120.白亜の城
少し人里離れた山間部にその建物はある。
三メートルほど嵩のある白壁が道に沿って続く。
敷地が広く、周囲は山ばかりなので目立つのだが、人々が関心を寄せる事は無い。門から中を覗いて見ても造林が視界を遮り、蛇行する道が緑の中に消えて行くばかりである。
この造林を抜けると、突如として背の高い建物が空を塞ぐ。真っ白で装飾など一切見当たらず、冷たく無表情な印象を受ける。
外観だけでなく内装も白一色で、内部を知る者は口を揃えてこう呼んでいる。白亜の城と。
ここに住む者、働く者も全員真っ白な衣類を身に纏う。
中は非常に衛生的でチリ一つ落ちていない。磨き上げられた床は天井や壁をも映し出す。清潔感という言葉はこの白亜の城のために存在すると言ってもいいだろう。
夜も更けた頃、女が一人廊下を歩いていた。
足音以外に一切の物音はせず、耳鳴りがこの世に一人取り残されたのではと思わせる。
最低限の明かりを残して、照明は全て落とされている。薄暗くて少し気味が悪いが、床に反射した光が幻想的に浮かんでいた。
数ある一室からかすかな光が漏れているのに気が付き、女は足を止めた。
「まだ起きていらしたんですか」
女が部屋に立ち入ると、背を向けた男が机に向かっていた。
僅かな光源を頼りにペンを走らせている。
「ちゃんと規則正しい生活を心掛けてもらわないと」
「ごめん……もう少しだけ」
男が口にする謝罪には心がこもっていない。
振り向く事もせず、左手だけがただ動いていた。
「本当にあと少しだけですからね」
女もあまり咎めようとはしない。
側に横たわるベッドに腰を下ろすと、付いた手に乾いた感触があった。
びっしりと文字の書かれた紙が無造作に放り出されている。
「読ませていただいても?」
男は応えない。
沈黙を許可と受け取り、女は手に取った紙に目を落とした。
ミミズが這ったような筆跡。まるで暗号でも解読するかのように、女はゆっくりと文字をなぞり始めた。
――灰竜の月一日目。
ヒルデンノースの嵐は結局、多くの犠牲と大きな犠牲を払う結果で終わった。
召喚された海は、人も魔獣も建物も区別無く押し流した。残ったのは城跡と守護の塔、それから貴族たちの館だ。
城には及ばないとはいえ、強固な造りの貴族の館は避難した人々を守り抜いていた。
それでも間に合わなかった一部の領民や、最後まで魔獣を堰き止めていた多くの兵士が犠牲になってしまった。
ザットに抱えられた僕も、洪水を振り切れずに飲まれそうになった。
危うい所を助けられたのは思いもよらない人物だった。彼女との対峙は衝撃的なもので、これは改めて詳しく後述しようと思う。
お前がいなければ全滅していた、とヴォルタリスは感謝の言葉をくれた。でも、そうじゃないんだ。ジェイクにあれだけ大口をたたいておきながら、僕は結局止められなかったんだ。
あの時、僕が物置部屋でノットを殺してさえいれば、結末は大きく変わっていたのだろう。
ジェイクが屋上で刺される事はなかっただろうし、少なくとも彼女が死なずに済んだかもしれない。結果論かもしれないけど、ジータの協力があればもっと大勢を助けられたはずだ。
ジェイクは遅かれ早かれこうなる運命だったと言う。けれど僕にはそうは思えない。
領を挙げての葬儀を、というヴォルタリスの申し出を断って、ジータとカイルの亡骸は人知れず火葬された。
アシュレーが言うにはジータがそれを望まないからだそうだ。
ジータの死に顔が少し微笑んでいるように見えたのは、僕だけだろうか……。
僕たちはこの後、しばらく領都に滞在する事になる。
そのせいでと言うべきか、そのおかげでと言うべきか。もう一悶着あった。
始まりは確かに巻き込まれただけの形だ。それでも終わってみれば、僕はたしかに幸せを感じていた。
これから起こる出来事は、僕の人生においてまさしく――




