110.ミクシード・オー・ランタン
おもむろに右腕を掴まれて、床に叩き付けられた。
麻痺していた痛覚が一気に戻ってくる。
「――ッ!」
足掻く事も、悲鳴すら上げる事ができない。できるのは、ただ苦痛に涙を流すだけである。
骨の軋む音が聞こえた気がした。学人の意識が朦朧とする。次第に抵抗しようとする気力も萎えてしまい、虚脱感に身を落としてしまう。
そこから少しの間の思考は無い。
呆然していると体が軽くなって、ようやく解放された事を学人は理解する。
「はい、もういいよ」
遠く聞こえた声をふやけた頭で何度も反復する。
その言葉の意味をきちんと理解できた時には、腕の痛みは消え去っていた。
見れば曲がっていた腕が真っ直ぐになっていて、表紙の厚い本で挟んで縛られている。
「い……いまのは?」
「ん? “王丸”っていう痛みを遮断する薬ね。貴重な物なんだから感謝してね」
すぐ側にあったミクシードの気配は既に遠く、布を切り裂く音だけが聞こえてくる。
肺いっぱいに息を吸い込んで上半身を起こす。ミクシードはナイフを片手に、カーテンで腕を固定するためのスリングを作っていた。
「はい、これでよし! あ、でも痛くないだけだから無茶はしないでね」
「あ、ありがとう?」
別に襲われたわけではないらしい。吊り下げられた腕を見ながら、かろうじて感謝を述べる。
まったく無茶をする。こんな荒療治で骨折を無事に完治させられるのか不安になる。
探していた人物と二人っきり、周りには誰もいない。状況が状況なだけに、どう会話をしていいか迷っていると、話を切り出したのはミクシードだった。
「山田学人。小鳥ちゃんと淳平から聞いてるわ。山脈を越えたくてわたしを探してたんでしょ?」
「あ……ああ」
事情は知っているらしい。
戸惑う学人に構わずに、ミクシードは話を続ける。
「じゃあ改めまして、わたしがミクシードよ。山脈の向こう側、ディーモスのオウジュから来たの」
「ディーモス?」
「大陸の名前ね。オウジュは都市の名前」
ようやく南の大陸の名が明らかになる。ヒイロナが噂でしかないと前置きしていた、南にも国があるというのは確かなようだ。
なぜ今この話を持ち出したのか。誰がどう見ても悠長にそんな話をしている場合ではないし、好意的というよりも何か別の意図が感じられた。
学人の予感を知ってか知らずか、ミクシードの口からそれが伝えられる。
「わたしに協力してくれたら、学人にディーモスを案内してあげる。どう?」
「協力? 一体何を……」
「簡単よ。本を盗むの手伝って」
悪事を働いているとは微塵も思っていない、とても良い笑顔だった。
学人の回答も待たずに、勝手にザックに本を数冊詰め込んでいく。慌てて抗議をするも、聞く耳を持たない。
「大体どうして本なんか」
思い当たる事と言えば金だ。この世界で本は高価な物のひとつになる。だが、ずっとジータと一緒だった彼女が金に困っているとはあまり考えられない。
聞いている話では、ジータはとても裕福な人物だ。人並み外れた魔力と、そして大陸で知らない者はいないと言われるくらいに有名人で、都市から直々に依頼が舞い込む事が多い。そのために気が付いたらお金が貯まっているそうだ。
アシュレーたちが高級な馬車で旅をしている事が、その事実を裏付けている。
「んー、共犯者になるんだもんね。いいよ、教えてあげる」
隙間の埋まったザックを閉じると、ミクシードは顔を上げた。
「わたしの目的はエルゼリスモアの情報を持って帰る事」
「それってまさか――」
侵略か。そう続けようとする学人の言葉は遮られた。
「竪琴の島って知ってる?」
「竪琴……ああ、昔人魚がいたっていう。その、ディーモスだっけ? そこの街も見えるらしいね」
唐突にその名前が出た。
ブルータスの町でソラネが船の解説と一緒に教えてくれた島だ。人魚の奏でる竪琴が島中に響き渡っていたという伝説が、名前の由来になっている。
「人魚族は伝説なんかじゃない。たしかに存在したのよ」
「していた?」
「彼らは島を棄てて、ディーモスに逃げて来たの。大体七百年くらい前の話よ。あの海の海流は人魚族にとっても危険なものなの。それでも、多くの仲間を失いながら逃げて来た。どうしてだかわかる?」
七百年も前の話、それは十分に伝説と呼べる代物ではないだろうか。アイゼル王国ができるかできないかの頃の話だ。
危険を冒してでも故郷を棄てる。理由なんて限られてくる。王国の歴史を紐解けば、一つに絞られたも同然だった。
「戦争、かな」
「そう。人魚族は戦火に巻き込まれるのを危惧して、苦渋の決断だったらしいわ」
アイゼル王国建国の直前、激化の一途を辿っていた殺し合いは最高潮に達し、それはもう言葉で言い表せないほど悲惨なものだった。
それまで一歩身を引いていた人魚族も、そうではいられなくなってしまったのだろう。
そして彼らによってエルゼリック大陸の様子が伝えられた。
殺し合いを繰り広げるエルゼリック大陸の人間は、いつかディーモス大陸にも攻めて来るのでは、と危険視された。
「質問いいかな。七百年も前の話、どうして実在したと言い切れるんだ? 僕からしてみれば立派な伝説の類だよ」
日本で言えば鎌倉時代。考えれば気の遠くなる歳月である。
情勢が情勢な事もあるが、王国でも建国から数百年の明確な資料はほとんど残されていないと聞く。ディーモス大陸がどうだったのかは知らないが、それでも言い切ってしまうには信憑性が薄い気がしてならない。
「アイゼル王国と違って、わたしたちはずっと記録してる。嘘偽りの無い公式な記録よ。島から見えるのは街じゃない。あれは海を監視するための要塞だよ」
有事の際には防衛をしなければならない。侵攻経路となる可能性が最も高いのは海と絞り、何百年も防衛線を張って警戒をしていた。それが島から見える街の正体だ。
ミクシードはいざという時、物事を少しでも有利に進めるために情報収集をしている。言ってみれば諜報部員の立場である。
もっとも、現在の王国では戦争など鳴りを潜めていて、その必要性があるのかどうかは疑問を持っているようだ。
「それじゃあ君は人魚族に連れられてこの大陸に?」
核心に迫る。しかし、その答えは期待にそぐわないものだった。
「まさか。それだったらもっと昔に他の誰かが来てるわ。人魚族はもういない。ディーモスの環境が適さなかったみたいで、すぐに安住の地を探して広い海に出たそうよ。多分、もう絶滅してる。生存競争に負けて滅んだ人間族みたいにね」
「その根拠は?」
「彼らがいなくなって少ししてから、瀕死の人魚族が流れ着いたのよ。“黒い海が”って言い残して死んだらしいわ」
学人が頭を整理していると、しばらく治まっていた振動が再開した。
これまでよりも大きくなっていて、天井からは砂埃がこぼれ落ちる。
「まずいね、きっとジータが暴れてるんだ。この続きはまた後で。そういうわけだから、荷物よろしくね」
ウインクをしたミクシードは学人にザックを押し付ける。
はっとした学人は部屋を出て行く背中を呼び止めた。
「待って! 協力するなんて一言もっ」
「どうして? 悪くない交換条件だと思うけど……恩を着せられて従うのは嫌でしょ?」
「恩?」
首をかしげる。
「……腕、中継都市」
そう返すミクシードはどこか不機嫌そうだった。
一瞬止まって、ようやく意味を飲み込む。初めからそれを持ち出さなかったのは、彼女なりの敬意の現れだったのかもしれない。
数歩進んで、思い出したようにミクシードが振り返った。
「それから勘違いしないでね。ジータとの友情は本物だから」
そう言ってまくって見せた二の腕には、南瓜のおばけをモチーフにした紋章が刻まれていた。
その上にはもう一つ、ピンク色の花弁の紋章。
ディーモス大陸にも王国と同じような、家族や騎士団という概念が存在するのだろうか。疑問を胸に仕舞い、学人も後に続いた。




