109.吐息
――皆が目の眩む閃光の中で、ジータだけが目で追っていた。魔法が消滅した直後、対象は何事も無かったかのように胸壁を乗り越え、視界から姿を消した。
有り得ない。
シャルーモに放たれた魔法は、補足した者の魔力を補足して発動する。仮にここから一瞬でどこか遠くに逃げたとしても、距離に関係無く蒸発させる。
つまり放たれたが最後、絶対に回避不可能なのだ。
ジータはすぐさま後を追って屋上から身を投げ出した。下は広いテラスになっていて、逃げようとするシャルーモの行く手を阻む。
『とりあえず……“言い訳”を聞いてあげる』
なぜ仲間であるはずのジェイクを襲ったのか、ジータにはそんな理由はどうでもよかった。ただ、大切な人を傷付けた。だから殺す。それだけだ。
過去では激情に囚われてしまい、大切な家族を失う結果を招いてしまった。同じ過ちは繰り返すまいと、ジータはあくまでも無表情を装う。
彼女の力は何だったろうか――うまく思い出す事ができない。それどころかあの顔を見ても一瞬だけ、誰だか思い出せなかった。
さらに魔法に精通したジータでもよくわからない事が多い。
まずこの魔力嵐。ただの嵐ではなく、かなり強力で妙な魔力が吹き荒れている。初めて感じる魔力なのに、以前にも見た事があるはずだ。
勘違いや気のせいではなく、確信に近かった。こんなものを忘れるなんて有り得ない。
積み重なる自分への違和感が混乱を呼び、ジータに一抹の不安を芽生えさせていた。不安、恐怖、そんな感情を抱いた事など、ジェイクと出会ったあの夜以外には一度も無い。
『さすがは魔女ね。それで、言い訳をしたら許してもらえる?』
対するシャルーモは薄笑いを浮かべていた。
闘争心が全く感じられない。
逃げ果せる算段でも立てているのか目が泳いでいるものの、そこに後悔や恐怖の感情は無かった。
『あとでジェイクに謝らないといけないから。お友達を殺しちゃったって』
『それは御免だわ。この中であんな魔法を生成するなんて、つくづく化け物ね』
『……それは自己紹介かしら?』
ジータは嵐の中でも力づくで魔法を生成できる。それに対し、シャルーモは嵐など存在しないかのようにやってのけている。でなければ、助かるはずがない。
ジータからすれば、理解から外れているシャルーモの方がよっぽど化け物だ。
『あなたと争う気は無いわ、ジータ。労力の無駄だもの。わたしに構っている暇があったらジェイクでも診てあげなさいな』
自分の行動は正しいのだろうか。
ヒイロナの再生魔法は優れているが、この嵐では生成できないだろう。それはミクシードも同じで、メルティアーナはよくわからないが、期待はしない方がいい。
つまり、瀕死のジェイクを治療できるのはジータだけという事になる。シャルーモなんて放っておいて、彼の元に駆け付けるべきなのではないだろうか。
少し考えて、たった一つだけの解決策を導き出すと、ジータは口を開いた。
『そうね。じゃあ手早く死んでくれる? あんたは逃がさない』
『嫌よ。まだ死ねないわ』
『――死が二人を別つまでッ!』
詠唱と同時に二人を鎖が繋いだ。“速い”ではなく、元々最初からあったように忽然とその姿を現す。
シャルーモが掴んでみようとするも、霧のように手を素通りしてしまう。
『これは何?』
『安心して、害は無いわ。ただし、この鎖があんたの位置を教えてくれる。本当はジェイクのための魔法なのに……最悪』
シャルーモの表情が強張ったものに一変した。逃げればどこまでも追われ、寝込みをも襲われる事になる。
『踊れ!』
先手必勝と言わんばかりにジータの魔法が続く。
吹き荒れる風が集まって強烈な渦を形成すると、さらに炎をその躰に纏う。一瞬にして火災旋風が巻き起こっていた。
次の魔法を準備しつつ、ジータは注意深く観察をする。きっと彼女には通用しない。
予想は的中し、本来であれば身を引き裂かれた上に消し炭になっているはずのシャルーモは、長い髪を乱しているだけで平然と立ち尽くしている。
……かといって、魔法障壁で守りを固めている様子も無い。
『跪け!』
今度は頭上の空間をシャルーモに叩き落とす。強力な負荷が発生し、背にある聖堂はそれに耐えきれず崩壊を始めた。
ここでシャルーモが動いた。
自分の身に何が起きようとしているのかを察すると、すぐさま魔法の範囲外へと逃れる。
結局、ジータの魔法は聖堂を破壊し、その上にあったゴミを焼却するだけで終わってしまった。
『思い出した……』
だが収穫はあった。
大戦の最終局面で、共に戦っていた時の記憶がようやく鮮明に甦る。
あの時はこういった力を隠していたのか……。いや、振り返ってみれば、単に使う必要が無かっただけだ。しかし最終的には使っていた、誰にも気取られずに。
シャルーモは誰も干渉できないはずの、瘴気の魔力を生成して操作していた。それだけでも信じられないのに、それを破壊だけでなく再生魔法にも使用していたのだ。
瘴気の再生魔法は他の色とは違い、体への負担が全く無かった。シャルーモは引き裂かれ、焼ける体を再生し続けている。他に考えようが無い。
やはり自分の選択は正しい。この女を絶対に逃がしてはいけないと、ジータは再認識をする。
ここで見失えば、今度こそ記憶から完全に抜け落ちてしまう。
…………。
凍える風が闇の中を吹き抜けていく。
学人は一段一段を踏みしめながら階段を降りた。暗く冷たい階段は、まるでこれからの行く末を暗示しているかのようだ。
興奮から冷めてきたせいか、じわじわと痛覚が戻ってきている。右腕の骨折に肩の刺し傷。不幸中の幸いで、傷口が凍って出血は止まっている。しかし、あまりぼやぼやしていると痛みで悶絶してしまいそうだ。
五階の廊下にペルーシャたちの姿は見当たらない。その代わりに魔獣の死骸がいくつか転がっている。新たに出現して、ペルーシャが退治したのだろう。
下階からは僅かに怒声が届く。ただしそれは怒気を孕んだものではなく、もしかすると既に制圧が終わっているのかもしれない。
屋上にはもう誰もいなかった。他に道は無いはずだし、ヒイロナたちはここでペルーシャと合流した事になる。
なら、その後はどこに行ってしまったのだろうか。ヴォルタリスが一緒なのだから、下階へ行く事もできる。
降りるべきか。
可能性としては下に行くのが一番高い。だがもし違っていれば、何も知らない兵士に見つかって面倒が起きてしまう。
学人は領主の間に足を向けた。気になるのは“誰も残っていない”という事だ。誰か一人を伝言役として残していないのはさすがにおかしい。
下に降りるのは、他の可能性を潰してからでも遅くはない。
扉が開け放たれた領主の間では、ゆらゆらと揺れる明かりが中を照らしていた。
誰かいる。
学人は警戒心を強めた。ヒイロナたちにしては様子が変だ。無言で、何か紙をめくる音だけが仕切りに聞こえてくる。
銃を構えつつ扉の陰から中を窺う。
できれば危険な事はしたくないが、安全確保のためには確認が必要だった。光源は部屋の隅にある本棚だ。
丁度逆光になっていて、ここからでは誰だか判別できない。一人の人物が一生懸命に本を物色していた。
まず浮かんだのは火事場泥棒だ。混乱した城は盗賊にとって絶好のチャンスに違いない。これだけ無防備な領主の間などそうそうあるはずがない。
盗賊であれば放っておいても害は無い。
「開いてるよ。遠慮しないで入ってくれば?」
女の声。
学人が静かに踵を返そうとすると、そう呼び止められた。完璧に身を隠しているつもりでもバレていたらしい。
観念して、それでも銃はいつでも撃てるようにして身を晒す。
盗賊の手が止まり、ランタンが学人に向けられた。同時に盗賊の顔も闇から浮かび上がる。
日本語で話しかけられた時点で正体はわかっていた。ただ、ヒイロナたちと別れてコソコソとしている事から、どうしても警戒せずにはいられなかった。
死体から剥ぎ取ったのか、学人が身に纏っているのと同じような、ヒルデンノース軍の外套を羽織っている。
手の動きを注視しつつ、学人は恐る恐る質問を投げかけた。
「こんな所で何をしてる? 他のみんなは?」
銃を握る手に意識がいく。自然に力がこもっていた。
僅かながらの敵意を感じ取ったミクシードは困った表情を見せる。
「何って……ドロボーかな? こういう機会、そうそう無いからさ」
泥棒。
そう聞いて止めさせるべきか判断に迷う。ヴォルタリスとは今や協力関係にあるものの、目の前の行為を咎める義務は無い。そもそもこのままいけば、じきに海水があふれて全てが流されてしまう。喪失という意味ではどっちでもいいのかもしれない。
学人にとっての問題は、目的がわからないところだった。
「別に君に不利益は無いでしょ? それとも、口封じか口止めが必要?」
数冊の本を脇に抱えたまま、ミクシードが歩み寄って来る。それに合わせて学人が後退ると、クスリと笑みを浮かべた。
次の瞬間、学人の視界がぐるりと回る。
「うわッ!」
背中に衝撃を受け、開いた口に何か粒のような物を放り込まれる。驚いて吐き出そうとするも、その前に口を塞がれて飲み込んでしまった。
しまったと思った時には手遅れだった。足を引っ掛けられて、押し倒されていたのだ。
ミクシードは恍惚した笑みで顔を近付けてくる。吐息が耳にかかり、静かに囁かれた。
「すぐ楽にしてあげる……」




