123.ちょっと公にはできない、秘匿性の高い話なので
足元から振動が連続する。濁流に混じる様々な不純物が足場に衝突しているのだ。
警備兵が街を監視するための設備だろうか、どうやらここは石造りの小塔の上のようだった。屋根もあったらしく、その骨組みだけが僅かに痕跡を残している。
深い闇ではっきりとはしないが、眼下にはうねり狂う激流が広がっているのだろう。水しぶきが顔に降りかかる。頂上だけがかろうじて頭を出している状態だ。
何か巨大な物がぶつかって、塔が流されてしまうのではないか。そんな恐怖は眼前の敵に対する恐怖の前には些細なことだった。
目の前に立っている、真っ黒な影は間違いなくシャルーモだ。
身体のあちこちから漏れる光の正体に気付いた時、学人は信じがたい状況を理解した。
相手が真っ黒に見えるのは暗がりだから、という理由だけではない。ずっと闇の中にいて目が慣れている。
元々暗い色の肌が真っ黒に変色している。肉の焼ける匂いと音。つまり、肌が炭化していて、見える光の正体は皮膚の下を焼く炎の燻りだ。
ジータの放った魔法は主を失ってなお、対象を焼き続けている。シャルーモの再生速度と、ジータの全てを焼き尽くす魔法の速度は、炭になった皮膚の下で均衡していた。
そんな状態で生物が生きていられるのか。おおよそ信じられない光景だった。
学人は空になった銃を握りしめる。
もはやその物体に何の期待ができないとしても、縋るように身構えるしかなかった。
シャルーモの影が僅かにぶれる。膝にも力が入らないらしく、小刻みに震えている。つまり、余力が残されていないということだ。
疑問が深まった。
万全の状態であればどうかわからないが、この大洪水は少なくともシャルーモにとっても脅威であろう。危険を冒してまで学人を助けるのに、一体どういった理由があるのだろうか。
浮上した疑問に答えるかのように、シャルーモが動いた。
それは意外な行動だった。
片膝をついて頭を垂れる。
力が尽きて崩れたのでは決してなく、明らかに意思の下にある動作だった。
そして、こう言った。
『貴方がたニハ……本当に申し訳なク思ってル……』
ぜいぜいと荒い呼吸で、精一杯に絞り出された声音だった。
冗談にしても笑えない。領都を、中継都市を滅ぼそうとしたノットの共犯者が、今更どの口でそれを言うのか。
『貴方ガタを……不完全ニ召喚して、しまった。わたしが不甲斐無いばっかりニ、喰い止メられな、カッタ』
学人は血の気が引くのを感じた。
不完全な召喚。ペルーシャと出会った場所だ。
あそこでは、肉を失った人々が大勢倒れていた。不完全とはそれを言っているのではないか。
そしてもっと聞き捨てならないのはそのあとだ。
『食い止められなかった? 君は、止める方法を知っていたのか?』
シャルーモはどうにか呼吸を整えようとするも、全く意味は成さず、不自然な口調なままに答える。
『異世界を引キ寄せるちから、ソの基盤さえ、破壊できていレバ、少なくてもコウはならなかった……はず』
『基盤……?』
学人は察しの良い方ではないが、この時ばかりは不思議と直感的に思い当たった。
自分の知る情報をかき集める。
直接的な原因は、異次元への干渉を可能とする“創世の魔力”。そして原因を作ったのは、創世の魔力に干渉した多くの命を犠牲に生成された“生命の魔力”だ。
この二つの魔力の作用で、日本は引っ張られてこの地に出現した。もちろん理屈などは理解の外で、知り得た情報をそのままに受け止めるしかない。
その基盤と言えばジェイクの家が思い当たる。あの家は生命の魔力の貯蔵庫であるとジェイクが言っていた。
しかし、あそこには破壊しようとした痕跡なんて認められなかった。代わりにあったものと言えば……。
『仲間を、ヴァリハを殺したのは、君か?』
学人の口から決して出るはずのない名前に、シャルーモは目を瞬いて見せた。
『ジェイクは、そんナ事も喋ったノか?』
『それだけじゃない。君たちの家にも行った。そして、ヴァリハの死体を見つけた』
『フフ……そう。ソんな、貴方がたニ必要のない所マで。あいつは昔からソウだ。惚れ込んだ人間ニ対しテは、そう……アリスの時モそうだった』
さらに続けて言葉を出そうとするシャルーモに、学人は不安を覚えた。
ザットを見やる。
険しい顔で二人の会話に聞き入っている。
これ以上喋らせるとジェイクにとって、自分たちにとって不利益な話をされるのではないか。その心中がシャルーモに届いたのかどうかは定かでなない。しかし、
『心配はイラない。その男は、どうせ覚えていられない』
そう挟んだ。
事実、ザットはずっと奇妙な感覚に陥っていた。
流れの速い清流の底を見通そうとするかのように、目の前のやりとりがぼやけてしまう。記憶として脳に染み込んでいかない。
『立場をはっきりさせておきたい』
シャルーモの瞳は、まっすぐに学人を捉えていた。
『立場……?』
『わたしは、貴方がたノ味方だ。本来ならわたしには、貴方がたを守ル義務がある。目の届く範囲だったなら、それもできる。でも最優先は女神大戦の後始末。そこは理解してもらいたい。貴方たちを元の世界に帰す事が、わたしの役目だ』
帰れる。
ノットは不可能だと言っていたのに、シャルーモは当然であるようにそう言った。
『貴方がたの世界はまだ定着していない。それがいつまでもつのかは見当も付かない。でも、きっとまだ定着していない。基盤さえ破壊すれば、元の世界に引き戻されるはずだ』
しばらく無かった雷鳴が、目の眩む閃光と共に轟いた。今までで一層大きなもので、ザットの耳に二人の会話は届かない。
今になって思えばそれは、この最低な夜の終わりを知らせる合図だったのかもしれない。
雷鳴のあと、水の音が急速に遠くなっていく。水位が下がっているのだ。
もうザットの記憶には残っていないが、彼は確かに耳にした。
『そんな! その話をッ! 僕に信じろっていうのか!』
雷鳴にも負けない、学人の激昂した声を。
『だから、わたしに力を貸してほしい。その時は、必ずやってくる』
『どうして僕なんだ! 他にも大勢いる中で、どうして!』
『勘違いしてはいけない。ただ、貴方がここにいたから。偶然ここにいたからに過ぎないの。たとえば他の誰かだったとしても、わたしは同じ事をして同じ話をした』
シャルーモの呼吸はいつしか落ち着いたものになっていた。
燻る炎も息を潜め、どうやら魔法が終息したようだった。だが肌は再生せずに、相変わらず炭のままだ。
シャルーモは『最後の始末をつける』と言い残し、姿を消した。
――……。
『――ト、ガクト!』
『え?』
『どうしたの? ぼんやりしてる』
『いや、なんでもないよ』
ヒイロナの呼ぶ声に、学人は現実に引き戻された。
辺りを見回すと兵士に混じって瓦礫の撤去に勤しむ人々が目につく。いや、逆に兵士が混じっていると言った方が正しいのかもしれない。
彼らは全員言うまでも無く、領都の住人だ。嵐が過ぎ去ったあと、日が昇ってすぐに全員が動いている。
救援がすぐに来るはずもなく、来る保障もないとはいえ、逞しいものだと感心させられる。
そうしているうちに屋敷の門まで辿り着いた。
普段は閉ざされているはずなのだが、今に限っては開け放たれている。
庭園には瓦礫の山が築かれていて、これは屋敷の中から掻き出された物だ。倒壊を免れたとはいえ無傷で済むはずがない。
五階構成のうち、三階にまで水が押し寄せた。水浸しになった屋敷の中は廃墟そのもので、とても人が暮らせるようなものではなかった。
侯爵の私兵に会釈をしつつ入場する。
特別待遇なためか全員から顔を覚えられており、身元の確認はされない。
中には家具や調度品の類が一切無く、すっきりと広々としている。ついでに使用人以外の人影も見当たらない。
だが、日が暮れれば足の踏み場もないほどに、避難民でごった返すことだろう。
借りている部屋に入ると、ベッドにはジェイクが横たわっていて、その側ではメルティアーナが一時も離れずに寄り添っていた。
ジェイクは泥の中からジータを拾い上げたあと、再び昏睡してしまった。それ以降一度も目を開けていない。
学人の表情が曇る。
本当にジェイクは目を覚ますのだろうか。そういった不安もたしかにあった。だが、それよりももっと大きな不安があった。
もし彼が目覚めたとして、どう接すればいいのか。シャルーモの話を信じているわけではない。あの耳をつんざく雷鳴の下でも、彼女の声はよく聞こえた。
――基盤はわたしたち四人だ。わたしたちが死ななければ、貴方がたは帰れない。




