115.手綱の握り方
目を覚ましたジェイクがまず最初に見たのは、自分に突っ伏する学人だ。
ちょうど傷の上あたりに頭があり、苦しそうに嘔吐いている。最悪の起床だ。どんなに憂鬱な朝だって、この目覚めには足元にも及ばない。
おいおい、と心底ゲンナリする。まさか風穴を吐瀉物で埋める治療法があるだなんて知らなかった。斬新にも程があるだろう。
だが、たしかに嗅いだはずの悪臭はそこに無く、学人からは何も吐き出されていない。
『ジェイク!』
次々に降り注ぐ声を受けて、並ぶ顔をひとつひとつなぞっていく。ありえない顔ぶれに困惑するが、それよりも痛みと怠惰感の方が勝って考えるのを放棄した。
傷口を覆っていた障壁は既に消滅している。
やっとの思いで生成した魔法は障壁を取り除き、出血を少々抑える程度の治癒を施していたが、一度ではそこまでが限界だった。
『ヒイロナ、もう一回だ!』
学人は掴みかかる勢いで続きを要求する。
魔力が流れ込んで暴れている間は想像を絶するくらいの苦痛だ。なのにひとたび生成が終わると、それまでが嘘だったのではと思えるくらいに苦痛はさっと引く。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。諺ではなく文面そのままの意味でぴったりだった。
少し我慢するだけでいい。たったそれだけで魔法が使える。
光明が差し込んで胸を高鳴らせる学人に反して、ヒイロナの平手打ちが飛んだ。
薬の影響で痛みは無いし、ぶたれた頬には熱すらも感じない。細い音だけが学人の耳を通り抜けていった。
喉まで出かかった大喝を堪えて学人を睨みつける。本人にはわかっていないのだ。自分がどのような苦悶の表情をしているかだなんて。
真っ青な顔色で白目をむいていて、見ているだけで恐怖心を抱いてしまう。今も顔中の穴という穴からいろんな汁を垂れ流したままだ。決して無事とは言えない状態だった。
『鏡も持って来てもらえばよかった……!』
ヒイロナは手元にあった布を学人に投げつけた。
学人はそれ以上何も言えなくなってしまう。彼女の態度と、周りの引き攣った顔を見れば怒りの原因などすぐに察しが付く。
『ちょっと、何するつもり?!』
ヒイロナには気を静める暇も与えられない。今度はジェイクが身を起こそうとしていた。
『痴話喧嘩なら後で思う存分やってくれ。まだ終わってないんだろ? なら寝てる場合じゃねえよ』
身勝手な男たちばかりである。
内臓を傷付けていないとはいえ、肋骨が何本か砕かれている。じっとしているだけでも激痛を伴っているはずである。
無理に動けばまた出血するし、ショック死してもなんら不思議はない。
『大人しく寝てなよ』
すぐに割って入ったのは学人だった。
『君が今更何の役に立つって言うんだ。背中から刺されるようなマヌケに足を引っ張られるのは御免だね』
棘立つ物言いに、ジェイクは何か言いたげだったが、
『じゃあ朝飯ができたら起こしてくれ』
そう言って瞑目すると、そのまま気を失ってしまった。
一部始終を見届けたヴォルタリスは思わず感心せずにいられない。どんなに大怪我をしていたとしても、ヴォルタリスの経験上、ジェイクが素直に従うなんてあり得なかったのだ。
アリスティアに対してはその限りではなかったが、同じ釜の飯を食っていた時代には色々と手を焼かされていたものだった。
その時に学人という人物と出会い、手綱を握るコツでも教授してもらえればどれだけ楽だったろうか。
詮無き事を考え、ヴォルタリスは改めて発言する。
『さて、茶番が終わったのならさっさと避難してもらおうか』
恐ろしいのは魔獣の蘇生だ。まだ動く気配はないが、またしばらくすれば暴れ回るのだろう。
いつまでもここでもたもたとしているべきではない。
『触んニャや、ハゲ!』
兵士たちの手を借り順に塔を登って行く中で、ペルーシャは差し伸べられた手を払って噛み付いている。本当に怪我人かと疑ってしまいそうなほどに元気そうだ。
失笑を漏らしつつ、学人は出口に足を向けた。
『ガクト、どこに行くの!』
『聞こえなかったのか? 上に避難しろと言ったんだ』
ヒイロナとヴォルタリス、二人の引き止める声が重なった。
今更召喚を食い止める術など存在しない。領主たるヴォルタリスですら、被害を少しでも抑えるのに奔走するのが精一杯だろう。それは魔法の申し子、ジータであってもきっと変わらない。
死なないために逃げる。これが誰にでも残された、唯一の行動だった。
避難が最優先される中で、それを放棄した学人が咎められるのは当然だ。
『僕は共闘戦線を張っただけで、あなたの軍門に下ったわけじゃない。対等の立場だ。だから、指図されるいわれはない』
毅然とした態度で反発する学人に、ヴォルタリスは前言を撤回する事となる。
学人はジェイクの扱い方を心得ているのではなかった。性格は違えど、性質の根っこの部分で一緒なのだ。
ヴォルタリスにはそんな器がある男には見えない。しかし、ジェイクが全てを委ねるほどに信頼を置いているのは事実である。同気相求むとでも言うのだろうか。
要するに、止めるだけ無駄だ。
ジェイクとヴォルタリスは過去に何度も何度も衝突している。無理強いをすれば無益な衝突を生むかもしれない。
『ヒイロナ……ごめん、行って来る』
学人は少し笑って見せた。
ヒイロナも諦めたらしく、『絶対に帰ってきて』と言い残してジェイクに付き添った。
『あ、じゃあ荷物はわたしが持っててあげるね! 邪魔でしょ? あ、でもこれは持ってってね。はい、行ってらっしゃーい』
笑顔のミクシードがすかさずザックをひったくる。
どちらにしろ誰かに預けて行くつもりだったので構わない。歩きだそうとすると、またヴォルタリスから声が上がった。
『お前は駄目だ、天使族』
止められたのは学人に付いて行こうとしたメルティアーナだった。
不思議そうな顔で返すので、ヴォルタリスは深い溜息を吐く。
『混乱の中をさらに搔き乱すつもりか』
『そんなつもりではない! しかし――』
『敵でないと言うのなら、大人しく従ってもらう』
メルティアーナに拒絶する道は用意されていない。
問答になろうかという寸前、恐れていた事態が発生した。魔獣が息を吹き返したのである。
だが一瞬で高まった緊張はすぐに解けた。また暴れるのかと思いきや、捕脚で床を撫でるだけで、前の俊敏さは見る影もない。もはや魔力が尽きかけているのか、その命は風前の灯火だった。
『なら、せめてあれだけは処分して行かせてもらう』
もう動けないのであれば放っておいてもよい、とヴォルタリスは思ったが、メルティアーナは不貞腐れたように魔獣に近付いて行った。
それを見届けずに学人とヴォルタリスは塔を出る。吹き荒れる風と叩き付ける雹が二人を出迎えた。
『どうする気だ?』
庭園の先、城門から伸びる道では大勢の人間が城外への脱出を開始している。一度は中に避難して来た人々だ。ジータが派手な戦闘を繰り広げているために、避難先である隊舎も危険であると判断し、ヴォルタリスが指示を出していた。
大きく破壊された城を見上げる。堅牢なはずの城は原形を留めていない部分も多い。これが人の仕業であると思うとぞっとする。
その張本人はどこへ行ったのか。魔法の振動は無くなり、まるで人気が感じられなかった。
一通り見回して、学人がヴォルタリスの問いに答える。
『門を開けに行く。あまり意味は無いかもしれないけど、それでも何もしないよりはいいと思う』
『馬鹿が……』
そのくらいであれば兵士を何人か使いに出せば済む話だ。第一、学人が行ったところで門番が言う事を聞くわけがない。
誰も異世界の海が降って来るとは想像もしていないだろう。きっと正体不明の魔獣が湧いて出るとしか認識していない。魔獣の襲撃ならたとえ開いていても閉門される。
そこに謎の男が突然現れても武力で押さえつけられるだけだ。
『いいや、僕が行く。今は猫の手も借りたい状況だろう? 僕がここにいても何の役にも立たない。だから、僕が行く』
何か秘策でもあるのか、それとも無鉄砲なだけか。
『辿り着けなければどうする? 門は開かず、結局は何もできないまま終わってしまう。お前のせいでだ』
街中も魔獣との乱戦が予想される。広さ故に制圧までまだまだかかるだろう。
貧弱な学人がとても無事に門まで行けるとは考え難い。返答次第では塔に叩き返すつもりだった。
『その時は、その前に誰かに託すよ』
やはり無鉄砲なだけだ。一体誰が信じて、バトンを受け取ってくれると言うのか。
『手を出せ』
ヴォルタリスに言われ、学人は不思議に思いながらも左手を差し出す。
人差し指を嚙み切ったヴォルタリスは、その血で手の甲をなぞる。描かれたのは、少しいびつな六芒星だった。
『本来は魔力を込めるのだがな。何かあればそれを見せろ。後は自分で何とかしろ』
何かの暗号なのだろうか。ヴォルタリスは詳しい説明もせずに、学人を置き去りにして行ってしまった。
学人は難民に紛れて城外を目指す。
少しもみくちゃにされながらも、無事に門をくぐる事ができた。
降雹はさらに厳しいものとなり、いよいよタイムリミットが迫っているようだ。
人の波は徐々に枝分かれして行き、どこか目的地があるのだろう。それがどこなのかはわからないが、学人が目指すのは今いる大通りをただ真っ直ぐ、正門だ。
人の流れから一歩でも外れると、その先は兵士と魔獣との大乱闘である。
ふと、暗い路地で動く人影に目が止まった。
怪我をしているのか、建物に手をついてよろよろと奥へ向かっているようだ。
一人で人目の無い場所へ行くのは危険だ。引き止めるにしても時間が惜しい。自分の役割を忘れてはならない。
『どこへ行くんだ!』
数瞬迷って、進路を変えようとした時だった。一人の兵士が人影を追って路地に入って行く。
これなら安心だ。学人は人影の無事を祈りつつ、再び正門に向けて進み出した。
『聞こえていないのか、止まるんだ!』
路地を行った兵士が人影に追い付いたのは、ちょうど角を曲がった所だった。
口調が厳しくなっているが、それは人影を不審に思ったからではなく、単独で物陰に入るのが危険だと判断しているからだ。
すぐに保護して部隊に合流しなければ。歩き方からして大きな怪我をしているに違いない。
声をかけながら肩を掴むと、振り向きざまに刃物がきらめいた。
『ぐえッ!』
『薄汚い手で触るんじゃない……』
喉を掻き切られ、血が勢いよく噴出する。
悲鳴を上げそうになると、すぐさま口を手で塞がれた。指の隙間から大量の血が零れ出る。
『訓練を受けた立派な戦士が、ちょっと致命傷を受けたくらいで情けなく叫ぶんじゃない。他の誰かが気付いてやって来るだろう? このクズが』
ぐったりとした兵士は言葉と共に投げ捨てられた。人影は自分の首を抑えながらゆっくりと歩みを再開する。
『くそ、異人め……思いきり刺しやがって……』
咳き込んだ人影は鮮血を吐き散らせていた。




