108.学人 vs ノット
袖をまくってみると前腕が大きく腫れ上がり、変な方向に曲がっていた。冷やされ過ぎたせいか、痛いどころか寒ささえ感じない。
変わり果てた自分の右腕に驚きながらも、進む足取りに躊躇は無かった。
風の音も耳に入ってこない。不思議な静寂の中に学人はいた。
『その根性だけは評価してあげるよ、ヤマダガクト』
ノットの声だけを鮮明に拾う。声を受け、学人は立ち止まった。
『“男には、負けるとわかっていても、戦わなくてはならない時がある”。誰が言ったのかな……よく知らないけど、僕らの世界で誰かがそう言ったんだ』
ちらりと周囲を確認する。
ノットのすぐ傍の石床が抉れている。滑らかな球状でどうやら貫通はしていないらしい。さっきの“あれ”は決して幻覚ではなかった事がわかる。
ならば抉った張本人はどこへ消えてしまったのか。理由はどうでもいい、重要なのは、あの少女――ジータが今この場にいるのかいないのか。ただそれだけだ。魔法に巻き込まれさえしなければそれでいい。
安全を確認すると、足に僅かな揺れが伝わった。
地震か……召喚直前なのだから十分に考えられる。学人の時も大きな地震に見舞われた。
だが感覚でわかる。これは城だけが振動している。
『結晶をよこせッ!』
振動にノットが気を取られたその瞬間、咆哮を上げて学人は突進した。
争い事に不慣れな、隙だらけの無様な突進だ。
『お前ごときが触れられると思うか!』
ノットが迎え撃つ。
学人は折れた右腕を喉の高さまで持ち上げる。袖に血が染みたのはそれと同時だった。
突如現れた柄の無い刀身が一本、腕に突き刺さる。
学人の細腕で受け止められるはずがない。だが、それは本人が重々承知の上だ。腕を振るい軌道を逸らせる。刃は腕を軽々と貫通すると、肩甲骨に当たって動きを止めた。
『うおおおおッ!』
学人の勢いは止まらない。串刺しになった刃を向けて渾身の体当たりをぶちかます。
『が……ッ!』
シャーウッドが喉を狙って斬り付けていた事を思い出す。ジェイクもそうする事が多かった。
生物の急所はいくつかあるが、魔法のあるこの世界では喉が一番効果的なのだろう。たとえ致命傷にはならずとも、喉さえ潰してしまえば高度な魔法は使えなくなる。
魔法が使えないとわかっていても、喉を狙って来るのはそうした背景から予測できた。右腕が折れているとなると、間違いなくそちら側から狙ってくる。
『はぁ……はぁ……ジェイクを見ていて、思ったよ。ノット、お前には……もうほとんど力なんて残っていなかった』
迫るジェイクに対して単調な攻撃しか仕掛けていなかった。森で難なく逃げ果せる力量があるにもかかわらずだ。
本来ならもっと方法があったはずである。ましてや本体を曝すなどという事は無かったはずだ。
もっとも、予想が外れていれば死んでいたのは学人の方だ。しかし、あの時闇に紛れていたとはいえ、学人の接近を検知できていなかった事から確信を得ていた。
『あ……あ……』
呻き声をこぼしながら痙攣し、喉に自らの刃を突き立てられたノットから力が失われていく。口から噴き出した血が学人の頬を汚した。
学人は倒れた男を少しの間、じっと見下ろしていた。
とうとう人を殺してしまったというのに何の感慨も無い。けれども、死を目前にして見つめてくるノットから目を逸らしてはいけない気がした。
あっけないものである。名のあるウィザードと言えど、魔力が尽きてしまえば脆弱な人間と同じだ。そして学人の事を侮っていた結果がこれだ。
次第に呼吸が浅くなっていく中で、ノットは口端を吊り上げた。
『……ざ……ろ』
辛うじて何かを言うが当然聞き取れない。まるで満足したかのような笑みを浮かべて、ノットは静かに瞳を閉じた。
最期を見届けた学人は、すぐさま結晶を握る手に視線を移す。
最期の言葉は何だったのだろうか。わずかにしか動かない唇からは何も読み取れなかった。
“さまあみろ”彼は確かにそう言ったのだ。手を見ればすぐに答えに至った。
最後の力を振り絞ったのだろう、結晶は手の中で粉々に砕け散っていた。
「お前ええぇぇぇぇッ!」
ノットの顔面に拳が振り下ろされる。何度も何度も。
既に息絶えているとわかっていても、学人には怒りのやり場が必要だった。
「はぁ、はぁ、くそ……畜生っ!」
ノットの持つ結晶なら魔法を生成できる。それが失われた今、ジェイクを救う手立てが無くなってしまった。
空間の亀裂では、漏れ出す水量が増えて小さな滝を作り始めている。亀裂は徐々に広がっていて、既に城をすっぽりと覆ってしまっていた。もう城内は危険だ。
さらに意識が朦朧とし始めている。これ以上外に出ていてはいよいよ凍死しても不思議ではない。
(戻らないと!)
打ち捨てられたザックに手を伸ばすと、急に追い風が向かい風に変わった。
「なんだ……?」
あまりに不自然な風向きに警戒心が膨れ上がる。
風下――ノットの死体を凝視する。死ぬ間際に何かをしていたのか、ザックを左肩に掛け、そのまま後退る。
「うわ!」
周囲が橙色に染まる。目の前で、胸壁の向こう側では炎の竜巻が踊り狂う。凝視していたノットの体が一瞬で炎に包まれ、軽々と巻き上げられていった。
腰を抜かしていると、今度は熱風が正面から吹き抜ける。息をしているだけでも喉が焼けてしまいそうだ。
異変はこれだけに止まらない。再び振動があったかと思うと、轟音と共にさっきまで立っていた場所が一気に崩落した。
あと少し離れるのが遅ければ、どちらかに巻き込まれて命を落としていただろう。
学人はボロボロの体を引きずって出入り口を目指す。何が起こっているかなんて確かめようとする気にはならない。
『ヒイロナ、どこだ!』
学人の呼びかけに返事は無い。
屋上と城内を繋ぐ小部屋の壁は扉諸共吹き飛んでいて、随分と風通しが良くなっていた。瓦礫を見るに、どうやら内部から破壊されたらしい。
誰の気配も無く、学人の声が虚しく大破した小部屋に響く。
『ヒイロナ! えーと、ミクシード!』
もしやあの二人は敵だった? そんな考えがよぎる。それとも他に敵がいて、強襲されたのだろうか。どちらにしても下の階で待っているはずのペルーシャとヴォルタリスは無事なのだろうか。
そもそもこれだけ派手な破壊があったにもかかわらず、なぜ学人は気付けなかったのか。疑問ばかりが浮かんでくる。
学人はザックの中身をまさぐると、“あれ”が入ったままになっていた事に歓喜の溜息を漏らした。電池式のランタンだ。
経緯は知らないが、きっとヒイロナが国境都市に立ち寄って、中身も確認せずに持ち出したのだろう。
ランタンの他にはジャケットにスラックス、未開封のワイシャツなど、今はどうでもいい物ばかりが入っている。
「なんだこれ」
手探りで確認していると、心当たりの無い手触りがあった。木と金属でできた細い筒状の物だ。
不思議に思いランタンを灯す。出て来たのは拳銃のような小型のマスケットだった。
この大陸に銃は存在しない。首をかしげていると、さらに袋が二つと革のポーチ。袋の片方はずしりとした重量から、おそらく弾丸が入っているのだろう。
「これは淳平が?」
添えられていた紙切れに目を通す。そこには銃の扱い方と淳平の名前が書かれていた。革のポーチを開けるとケースになっており、中には薬包が二十本収められている。すぐに使えるようにと、淳平が計量済みの一回分の火薬を蝋引き紙で包んでおいた物だ。
丸腰で片腕しか使えない現状では頼もしい武器だ。狙いに命中させる自信は無いが、有るのと無いのとでは大きな違いである。
『ペルーシャ、いないのか!』
ポーチとランタンを腰にかけて暗い階段を覗き込む。
闇に吸い込まれていくだけの声に恐怖心が駆り立てられる。が、竦んでいては待っているのは死だ。
唾を飲み込んで階段を降り始めると、数段の所で嫌な物が見えた。凍って崩れてしまっているが、そこに転がっているのは腕だ。持ち主が誰なのかはわからない。しかしやや太く、ごつごつした感じから男のものだろう。
腕を見て固まる学人の胸元で、いきなり電子音が鳴り響く。
アラームか何かをセットしていただろうか、心当たりがない。スマホの画面を見た学人は目を疑う事となる。
――着信中。
電波はもちろん無い。発信相手の名前には会社の上司が表示されている。
誤作動? そう思いつつも応答のアイコンをスワイプする。
「も……もしもし?」
無音。
やはり誤作動だ。そう思った瞬間、確かに聞こえた。バタンとドアを閉める音が。
スマホの電源はそこで落ちてしまった。ずっと切っていたとはいえ、バッテリーの放電が進んでしまっていたらしい。
「一体何が起きてるんだ……」




