121.嵐の後に
灰竜の月五日目。
領壁の南側は洪水により大破。周辺街も南側に甚大な被害を受けた。
嵐から一日も経てば気候は元の温暖に戻り、魔法も使用できるようになった。商人や旅人たちも続々と領都に到着してくる。壊滅的な姿の領都を目の当たりにし、一体何があったのかと誰もが仰天するばかりだ。
彼らは元々この場所を目指していただけで、当然の事ながら救援物資などは持ち合わせてはいない。物資が潤沢に出回るまでにはまだまだ日数を要するだろう。
人々の動きとしては、土砂と瓦礫に埋もれた遺体を回収するに留まっていて、復興開始の目途すら立っていない。重機の存在しないこの世界での遺体回収は困難を極める。いくら魔力で肉体の強化が可能とはいえ、やはり人の身である以上は限度がある。回収が追い付くはずもなく、早くも腐敗の始まった亡骸の悪臭が立ちこめていた。
この日、学人に別れの時が訪れた。
ジータとカイルを埋葬するために、アシュレーたちが領都を出立するのである。
馬車を預けておいた馬宿は北東に位置しており、幸いにも難を逃れていた。中心部からかなり離れているものの、それでも死臭が風に乗って運ばれてくる。
出発の準備を終えたアシュレーが改めて学人に向き直り、かなり疲れた様子で、しかし笑顔を浮かべた。
『その……』
何と言って見送ればいいのだろうか。学人は言い淀んで俯くしかない。
そんな学人に言い聞かせるように、アシュレーは口を開いた。
『見くびってもらったら困るね。ボクたちは自分の意思でここに来たんだ。たしかに助けを求められはしたけれど、断る事だってできた。強制されたのは誰もいなかったんだよ。だから、こうなるのも覚悟の上だったんだ』
『でも……』
『ジェイクさんに伝えてくれるかい? 君らの旅が終わったら、姫に会いに来てあげてって』
『……うん、わかった。必ず』
『姫はルーレンシアの王立墓地、マコリエッタ様と一緒に眠っているから』
『ねえ、本当にいいの?』
学人の背後からひょっこりとヒイロナが顔を覗かせる。見送りは学人とヒイロナの二人と、少し寂しいものになってしまったが仕方ない。
視線は馬車の方を向いていた。それに気が付いたソラネが答える。
『ああ、彼女ですか。むしろ当然ですわ。たしかにわたくしたちは出会ったばっかりですけど、彼女も家族の一員ですもの』
ミクシードの事だ。
ジータの死を受けて、完全に塞ぎ込んでしまっている。誰の言葉にも応答せず、三日間ほど何も口に入れなかった。
衰弱で倒れてしまうのではないかと皆が心配する中、昨日になってようやく僅かな食事を胃袋に収めた。学人は南大陸に渡る方法を聞くに聞けず、今に至る。
この大陸で唯一信頼の置ける人を失い、そのショックは余程大きなものだったのだろう。
そう考えればパンプキンフォースの面々は強い。家族を同時に二人も、それも一家の主を亡くしたにもかかわらず毅然としていて、ここまで涙の一滴もこぼしていない。
『南の大陸から来ただなんて知れたら大変だからね。彼女一人で隠し通しながら生きていけるとも思えないし、ボクらが保護するよ』
『大丈夫か? 無理すんなよ?』
馬車からワッツの声が漏れた。少ししてミクシードが顔を出す。
目を真っ赤に腫らしていて、やつれて憔悴した姿が痛々しい。ふらふらと力無く馬車を降りると、学人の元へやって来た。
「ごめんなさい」
囁くような声量で絞り出されたのは謝罪だった。
「わたし、学人との約束、守れない」
「え?」
「ジータが海に橋を架けたの。氷の橋。だから……わたしも、もう帰れない」
こういった場合、どう反応を見せればいいのだろうか。呆然として膝でも付いて見せればいいのだろうか。このために王国に来たのに、それは無意味だったのだ。学人は言葉を失うしかなかった。
ミクシードのここ数日の様子の裏には、そんな事情があったのだ。
それだけを告げると、ミクシードは馬車の中へと引っ込んで行った。
『じゃあ一旦お別れだ、ガクト』
『うん、色々とありがとう。アシュレーさんたちも元気で』
そう言って学人は右腕を差し出す。
『あ……ごめん、こっちだった』
苦笑いを作って右腕を引っ込める。入れ替わりで出した左手で固い握手を交わすと、アシュレーたちは出発した。
片腕を失った生活は慣れる気がしない。ふとした時に、ついつい右手を出してしまうのだ。
だが不思議とあまり悲観的な気持ちにはならない。むしろ腕の一本で済んだのだから、幸運だったと考えるべきだ。本来なら死んでいて当然だったのだから。
『ガクトほら、行こう?』
『ん、ああ。そうだね』
意識が旅立ちそうになっていたところをヒイロナに引き戻される。
馬車は既に遥か遠くを行っていた。
『ねえ、ヒイロナ』
『無理』
『だよね……』
結局振り出しだ。山脈を越える、何か別の方法を考えなければいけない。
『もう見えませんわ、アシュレー様』
カラカラと車輪の音が響く車内では、ミクシードはもちろん誰も喋ろうとはしなかった。
重い沈黙が支配する狭い空間で、ソラネがアシュレーにそう告げた。
『そうだね……』
『だから、もう――』
ソラネの言葉はそれ以上続かない。
やがて振動と車輪の音に、嗚咽が混じり始めた。
……。
周辺街、南に進むにつれて建物の残骸が目立ってくる。ある境目に到達すると一気に視界が開けた。周辺街は木造の建物が多く、襲い来る水に成す術が無く全て流されてしまった。
木片には決壊した白壁が折り重なる。これでは車両はおろか、人すらも満足に歩けない。
領壁の南側だけが崩壊したのは不幸中の幸いと言えるだろう。水流が一点に集中し、被害を最小限に抑えられた。
住人たちはその時既に街の外へ脱出しており、洪水による死者はゼロに等しい。それだけでも片腕を犠牲にした甲斐があるというものだ。
すっかり見通しの良くなった領門跡を抜ける。現在は通行規制が撤廃されていて、誰でも自由に出入りができるようになっている。
復興の妨げになるというのもあるが、壁が広域に渡って崩壊しているので、制限などかけていられないというのが本音だろう。
人々が忙しく行き交う中で、人だかりのできている場所がある。学人はそちらに足を向けた。
急造で掲示板が建てられ、ここで足を止めているのは身内や友人にメッセージを残したり探したりしている人々だ。誰もが縋るような面持ちでここに集う。
陰鬱な空気が流れているが、時折歓声が起こるだけまだましだ。伝言板から少し距離を置いて、併設されているもう片方は悲惨である。
なにしろこちらは死亡が確認された者の名前が羅列されているからだ。こちらでは泣き声が絶えない。
記される名前は増える一方で、むしろこれからが本番だと言えるだろう。
損傷が激しいがために身元の確認ができない遺体も多く、確認できただけでも運が良かったと割り切るしかない。それができればの話だが。
学人は文字の読み書きができない。いい加減その辺りについても勉強するべきだろう。だが、確認する文字だけは頭に叩き込んでいる。
まず、一つ目を見つけた。
アルテリオス・ジェイポン。
守護の塔で焼死体で発見されたとは聞いていた。こうした形で真実を突き付けられると、やはり来るものがある。
『ハッ! アルテリオスのジジイ、くたばったのか。老い先短いくせに、大方出しゃばり過ぎたんだろ』
背中に心無い言葉を受けた。
本来なら掴みかかる場面だが、学人にはわかっていた。今悪態をついた者は心底から侮辱しているのではない。喧嘩相手が居なくなって、表現しがたい一種の寂しさから来ているものだと。
振り返ると、そこには案の定ザットが立っていた。
『やあ』
『よう、腕はもういいのか?』
『大丈夫って言えるのかはわからないけど、なんとか。そっちも確認?』
『ああ……と言ってもオレは掲示する側だけどな』
ザットが何十人もの名前が書かれた紙を貼り出す。
『領門警備隊。オレの部下どもだ。全員ヴォルタリスの名に恥じない最期だった』
『うん……』
『それにしても……あいつは何者だったんだ?』
“あいつ”とは夜明け前、学人とザットを間一髪の所で救い出した人物の事だ。
学人はあの夜に思いを馳せた。




