122.犬の警備隊長さん
何者だったんだ、あいつは?
一回目の問いはどちらかと言うと独り言だったので、学人は返事をしなかった。
二度目の問いは、明らかに自分に向けられていたので、『わからないよ』とだけ返しておいた。
正体は知っていても目的がまるでわからない。だからそう答えたのだ。
ザットは何かを嗅ぎ取ったのか、それ以上言及はしない。少しの沈黙のあと、ザットが話題を掲示板に戻した。
『これか?』
ザットがコンコンと掲示板を小突く。そこにある名前はこうだった。
ジェイク・E・イーストウッド。
もちろん死んだわけではない。生きている事をシャルーモに悟られないための小細工だ。領主公式の発表で嘘の情報を垂れ流すのはご法度だが、学人のこの提案は特例として認められた。手違いがあってはいけないので、念のためにと自分の目で確認しておきたかった。
効果が期待できるかどうかは疑わしいものの、今のところは襲撃も無いので、ひとまずは安心しても大丈夫だろう。しかし当の本人がいつまでも大人しくしているとは思えず、早急に何か手を考えなくてはならない。
『そう言えばさ、どうして僕を助けようとしたの?』
今になって考えてみれば妙だ。
門が破壊された後、隊の指揮を放棄してまで学人の身を優先させた。領民であればいざ知らず、あの時の学人はまだ“敵”として認識されていたはずだ。部下の情に厚いザットとしては不自然な行動である。
仮に指揮を執ったところで結果が大きく変わったのかと言うと、それはそれで微妙なものだが。
『テメエ、あれの意味わかってなかったのか?』
『あれ?』
ザットが左手の甲を見せつける。“あれ”とはヴォルタリスの血で描かれた紋章の事だ。
『あれは領主代行の証だ。テメエの命は、あの場で何よりも優先されてた』
領主本人には及ばないものの、ある程度までは兵士への絶対的な命令権を所有する。
ソラネとワッツに蹴散らされた兵たちは、学人の持つ紋章が偽物だと思ったのだろう。本来なら魔力が込められるのだが、嵐の中ではそれができなかった。
ザットは血の匂いで本物であると判断したらしい。
『そっか……ごめん』
『あ? 舐めてんのかテメエ。謝罪は侮辱だ、二度と口にするんじゃねえ。兵が君主に命捧げるのがおかしいか?』
『じゃあ、ありがとう』
『それでいい』
学人は最後の一人の名前を探す。
読めない文字が視界を埋め尽くし、どれも同じに見えてくる。手分けをして探すヒイロナもどうやら苦戦しているようだ。
人垣をかき分けながら横へ横へと掲示板を辿る。
ふと、誰かの足を踏んでしまった。十分に注意していたつもりでも、目の前に集中し過ぎてしまっていたようだ。
『あ、すみません』
『いえ、こちらこそ』
慌てて顔を向けると、猫の獣人族が同時に謝罪を入れてきた。真っ黒な体毛で覆われているが、少し白髪が混じっていておそらく老齢であると思われる。
タキシードにも似た服装で、それなりに地位のある人物なのだろうか。周囲とは少し浮いている印象を受けた。
『知人の名前を見つけまして。少しばかり放心してしまっていたようです。何卒、ご容赦を』
『そうでしたか。それはご愁傷さまです……』
謝るべきは学人の方なのに、逆に丁寧に謝られてしまった。
老猫から動揺している雰囲気など全く感じられない。
『では、これで失礼致します。エヴリーヌ! 参りましょうか』
老猫は再びお辞儀をしてから、連れの女と共に踵を返して行った。
気を取り直して掲示板に目を戻す。
見つけた。
“黄金の爪”ペルーシャ。
皆がフルネームで書かれている中、ペルーシャだけこの形だ。学人は不思議に思いながらも、確認が取れたのでそそくさとこの場を抜け出す。
『よう、もういいのか?』
『うん、別に知り合いがいたわけでもないしね。ザットは?』
『オレもここで終わりだ』
同じ内容の掲示板は何ヵ所にも渡って設置されている。他の場所は既に回り終えたらしく、ザットもここで最後だったようだ。
ヒイロナを呼び戻してザットを紹介する。
その名前を聞いた途端、ヒイロナの顔にぱあっと笑顔が降りた。
『あ! 貴方がガクトを助けてくれた犬?』
『ヒイロナ、言い方っ!』
ザットの気に障るのではないかと肝を冷やす。
案の定と言うべきか、ヘッドロックを極められて後ろに引きずられる。
『おい、ガクト。あのマブい雌はテメエのコレか?』
小指を立てたザットが耳打ちをしてきた。どうやらこのジェスチャーもこの世界でも共通らしい。
『いや、まさか』と全力で否定しておく。
『何コソコソ話してるの?』
『いえ何でもありません! そうです、オレがガクトを助けた“龍の影”正門警備隊隊長のザットです! なに、礼には及びません。オレとガクトはマブダチですので!』
ザットの尻尾がわかりやすく激しく左右している。
今日はどうやら学人に親友が一人増えたらしい。
『ガクト、テメエらは侯爵様の屋敷だったか?』
『うん、そうだけど』
『ヒイロナさん、お屋敷までお送り致します』
家を失って行き場の無い人々は、一時的に貴族たちの屋敷に身を寄せている。一部屋に大人数がすし詰め状態だが、当然それだけで間に合うはずもない。
廊下にまで人が溢れていて、それでもあぶれてしまった者は周辺街だ。ほとんどが財産を失い、領主であるヴォルタリスがいくつもの宿を借り上げている。そちらも当然すし詰めだ。
領都に住んでいたのは裕福層で、そんな生活には耐えられないと遠方の知り合いを頼って出て行く者も少なくない。
学人たちはヴォルタリスの計らいで侯爵の館の一室を借りている。それも侯爵一族のみが立ち入れる特別な区域、生活区である。
『え? 別にいらないよね、ガクト?』
項垂れるザットを見かねた学人は、結局屋敷まで送ってもらう事に決めた。
――……。
『駄目だ、このままじゃ追い付かれる!』
領壁崩壊直後、逃げ惑う松明の火が一斉に消滅した。門兵たちの声が凄まじい轟音に飲み込まれた。
ただ高いだけの白壁はいとも簡単に瓦解する。決壊する様はすぐに闇の中へと沈み、恐怖を煽る水の音が二人を追い越していく。
目には映らないものの、距離が縮まっているのは明らかだった。学人は自分を置いて行くよう訴えたが、ザットは耳を貸そうとはしなかった。
冷たい飛沫が体に降りかかる。
(父さんごめん……約束、守れそうにない)
死を覚悟した学人は、強く目を瞑った。
溺死するのか、それとも洪水に潜む瓦礫に圧し潰されるのか。はたまた凍死か。どうせ死ぬのなら、せめて苦痛を感じないようにと願う。
だが、いつまで待ってもどの感覚も訪れない。
自分でも気が付かない内に死んでしまったのか。奇妙な安堵感が湧き起った。
きっと目を開ければ、すぐ前には綺麗な川が流れているのだろう。
父親に会えるだろうか。母と妹は? もし居たら、どういった顔をすればいいのだろう。「頼りにならなくてごめん」と、そう謝るべきだろうか。
目を開ると、想像とは随分と違った。
真っ暗闇の中から何かが潰れる音がそこらじゅうから聞こえてくる。
『いてて、何が起こった……』
困惑するザットの声に、学人は自分がまだ生きている事を確信した。
次に気が付いたのは、ジュウジュウと何かが焼ける音。そして肉の焼ける臭いだ。
風はいつの間にか止んでいた。
恐る恐る音の方へ目を向ける。
闇の中に、所々から明かりを零す人影が佇んでいた。
『異人……ヤマダ、ガクト』
その声に背筋が凍る。
見たのはほんの一瞬だったが、絶対に忘れない。
『シャルーモ……ッ!』




