるわけでもないし、深い意味なんてあるはずもない。せいぜい実のない口論に発展するくらいだ。
それでも、納得しない。
ジェイクの心が、納得しない。
ただ哀しいのは、狂乱寸前のせいか頭に浮かぶのは陳腐なものばかりで、とても口に出せそうになかった。
そうしていると、今度は突然足首を掴まれた。
『――ッ!』
咄嗟に剣を引き抜く。
手を伸ばしていたのは膝を抱えていたはずの“彼”だった。
焼けて固まった筋肉で、一体どうすればこんな力が出せるのか。尋常ではない握力がジェイクの骨に悲鳴を上げさせる。
このままでは足を握り潰されてしまう。
しかし、ジェイクは手にした剣を振り下ろせなかった。
『あらあら。その玩具は気に入ったのかしら? クスクス』
女神の笑いが一層愉しげに変わる。
『違うッ!』
『いいえ、それもわたくしの玩具よ。元は別の誰かの物だったかもしれないけど、ここに来た時点でわたくしの物なの』
『黙れッ! こいつは関係ない! こいつは、ガクトは断じててめえの物なんかじゃあねえっ!』
ジェイクを見上げる山田学人の亡骸は、隙間に詰まった煤をこぼしながらカクカクと口を動かす。
何を言わんとしているのか。
やがて、学人のものとは思えない、耳を塞ぎたくなるような金切り声が吐き出された。
『今何をしようとした、お前ッ!』
ジェイクが観たのは、ここまでだった。
――そんなに気に入ったのなら、どうしてもと言うのなら、あげても構わないけど……困ったわ。もしもあなたが欲望のはけ口にしようものなら、わたくしはジェイクを叱りつけなければいけないもの。クスクス。
――――。
ハーネスの屋敷から戻った学人は若干荒れていた。
「どうしてほぼ一択しかないんだよ! どうなってるんだこの国は!」
侯爵家の一室、テーブルを叩く音が響いた。衝撃で水の入ったコップが跳ね、荒々しい波紋を作る。
学人は出迎えたヒイロナを素通りして突っ伏していた。
ヒイロナは一緒に帰って来たペルーシャとザットに目を向けるが、二人とも目を逸らすばかりだ。ジェイクに付きっきりのメルティアーナは迷惑そうに一瞥するも、別段興味を示そうとはしない。
『え、えーと、ごめんニャ?』
『いいよもう。決まっちゃったことなんだし……』
決闘は片方が宣言し、身に着けている物を投げた時点で成立してしまう。
物に触れればルールに則った試合が行われる。相手を殺してしまってはいけないし、万が一死なせた場合は自らもその命で償わなければならない。
仮に物に触れたとしても、すぐに返却すれば無条件降伏となる。
では避けたりして触れなかった場合だ。
ルール無用。殺されても文句は言いません。そういった意味だ。ただし卑怯な手だけは許されない。
どうにせよ、決闘を宣言された時点で学人に逃げ道は無かったのだ。
『どうしたの? 何があったの?』
『実は……』
ヒイロナにこれまでのいきさつを説明する。
怒るんだろうなと恐る恐る顔色をうかがうと、その顔からは完全に感情が失われていた。蒼い瞳がテーブルをなぞり、とある地点でピタリと止まる。
『なに……それ』
『す、すまねえ! オレがついていながら!』
慌てて弁解しようとするザットの声は届いていない。ヒイロナはおもむろにコップを掴んだ。
『ヒイロナ、何を』
ヒイロナの怒りは無理もないし、ペルーシャが水をかけられるのも仕方がない。実際それだけの事をしでかしたし、むしろそれで済めば安いものだ。
しかし、学人は見逃さなかった。ヒイロナの手に魔力が宿っていたのを。
止めさせようと伸ばした学人の手も虚しく、
『断罪の首輪!』
宙に放り出された水はペルーシャの首に巻き付き、瞬時に氷へと変化する。
だが次の瞬間、氷は音を立てて自壊してしまった。
よく見ればペルーシャの首には、光を帯びるもうひとつの首輪が巻かれている。今の今まで無かった物なのに、と学人が首をかしげていると、廊下から小さな影が飛び込んで来た。
『今何をしようとした、お前ッ!』
興奮状態で金切り声を上げたのは、ペルーシャにくっついてきたエヴリーヌだ。どうやらあれは彼女の魔法らしい。
つまらない物でも見るようなヒイロナに対し、ペルーシャが一笑を飛ばす。
『はんっ! 取られて困る大事ニャもんやったら鎖でも繋いどけや』
『そう……そうね。それは良い考えだわ』
ヒイロナはそう言い捨てて出て行ってしまった。
こうして嵐の後の静けさが戻ると、学人はどっと疲れがのしかかるのを感じた。
ヒイロナとペルーシャの仲は特筆すべきものはなかったものの、決して悪くはなかった。国境都市からここに至るまで色々とあったが、もちろん学人が懸命に執り成した功績だ。
それなのにちょっとした事で簡単にバランスが崩れてしまう。ソラネの次はヒイロナなのか……。どうしてみんなもっと仲良くできないのか、と学人は頭を抱えざる得なかった。
普段は穏和なヒイロナがあそこまで感情に任せてしまうのだから、水面下では鬱憤が溜まっていたのかもしれない。
だが、ペルーシャの次の一言で今回ばかりはそれだけに留まらなかった。
『あの女。今アタシを殺そうとしよった……』
砕けた氷の内側は、鋭い棘で覆われていた。




