128.クロスロード 2
アスファルトで舗装された道路に、ゴム製のタイヤ。これらがどれほど優れた物だったのかという事を、山田学人は今改めて思い知らされている。
アシュレーたちの馬車に乗っていた時は、少し慣れてしまえば振動なんてさほど気にならなかった。速度、重量、馬車竜の数や種類など様々な要因があったのだろうが、何よりも細心の注意が払われていたに違いない。
今乗っている馬車はどうだ?
四頭立ての四輪大型馬車。天井まで全て黒塗りの金属製で、たしかに高級感溢れているものの乗り心地は最低だ。
四頭の竜が引いているので馬力に申し分なく、かなりの速度が出ている。
だが凸凹の土道に骨組みだけの車輪の組み合わせは極悪で、細かな振動すらも残さず伝えてくれる。何かを踏もうものなら簡単に尻が浮き上がる。
三回目だ。
走り始めてまだ大した距離も進んでいないのに、学人が舌を噛んだ回数は既に三回目である。
縦だけでなく横揺れも酷い。時には横転してしまうのではないかと心配になるほどだ。
『それで、ガクトは自分どこの出身や?』
激しい揺れの中、ペルーシャの母親プルミエールは上機嫌に話しかけている。
プルミエールを挟んで学人とペルーシャが座り、対面には執事ジーニアスと侍女のエヴリーヌが座る。
学人は恐る恐る口を開くも……
『え、えーと。にっぽ――あぐッ』
『ニッポ? なんやそれ、聞いた事あらへんで。ははーん、さてはド田舎やな』
四回目。とてもまともに喋れる状態ではない。
しかし、それでも必死に受け答えをしなければならない。目の前のエヴリーヌを見ると、プルミエールの視界に入る度にビクリと肩を震わせている。強張った表情とガクガクと小刻みに震える足を見れば、それが振動のせいだけでないのは明らかだった。
理由は単純明快。プルミエールに恐怖しているのだ。
いとも簡単に投げ飛ばされていた大男の姿がフラッシュバックする。だんまりを決め込んで、もし機嫌を損ねてしまえば同じ運命を辿るのだろうか。
プルミエールは舌も噛まずによく喋る。“友達”というワードに反応したらしく、すっかり歓迎モードだ。それとは対照的に、前に座る二人には冷ややかな視線を送っている。
ジーニアスは憶する素振りもなく口を挟んだ。
『奥様。これ以上喋られるとその……お屋敷に着く前にお客様の舌が千切れてしまいます』
『なんや自分、車はあんまり乗らへんのか?』
『彼は異人でございます。向こうがどういった世界なのか存じませんが、きっと文化が全く異なるのでございましょう』
『ああ、今話題の。そう言えば名前一緒やな。しっかし……なんやえらいヒョロッヒョロやなぁ』
ヴォルタリスの声明により、学人の存在は広く知れ渡っている。
魔術研究者ノットの凶行によりこの度の魔力嵐が発生し、異世界から来た男“ヤマダガクト”が阻止に動いていなければ、領都は全滅していた事。
また、ノットの口車に乗せられて異人を殲滅すべく、中継都市へ軍を送ってしまった事。従軍した兵はただ命令に従っただけであり、全ての責任は自分にあると、そういった内容のものだ。
決して言い繕うとせずに、ダイレクトに自分の失策であると発表していた。
なかなかできる事ではない。学人といえばちょっとした仕事のミスでも、無意識に言い訳を探してしまうほどだ。結局それらの言い訳が実際に使われた事はないのだが。
すぐさま殲滅作戦中止を伝える早馬が出されたが、いかんせん全てが遅すぎた。もはやできるのは中継都市の人々が無事であるよう祈るだけだ。
(貴族か……)
まだはっきりと伝えられたわけではないが、流石に聞くまでもなく答えは出ている。
ペルーシャは家から逃げようとしていた。
貧困や暴力とは無縁の良い暮らし、というのは学人の勝手なイメージかもしれない。悩みなんて人それぞれだが、死を装ってまで捨てようと思い詰めるものなのだろうか。
目に見える印象では、この世界の権力者は非常にクリーンに映る。住む場所や家族を失った人々に、屋敷や自らの財産を惜しみなく提供するほどだ。もちろん貴族にしかわからない陰謀や策略、水面下の戦いはあるのだろう。
事情を聞いて、もし力になれるのならなってやりたい。自分にできる事が果たしてあるのだろうか……。
考えが行き詰ったところで、学人は外に目を向けた。
見晴らしのよかった草原が次第になだらかな曲線を描き始め、木々もちらほらと増えてくる。大きな一枚岩が鎮座する場所もある。
流れていく景色を目で追っていると、遠くの方、緑にそぐわない異質な物まで流れてきた。
『あれはッ!』
思わず声を上げずにはいられなかった。
青と赤、二色に分かれた物体が木々の合間から突き出ている。それは細長く、おそらく赤い部分が底で、青い部分はデッキに繋がっているのだろう。先端近くにはスクリューも見える。
船だ。
船尾が何かに持ち上げられ、大きく傾いたままその状態を保っていた。
『ふむ、やはりあれは貴方がたの物ですか。嵐の後に突如現れていたのです』
ジーニアスがそう説明する。
あれを動かせれば海を渡れるのではないか、と学人の期待が膨らむ。ここはかなり内陸部なので運搬方法など問題はあるが、その前に荒らされてしまっては話にならない。
『あの、あれを保護してもらうわけには?』
『念のために誰も近付けないように見回りをしております。正体不明の構造物ですからね。危険があってはいけませんので』
『ええ、あれはとても危険です。僕が後ほど調査を――うぐッ』
興奮のあまり、つい勢いよく喋ってしまったおかげで本日五度目である。
ジーニアスとプルミエールの間では仕切りに目線のやり取りがされていた。一使用人でしかない彼にそのような決定権があるはずもない。
結局、一言も言葉を交える事はなかったが、
『畏まりました。では、そのように』
どうやら許可が下りたらしい。
『他にも何かありませんでしたか?』
召喚されたのは果たして海水だけなのだろうか。船が巻き込まれているのだから、それ以外にも別の物があるかもしれない。
運が良ければ、生存者も。
『そうですね、他には――』
ジーニアスはそこで会話を中断させた。
急に、車内の空気が張り詰める。ずっと俯いたまま無言だったペルーシャも顔を上げ、馬車の発する雑音の中から何かを拾い上げようとしている。
状況が飲み込めていないのは学人だけだ。
『何者や?』
『さて、考えられるとすれば先ほどのゴロツキに他の仲間がいたのかと』
ジーニアスは窓から頭を出すと、驚嘆の声を上げた。
『おー、これはこれは。やはり襲撃のようでございます』
『ジーニアス様、ここはワタシが』
エヴリーヌが腰を上げる。
おかっぱの髪にそばかす。少し太めの眉で垢抜けない田舎娘のような雰囲気で、言って悪いがとても争いに向いている風には見えない。しかしどうやら戦闘の心得があるようだ。
『いえ、お前の敵う相手ではないでしょう。ここでお客様をお守りしなさい。マイルズ、何があっても速度を落とさぬように』
ジーニアスはエヴリーヌを制し御者に声をかけたあと、するりと窓から屋根に登る。
直後、ズシンと落石が直撃でもしたかのような衝撃が馬車を襲った。
『番犬ともあろう御方が、この車がハーネス家の物である事くらいわからぬわけではないでしょう? おっと失礼、今は野良犬でしたか』
ジーニアスは襲撃者に挑発的な笑みを浮かべた。
馬車を追いかけ、さらに屋根へ飛び乗った襲撃者――ザットは微かに毛を逆立てながらも、返事をするまでに一呼吸を置いた。
あまりにもわざとらしい口調、見え透いた挑発に乗ってやる義理はない。
『ハッ! 相変わらず耳の早えぇ野郎どもだぜ。貴族様が白昼堂々人攫いたあどういう了見だ』
『野良犬の貴方には関係がないはず。それは正義感からでございますか? 殺人に快楽すら求めた貴方が』
『いつの話だそりゃあ、ウルセエ野郎だ。いや、だが黙らなくていい。今黙らせてやるからよ』
『ほう、丸腰で、ですか?』
ジーニアスは袖から鉤爪を出し、構えたが、ザットは小刀の一振りすら持っていない。武器になる物は鍛えられた筋肉と生まれ持った鋭い牙と爪だ。
剣というのは元々、ザットにとって不要な物だった。もちろん武器を持った方が楽に敵を倒せるのだが、無い方が観客が湧く。じわりじわりと闘技場が赤に染まっていく方が、純粋にエンターテイメントとして悦ばれるのだ。
しかし相手は貴族だ。うっかり殺してしまうと後々面倒臭い。加減の利く丸腰あたりが丁度いいのかもしれない。
太陽を掴まんとするように高く掲げられた爪がジーニアスを襲う。
再び衝撃が馬車に伝わった。振り下ろされた腕は寸でのところで空振りし、屋根を少し陥没させていた。
ここで学人の叫びが飛んだ。
『ザット?! どうしてここに!』
『おう兄弟。コイツをギッタギタにして今助けてやるからよ』
『違う、違うんだ!』
ようやく状況を理解した学人に続き、プルミエールが顔を出す。
『なんや、知り合いか?』
『えっと……友達? です』
『んまぁ! 友達! ペルーシャったら友達を二人も!』
『え、いや、ちが――』
『あんたも遊びにおいで! ジーニアス、お客さんや』
……。
馬車が徐々に速度を落とし始め、揺れもあまり気にならなくなった頃、風景は丘陵地帯になっていた。そして村の物へと移り変わる。
木造の建物が目立つが周辺街の粗っぽい物とは違い、念入りに手入れが行き届いているようで美しい。艶が際立っていることから、何か特殊な加工が施されているようだ。
でこぼこだった道は平らに舗装され、幅も大きく取られている。両脇は花壇になっており、色とりどりの花が進行方向を導いている。長閑というよりは小洒落た印象を受ける。
所々に破壊痕があるのが学人には気になった。先日の嵐の影響で、領都から離れた場所でもやはり無傷ではいられなかったらしい。
窓から顔を出すと、奥に茶色い大きな建物が何棟も見える。きっとあれがハーネス家の屋敷なのだろう。
馬車は少しした所でゆっくりと停車した。
『到着致しました。ようこそ、ハーネス家へ』
ジーニアスはそう言うと、エヴリーヌと共にそそくさと降車する。『どうぞ』と差し出された手を取り、学人は頭に疑問符を浮かべながら降り立った。
周囲を見渡すと、やはり屋敷まではまだ少し遠い。学人に続いてザット、ペルーシャと降りて来る。
『あの、着いたって?』
『ですので、これら全てがハーネス家でございます』
「え?」と改めて辺りを見返す。そこまで規模の大きい村ではないのだが、それでも……広い。村が丸ごと家だなんて信じられない。領都にはそれだけの土地が無いと言われればそれまでだが、侯爵の屋敷とは比べ物にならない面積だ。
唖然としていると、馬車はプルミエールだけを乗せたまま走り去ってしまった。
『申し訳ございません。本来であれば本邸まで車でご案内するのですが、まさかお客様に凄惨な現場をお見せするわけにも参りませんので。ここからゆるりと歩くことに致しましょう』
……。
『おっと、紹介が遅れました。そちらの侍女はお嬢様のお世話役、エヴリーヌでございます』
『はじめまして! ペルーシャお嬢様とは幼い頃から寝食を共にしております』
エヴリーヌがスカートの端を持ち上げ、紹介に応える。歳は学人とペルーシャとあまり変わらなさそうだ。聞けば親の代からハーネス家に仕え、ペルーシャが一番信頼を置くのが歳の近いエヴリーヌなのだそうだ。
厳しい教育に加え、使用人しかいないこの村では、彼女が唯一の友人でもあったらしい。
『ここに住んでいる者はほとんどがハーネス家の使用人たちです。現在は状況が状況なので、旅人や商人たちが羽根を休められるように一般開放しておりますが。当主、アルベルト・ハーネス・ニャクシーは五爵第三位、伯爵でございます』
『伯爵?』
道中、退屈凌ぎにとハーネス家の説明を受ける。以前にヒイロナから言葉を教わっていた時に、貴族についても少し触れられていた。
そもそも貴族の在り方が元の世界とは全く異なるため、伯爵と言っても“地方領主”というわけではない。覚えやすくするために日本語に当てはめると伯爵である。
ただ、伯爵は領都から離れた場所に村を構えて居住するため、ニュアンスとしてはそこまで変わらないのだろうか。
基本的に貴族とは、王家に仕える者たちである。国王の命で領主に仕える、言ってみれば派遣社員みたいなものだ。
『それじゃあペルーシャは』
『お嬢様はハーネス家第二婦人、プルミエール・ハーネス・セントレイアのご息女、ペルーシャ・ハーネス・セントレイアでございます』
『でも、ペルーシャは一言もそんな……』
『そうでございましょう。お嬢様の存在は非公式でありますので。必要であればそのあたりも追々ご説明致しましょう』
非公式。学人はその言葉に引っ掛かりを覚えた。
存在が隠されているのに、その秘密を自分に打ち明けても良いのだろうか。学人がこの世界の人間ではないからという理由であれば、まだ納得がいく。しかし今はザットも隣にいるのだ。
(ザット、知ってた?)
(いや知らねえ)
アイコンタクトを送ると首を振られた。ペルーシャは何も語らない。
『それはそうとザット様。先ほどの非礼をお詫びさせていただきたい。てっきり敵であると思いましたので』
『ハッ。構わねえ。こっちこそ誤解で悪かったな』
『しかし貴方ほどの相手との手合わせの機会を失ってしまい、とても残念に思います』
『決闘がしたいならいつでも受けてやる』
その後は村の説明が続き、他愛も無い話に移り、いよいよ屋敷が目前に迫ってきた。
ペルーシャの顔には絶望が広がっている。
『お、お、お、お助けぇ!』
突然、前方から助けを求める悲鳴が聞こえた。
間髪入れずに怒声が重なる。
『待てやこのハゲ! アタシは反対してたやろ、黙って姑息な真似しよってからに!』
非番の使用人たちは呆れた顔をし、声の方を見守っている。怒りに任せて声を荒げているのはプルミエールだ。
重鈍な音と僅かな地響きが地面を走る。
『おー、これはこれは中々しぶといですな。ガクト様、ザット様。少々危のうございますので避難致しましょうか』
『えっと、一体何が……?』
『夫婦喧嘩でございます』
肉団子体系の、黄褐色の毛に黒い横縞が入った獣人族がこちらへ逃げて来る。その後ろでは、獣人族と同じくらいの大きさを持つ鉄球が、唸りを上げて高速回転している。
すっかり息を切らせた獣人族はついに力尽き、つまづいて道端に転がってしまった。
『ジ、ジーニアス! 助けて!』
『自業自得でございましょう。ご自分でなんとかなさってください』
『観念せえや』
細腕で軽々と鉄球を振り回すプルミエールが、冷たい瞳で見下ろす。獣人族は必死に自分が助かる道を模索していた。
『もう無理だ! 先方は身分も申し分無いし、“黄金の爪”などという不名誉な称号にも目を瞑ると言ってくれている! もう縁談はまとまっておるのだ!』
学人は突然の展開に思考が付いていかない。
縁談――ペルーシャはビクリと肩を震わせた。
とうとうこの時が来てしまった。貴族と婚姻関係を結んでしまえば、もうこれからの人生に自由は無い。
一生懸命に広めた盗賊の名は、何の障害にもならなかった。悪名を轟かせば貰い手が見つからなくなるのでは、という考えは甘かったようだ。
――嫌や。
ペルーシャの感情を、絶望と拒絶が塗り染めていく。
――嫌や嫌や嫌や嫌や嫌や嫌や嫌や嫌や嫌や!
それ以外はもう何も考えられない。
それは本当に無意識の行動だった。呆けている学人の腕をするすると絡めとっていく。そして――言い放った。
『アタシ、この人と結婚するからっ!』




