129.クロスロード 3
客間には長く大きいテーブルが置かれている。
入念に磨かれた黒が鮮やかで、くっきりと天井を反射している。黒大理石のような石材で作られたそれは、圧倒的な存在感を持って鎮座し、一目見ただけでその重量感に圧し潰されてしまいそうである。
前後には使用人が並ぶ。その中の一人が用意された金属のカップに黒い液体を注いで回る。これもまた銀の反射が眩しい、高級品である事が伝わってくる。
あまり嗅ぎ慣れない土のような、しかし気分の落ち着く香りが立ちこめると、ようやく液体の正体が珈琲である事に気が付いた。
学人としてはこの世界に珈琲があるだなんて意外だった。中継都市に滞在している間も、それからも、一度も目にしなかったのだ。とはいえ紅茶の種類は豊富なので、たまたま見かけなかっただけというのも十分に考えられる。
ミルクも砂糖も見当たらないので、学人はそのまま口に運んだ。酸味はほとんど感じられず、深いコクとほろ苦さが強く鼻奥まで広がる。
熱さが喉に落ちていくと、余熱のこもった吐息が自然にこぼれた。
珈琲を飲んだのは久しぶりだ。そういえば九月一日のあの瞬間も、こうやって珈琲を飲んでいたな……などと考えるのはただの現実逃避だ。
立ちのぼる白い湯気からひとたび目線を上げれば、否が応でも自分の置かれた状況を突き付けられる。対面で睨みをきかせてくるのはペルーシャの父、アルベルトだ。挟み込んで立つ使用人たちからの視線も突き刺さる。
アルベルトはだらしない体型をしているが、毛並み、色、特徴的な縞模様から虎に似た獣人族である事がわかる。ハーフとは聞いていたが、どうやらそちらの血を濃く受け継いでいるようだ。
プルミエールから逃げていた無様な姿は面影もなく、敵意に満ちた瞳で学人を睨み続けている。さすがは貴族の当主といったところか、その重圧は学人を縮こませるには十分過ぎるほどだった。
『相手はラムール伯ルーレンシアのゴードン。先方より申し出があったのだ。“黄金の爪”ペルーシャを嫁に欲しいとな。どこぞの謎の馬の骨ごときが我が娘と結婚しようなどと……身の程を弁えろ』
『しかし、お義父さん』
『貴様にお義父さんなどと呼ばれる筋合いはない!』
当然と言えば当然、取り付く島もない。
怒りに任せて暴れていたプルミエールはというと、一足先に婚約の経緯を知ってからというもの、完全に口を噤んでしまっていた。
ただ、鼻息荒く据わった目をアルベルトに向けているところを見ると、彼女は間違いなく今も不満に思っており、こちらの味方であると考えていいだろう。
何も口を出さずにいるのは、もう誰がどうやっても覆せないという現れなのか……。
『ゴードンは“黄金の爪”を気に入ってくれている。面倒な事をしてくれたと思っておったが……全部無駄だったな?』
アルベルトは勝ち誇った顔をペルーシャに向けるが、ペルーシャとて引き下がる気は無かった。
『身分? 身分言うたか今? 阿保とちゃうんか』
『当然だろう。お前とその男とでは住む世界が違う』
『ガクトはあれや、異人の貴族や。身分ニャんて言い出したらラムールんとこのボンボンにゃんかチンカスやで』
『……なに?』
アルベルトが『それは本当か?』という懐疑的な目を学人に向ける。
そんなわけがなく、もちろんペルーシャのでまかせだ。虚を衝かれた動揺を押し殺す。下手に否定しようものならどんな目に遭うかわからない。
今はただ、なんとかこの場をやり過ごす事だけしか考えられなかった。ペルーシャの妄言についてはまた後ほど説教する事になりそうだ。
『コホン、改めて自己紹介をさせていただきます。山田家長男、名を学人。本日は娘さんをいただきに参上致しました』
『ふん、そのヤマダ家というのはどの階級だ?』
『えっと、ぶ、部長です』
『ブチョウ? つまりどういう事だ?』
『わかりやすく言えば上から二番目です』
『ふん、とても人の上に立つ人間には見えんがな』
どうしてこんな事になったのだろうと頭を抱えたい気分だった。頭の整理が追い付かないまま、あれよあれよという間にこんな状況だ。とんだもらい事故である。
アルベルトは少し何かを考えて、質問を続けた。
『なぜ貴様は、貴様だけがここにいる? 目的は娘だけか?』
これまでとは明らかに違った声色だった。口調から、ある程度の情報は入っているのだろう。
正体不明の種族の介入に警戒し、動向を少しでも探りたいのは当然だ。
『家族を、肉親を捜して旅をしています。ご挨拶を兼ねて、ここ領都ヒルデンへ来ました』
『つまり、たまたまだと?』
『いえ、領主との謁見も考えておりました』
『ふむ、それは何故か?』
『自分たちの安全確保のためですよ。中継都市は受け入れてくれましたが、どこもが歓迎してくれるだなんて楽観的な考えは持っていません。それとも貴方がたはそんな想像すら浮かばないほどのお花畑なのでしょうか? 今回は嫌な予想が当たっていたみたいですけど』
『ふん、随分と活躍してくれたらしいな。その点だけは礼を言っておこう』
あくまでも強気に。物怖じしている所を見られれば嘘がばれてしまう。学人は今、日本の“貴族”なのだから立場はあくまでも対等。へりくだる必要など全く無いのだ。
次はどう出てくるのか。学人は固唾を呑んで言葉を待った。
『貴殿はノットの凶行を警告したそうだな』
『え、ええ』
『何故知っていた?』
『森林族の森で彼と会いました。その際に』
『自分からペラペラと喋ったとでも?』
『その通りです。彼は共謀を持ちかけてきました。その場で仕留められればよかったのですが――』
『……プッ』
学人の言葉を遮るように、場にそぐわない吹き出す声が漏れた。
『フフっ、まあまあやるやん』
張り詰めた空気の中、愉しそうに声を出したのはプルミエールだった。
『まあそんな事はどうでもええわ。それで、どうやそれ? おかわりもあるからな』
プルミエールはカップを指しながら言った。
どうしてこのタイミングでそんな質問を? 学人は困惑するばかりだったが、素直な感想を述べようとする。
『え? ええ、これはとっても美味しい……えっと?』
珈琲。その単語が出てこない。普段の生活では使わないであろう単語まで教わったのに、ヒイロナからは珈琲に代わる言葉を教えられていない事に気付く。
プルミエールは戸惑う学人を微笑みながら見ていた。
『かまへんよ、わからんもんは自分らの言葉で』
『この珈琲、とっても美味しいです。僕らの物と変わらないくらいに。この世界にもあるなんてびっくりしました』
『ふーん、そっかぁ』
プルミエールは珈琲を誉められたのに気を良くしたのか、さらに上機嫌になったように見えた。安心できる、優しい笑顔だ。
『この豆茶、こおひいって言うんか。……やって、アンタ』
そうやって水を向けられたアルベルトは、少し青ざめたようにも見える。動揺したのを隠しきれずに、声を荒げた。
『なぜ教えなかった!』
『アンタが訊けへんからやろ』
『まさか、そんな物がこんなに早く流れ着くとは思わないだろう!』
『ガクトさん? 楽観的な阿保がここにおったで』
アルベルトの怒声を無視し、プルミエールは可笑しさを堪えきれないといった様子だった。
『これな、中継都市から来た商人から買うてん。この人がえらい気に入ってしもてなぁ、今代替品になるもんが無いか探させてんねん。向こうはなんや? 異人さんの文化が入って随分変わったらしいなぁ。食べもんがめっちゃ美味しいらしいやん?』
『え……ええ、たしかに。僕が出発する前でもその、カレーとか、ラーメンとか』
『自分らが来た影響が遅かれ早かれ、ここアイゼル王国にも来ると思ってるねん。まあー、どの程度かは知らへんけど』
言葉の所々でプルミエールは意地の悪い視線をアルベルトに突き刺す。その度にアルベルトは居心地の悪さを感じていた。
プルミエールはあたかも持論のように語っているが、領の貴族たちは皆、彼女と同じような考えを持っている。それはアルベルトとて例外ではない。
今彼らの持っている情報を元にこれからの未来を見据えれば、日本の“貴族”山田学人の登場は好都合なのである。新しい風の一部を身内として取り込めれば、この先色々と有利に動けるだろう。
王国の貴族と日本の貴族、どちらに娘を嫁にやればいいのかなんて明白だ。プルミエールは、もう嫌というほどわかっている事を執拗に突いた。
『そこの貴族が自分から身内になりたい言うて来てんねん。ネギしょって来た鴨を突っぱねる阿保がおったら顔見てみたいわぁ。あ、ここにおった。うわこっち見てるできっしょ』
『う、うるさいっ! もう決まった事なんだ、今更もう遅い!』
『なんとかせえやハゲ』
決定事項。もはやアルベルトにすら覆せない決定事項であると、その態度からは顕著に出ていた。
タイミングが違えば――学人の方が早ければ、案外すんなりと受け入れられていたのかもしれない。
ならば――
『相手の貴族を紹介してください、僕がなんとかします。貴方がたの決まりなんて僕には関係ない』
そう、関係ない。どこにも属さない新しい勢力であるからこそ、最悪強引にでも、自分になら介入できるかもしれない。学人はそう確信していた。
学人は迷わずに申し出たが、アルベルトは眉間に皺を寄せるばかりだ。長く尖った爪を口にやり、苛立った様子だ。
結局アルベルトは押し黙ってしまい、イエスともノーとも、どちらの回答も得られそうにはなかった。
訪れた沈黙の中、そっと静かに扉が開かれた。
入室して来たのは長い耳をピンと立てた、真っ白な毛の獣人族だ。兎に似た種族である事が窺える。
黒地に金の刺繍が美しいロングコートを着込んでおり、すらりとしたシルエットから気品の良さを漂わせている。
突然の来訪者に、アルベルトは焦りを隠せなかった。
『これはゴードン殿、お見苦しい所を』
『いえいえ、こちらこそ立ち聞きをしてしまい申し訳ありません。実に興味深いお話だったもので、全て聞かせていただきました』
ゴードンと呼ばれた兎には、言葉とは裏腹に悪びれた気配などない。学人に視点を定めると、不敵に笑みを浮かべた。
『フッフッフ、“黄金の足”ガクト。その名にはそういう理由がありましたか。ペルーシャさんと御揃いなのでおかしいとは思っていたのですよ』
黄金の足。それはあの地下牢で一度だけ名乗った名前だ。ゴードンはさらに続けた。
『君はあのゼルメタルをその足で蹴折り、領門すらも蹴破ったそうですな。虹姫が破壊した城も、実はその半分が君の仕業だとか』
空気と化していたザットを睨む。全力で首を横に振っている。
どちらにせよ、貴族の情報収集能力はなかなか侮れない。きっと生き残った兵士の中で噂にでもなったのだろう。
『フッフッフ、成程……面白い。申し訳ありませんが黄金の足ガクト、吾輩とて簡単に引き下がるわけには参らないのです』
ゴードンは身に着けている手袋を外す。
ジェスチャーなど、似ている部分は今までにもあったがこんな所まで似るものなのか。学人を嫌な予感を襲った。
『決闘だ!』
ゴードンが学人の顔面に手袋を投げつける。
あれに触れてはいけない。そうすればきっと決闘が成立してしまう。
瞬時にそう判断した学人は手袋を躱す。行き場を失った手袋はぱさりと床に落ちた。だが……
『あ……』
ペルーシャとザットの声が重なった。今一番聞きたくない「あ」だ。
たった一文字の、あまり大きくない台詞であったが、それは学人の脳髄隅々にまで響き渡った。
『フッフッフ成程、面白い。やはり恋敵という者はそうでなくては。よろしい、刻と場所についてはまた改めて連絡させてもらおう。よろしいかな? アルベルト卿』
『ふうむ、ゴードン殿がそれで良いのなら』
凍り付く学人をよそに、着々と決闘の取り決めが行われる。
学人は縋るような目で、ペルーシャとザットを見た。
『え、えーと。僕なんかやっちゃいました?』




