119.記憶の残香
目を覚ますとベッドの上だった。
ジータは眠気眼をこすりながら身を起こした。
いつの間に寝てしまったのだろうか……思考がふわふわとしていてすぐには思い出せそうにない。
視線を巡らせる。天井が近く、どうやら自分は高い場所にいるようだ。開かれたままの本が枕元に転がっているのを見て、ようやく最後の記憶が呼び覚まされた。
そうだ。昨日は遅くまで本を読んでいて、どうやらそのまま眠ってしまったらしい。
読んでいた本はどんな内容だったか……それも思い出せない。
『セティ、起きてる?』
ベッドがら身を乗り出して下を覗く。
“蜂蜜の香”の屋敷は広く、ここルーレンシア領でも一、二の大きさを誇る。だがそれでも部屋数が足りないため、基本的に二人で一つの部屋を使っている。
ジータはルームメイトの姿を探した。下段のベッドはもぬけの殻で、一足先に起きてしまっていたようだった。
二段式のベッドからは部屋の様子がよく見渡せる。
机の上には描きかけの魔法陣が無造作に放り出されている。新しい魔法を考えていたものの、途中で飽きてしまって投げ出した物だ。その横に並ぶ机はそれとは対照的で、散らかしっぱなしのジータとは違い几帳面に整頓されている。
それにしても布団がとても気持ちいい。
どんな英雄でも、絶対に勝てない怪物がこの世には存在する。それは天気の良い朝の布団だ。
この魅惑的とも言えるふかふか具合には、どれだけ力を振り絞っても抗えない。
ジータは早々に抵抗を諦め、自ら怪物の胃袋に収まった。
しばらくすると、扉の向こうから荒々しい足音が近付いて来た。
この乱暴さはマコリエッタではない。おしとやかなセティミアでもあるはずがないし、ティファニとも違う。となるとリーザだろうか。
消去法で絞っていくと一人の男に行き着いた。サイレントだ。
ジータが魔力を送ると枕が独りでに浮き上がる。
この至福の時を邪魔する者は万死に値する。もっとも、これはサイレント限定だが。
『起きろ、ジー――うわっ!』
ドアが開いた瞬間、枕は発射された。予想通りサイレントだ。
ジータの手に掛かれば枕ですら凶器と化す。だが向こうも殺気を感じ取っていたのか、盾持参だった。
衝撃で倒れ込んだサイレントが声を張り上げる。
『俺を殺す気かッ!』
『ちっ……』
本当に死ねばよかったのに。
『早く降りて来い。マコちゃんが待ってる』
『んー……マコちゃんが? なんで?』
『俺は置いてけって言ったんだけどな! ジータが来るまで待つって』
『あれ……今日ってどこか行くんだったっけ?』
思い出せない。
「早く支度しろ」と言い残すと、サイレントの気配は遠ざかって行った。
この幸せ空間が名残惜しいが、マコリエッタが待っているのならお別れをしないといけない。
ジータはやっとのことでベッドから這い出ると、手早く身支度を整え始めた。
マコリエッタとのお出かけなら絶対に忘れるはずがないのに……腑に落ちないまま、壁に掛けられたローブを引っ掴んだ。
部屋を出ると、陽の光が優しく屋敷を満たしていた。結晶窓が光を反射させていて、ほのかに樹木が香る。
目を閉じれば新緑に揺れる木漏れ日に抱かれているようで、鳥の囀りすら聞こえてきそうだ。
ジータは胸いっぱいに空気を吸い込むと、扉の並ぶ静かな廊下を歩いた。
『おかしいなぁ……』
大所帯ゆえに、いつもなら朝は慌ただしい。なのにどうだ、今日はしんと静まり返っている。
そんなにも寝坊をしてしまったのだろうか。
不思議に思いながらも、ジータは橋梁に差し掛かった。
この屋敷は少し変わった造りになっている。
四階建てで、上下を繋ぐ階段は一つ。その階段に辿り着くには、必ず橋を渡らなければならない。
一階から屋根までを吹き抜けるエントランスを横切る橋だ。手すりから見下ろすと、ジータの起床を待つマコリエッタの姿があった。
こちらに気付いたマコリエッタが手を振っている。
橋を渡ると水場を横切り、そして階段だ。
顔くらいは洗っておきたいところだが、これ以上待たせてしまうのも悪い。後ろ髪を引かれながらも素通りして一階に急ぐ。
『ごめーん、おまたせー』
言いながらローブを纏う。
(あれ?)
いつも羽織っているローブなのに、なぜかとても久しぶりのような気がする。
マコリエッタに買ってもらった桃色のローブは、ジータ一番のお気に入りだ。外出する時は必ず身に着けている。裏地にもちゃんと名前が刺繍されている。
『ひめー!』
小首をかしげていると、弾んだ声を共に小柄な少女が抱きついてきた。
まだ少しあどけなさの残る半森族の顔には見覚えがある。
『……ヒナ?』
そうだ。彼女の名前はヒナだ。
大切な人の一人なのに、咄嗟に名前が出てこなかった。ここにいるはずがないと思い込んでいたせいだろうか。
そもそも、ヒナがサイレントと一緒にいる事自体が有り得ないはずだった。二人はいつの間に仲良くなったのだろうか。決して埋められない深い溝があったはずなのに……。
『なんだ、まだ寝惚けてるのか? 顔くらい洗って来たっていいんだぞ?』
そう言ったのはティファニだ。
ジータはきょとんとしながらも、抱きついて離さないヒナの頭を撫でる。
『揃ったね、じゃあ行こっか!』
微笑を浮かべるマコリエッタが門口を開く。
逆光になっているのか、日射しが強すぎて外の様子が見えない。
向こう側は、白い光に溢れていて、あれはまるで……。
『待って……』
ジータの唇から弱々しい言葉が漏れた。
『ひめ? どうしたの?』
ヒナが心配そうに見上げている。
その表情は、あの時とそっくりだ。
『ヒナ……どうして、あなたがここにいるの?』
ここには居ていいはずのない人間が居る。
『ほら、行こう?』
マコリエッタの声に我に返ると、いつの間にか一人取り残されていた。
ジータの頬を涙が伝う。
ヒナは死んだ。サイレントに口封じのために殺されたのだ。
マコリエッタも。
ティファニも……。
『だめ……マコちゃん、だめなの。あたし、一緒に行けない』
マコリエッタは一瞬困った表情を作るが、
『そう。じゃあ、もう少し待っててあげるから、行ってらっしゃい』
笑顔でそう言った。
意識が浮上する。
薄い瞼を通して太陽の光を感じる。
体はまるで自分のものではないかのように動かない。
一定のリズムで僅かな鼓動を感じる。
この匂い、気配。間違えるわけがない。
自分は今、ジェイクの胸に抱かれている。
『ジェイクさん……』
アシュレーの声だ。
ジェイクが泥に沈むジータを見つけ出したのは、完全に朝日が差した頃だった。
――彼を見つけたら、その胸に飛び込んじゃおう。それで、泣きじゃくって彼の匂いを堪能するんだ。
そのあとは……泣き疲れて寝たフリをしよう。彼が困った顔をして、でも、ベッドまで運んでくれるんだ。
ここまで来たら、もうこっちのもんだね。
このまま寝たふりをしていれば、きっとジェイクがベッドまで連れて行ってくれる。手順は少し狂ってしまっているが、“にゃんにゃん大作戦”を決行するには絶好のチャンスだ。
でもジェイクも大怪我をしている。さすがに襲うのはまずいかもしれない。
それ以前に、体を動かせる気がしない。
ジェイクが瞳に映り込んだら、初めに言う言葉は決まっている。
――愛してる。




