106.繰り返す
明日はなんて言って休もうかな。
これは山田学人が以前、毎日考えていた事だ。
九月一日のあの日。喫茶店に腰を落ち着けた時も、まず最初に脳裏に浮かんだのがこれだった。
とは言っても実際に欠勤する事はない。仕事をさぼってゴロゴロする自分を想像して、それで満足する。
満足できたら現実に帰ってまた仕事に励む。
学人はこうやって心の休憩を持つ事で、日々のストレスを緩和させようとしていた。実際に効果があるのかと言われれば疑問ではあるが。
窓から外を眺めると、雲ひとつ無い晴天が目に痛い。
(良い天気だな……こんな日に仕事なんて勿体ない)
残暑の厳しい、絶好調な真夏日である。
(サボって港にでも行ってみようかなぁ)
贅沢を言えばビーチに行ってみたい。だがこの地方のビーチは汚れていて、眺めたところであまり晴れやかな気分にはなれない。なら港だ。潮風に吹かれればさぞかし心地好いだろう。
港は現在地から三十分ほど電車に揺られた場所だ。午後から行くには現実的な距離である。毎月の数字にも余裕があるし、月初めの半日くらいはきっと大丈夫。バレさえしなければ。
そう考えれば、今日に限っては想像で済ませずに、実行に移してみようかとも思う。もっとも、次の瞬間には行くべき港が無くなってしまっていたが。
人と一緒に、町ごと異世界に転移しても何ら疑問を抱く事はなかった。そういうものだと勝手に納得して、微塵も考えた事などなかった。何が転移していて、何が転移していないかだなんて。
前に見た水没した地下鉄の中はどうなっていたのだろうか。汚水に沈んでいなくても、中の様子を調べるような真似はしなかっただろう。自分からわざわざ危険な場所に飛び込んで行く必要はない。
もっと真剣に考えておくべきだった。転移した物と、そうでない物と。
もっとも調べていたところで、これは予測できなかっただろう。
口の中に入り込んできた霰には味があった。強風のせいか香りはしないものの、これは間違いなく亀裂から漏れ出ている。
『ジェイク、まずい!』
『あぁ? わかってるよ、んなこたぁ』
違う。
ジェイクは何もわかっていない。
今まさに召喚されようとしている物は、状況的に見ても最悪の物だ。
『海だ! 海が来るッ!』
塩の味がした。もしこの世界に塩水の雨があると言うのなら、話は別だ。その場合何か痕跡があるだろう。だが都市の周りは緑豊かで、塩害の欠片も見られなかった。
領都を囲む白壁は分厚さこそ無いものの、嵩が異常に高い。ここ屋上以外のどの建物よりも高く、排水ができなければ海水は並々に満たしてしまうだろう。
召喚される水量は一体どのくらいなのだろうか。湖だったなら、琵琶湖でもない限りその量はたかが知れていた。が、海となると全く想像ができない。
『門を……』
開けなければ。
溢れ出る水の勢いにもよるだろうが、街の水道設備だけで排水が間に合うとは到底思えない。
いくら門が大きいからといって、それだけで十分でない事は考えなくてもわかる。それでも開けないよりは幾分マシだろう。
ただ、それには問題があった。道中の事は一旦置いておく事にする。仮に開門できたとしら、周辺街はどうなるのか。目に見えている。木造の建物が多いあの場所は、おそらく跡形も無く流されてしまう。
付近の人々を避難させなければならない。今から開門して、避難させるとなると果たして間に合うだろうか。いきなり現れた男が喚いても、きっと信じる者などいない。
『ふむ、二人はあやつの気を引いておけ』
今まであまり口を開かなかった男が動いた。
『どっちにしろあのボケは殺す。今、ここでだ』
そう返したジェイクが一瞬だけ学人を見る。
「もう文句は言わせねえ」そういった意味を含んだ視線に、学人はただ黙って頷いた。
『何か気付いた事が?』
改めて学人が尋ねた。
『止める手段が無い。これがかなり重要じゃ。ならどうしてあやつは未だにこの場におるのかのう?』
言われてみればその通りだ。完成した時点で身を隠すなり何なりすればいい。それでノットの勝利は確定する。
ノットを見つけた時、彼は明らかにまだ何かをしていた。アルテリオスが何かを見出したのかと、期待を膨らませて耳を傾ける。
『速度じゃ。これだけの規模の、複雑な魔法陣を以ってしないとできん魔法じゃ。いくつもの術式を必要として、手を加え続けなければ発現速度が遅いんじゃろう』
召喚が終わるまでに、あとどのくらいの時間が残されているのだろうか。前代未聞の魔法で、本人以外は魔術研究者でも予測が付かないだろう。
一分、たとえ一秒でも時間が欲しい。
学人は深呼吸をすると、ゆっくりと剣を抜いた。
相手は幻影魔法の使い手。それも実体化する幻を操る。いくらジェイクとはいえ、苦戦を強いられるだろう。アルテリオスが何か活路を見出すと信じて、微力ながらも手を増やす選択をした。
酒場で抜刀して以来、ジェイクからもらった剣を抜くのはこれで二度目だ。
あの時は余裕が無かったせいで気が付かなかったが、刀身が僅かな輝きを放っていて、抜いた瞬間に寒さが和らぐ。
それだけでなく不思議と自信が湧いてきて、精神が研ぎ澄まされる感覚に包まれる。
眼前に剣を構えると、学人はジェイクの隣に並んだ。
対峙したノットは失笑を漏らす。
『なんだ……結局最後は剣なのか』
『何が言いたい?』
こうやって会話をしている間、ノットの手は止まっている。目的としては果たしているので、このまま長話をするのもいいだろう。
どうやって引き延ばすか、そこに重点を置いて返事をする。
『二人の仲を取り持ったのは君なんだろう? すごいね、二人の関係を考えたら、絶対に有り得ない事なんだよ。ますます君に興味が湧いた、だからこそ残念なんだ。それじゃ私たちと何ら変わらない』
『……違う』
『同じさ、逆に何がどう違うのかな?』
『お前とは違うって言ったんだ……ッ!』
聞き捨てならない言葉だった。
意味のわからない理屈で凶刃を振るう。間違っても、学人が今までに出会ってきた人と、ノットは全くの別物だ。
『みんな自分の信じるもの、守るもの、未来のために剣を取る! お前のような狂人と一緒にするんじゃない!』
腹の底から声を張り上げた。それと同時にジェイクが地を蹴った。
ノットがすぐに迎撃体勢に入る。その手にはあの結晶が握られていた。
詠唱をするわけでもなく、沈黙していた結晶が光を宿す。
複雑な魔法を生成する余裕なんてないのだろう。無詠唱の魔法が発動すると、ジェイクと貫かんとする刃が地面から無数に飛び出す。
行く手を阻まれたジェイクはコースを変えて、ノットに向けて大きく迂回を始めた。
右に跳躍したと思えば後ろへ下がる。かと思ったら次の瞬間にはそこにジェイクの姿は無く、いつの間にか前進している。
変幻自在なその軌道にノットの魔法が追い付かない。みるみるうちに距離が詰められていく。
『……ちょこまかとッ!』
いつもの嫌らしい笑みは微塵も無かった。
ジェイクの向かう目標が本物である保証はどこにもない。斬った瞬間、手応えも無く露と消えてしまうかもしれない。
だが、ジェイクにとってそんな事はどうでもよかった。本物に当たるまで斬り伏せていくだけだ。
ついにジェイクの刃がノットに肉迫する。
金属のぶつかり合う音が響き、火花が散った。
すんでの所でジェイクの一撃は止まっていた。ノットの顔に笑みが戻る。
『残念だったね』
喉から刃が飛び出し、受け止めていた。
わざわざ防御をした事で、目の前にいるのが本物であると確信する。
『残念なのはテメーの脳みそだろボケ。そんなに鈍間じゃあねえよ』
その言葉が誰を指すのか、ノットは理解していなかった。再び雷鳴が轟き、連続する刹那の光が舞台の様子を浮き彫りにさせる。
学人が既に間合いに入り込んでいた。
学人の脚力では勿論、この時点で間合いに入るなんて芸当はできない。本人でさえ驚いたほどだ。魔法剣の恩恵か、強風を切り裂いて普段の倍は速く走っていた。
ジェイクとは逆方向から宵闇に紛れて接近していた。
完全に死角のためノットは全く気付いていない。学人の事を侮っていたのもあるだろう。
だが、勝利を目前にしていたのにもかかわらず、学人の眼は別のものを捉えていた。
(アル……テリオス……?)
ジェイクの背後。なぜかアルテリオスがいる。
――違う。
アルテリオスの姿が透けて見える。
その皮の内側にあるのは、鹿のような角を持つ、見た事の無い女の顔だった。
その表情は歓喜に歪んでいて、頭上では禍々しい光を伴う幅広の大剣が浮いている。矛先はジェイクだ。
学人は剣を手放す。危険を知らせている暇なんて無い。
投擲された剣が回転して、女の肩に突き刺さる。女は悲鳴ひとつ上げる事はなかったが、その代わりにジェイクが咳き込む。
水気のある、嫌な咳だ。
時既に遅く、大剣がジェイクの胸を貫いていた。
『テ……メェ……。シャル……』
女の姿を視認したジェイクは何かを言おうとして、吐血して崩れ落ちた。
「そんな……ジェイク!」
『このクソカスがッ!』
今度は衝撃が学人を襲った。女の絶叫に吹き飛ばされたのかと錯覚した。
何度も地面に体を擦り付け、身体中に痛みが走る。立ち上がろうにも痛みで思うように動けない。
思わぬ邪魔が入ったおかげで急所から逸れたのか、女は肩から引き抜いた剣を振り上げている。学人はもはや、無抵抗になったジェイクが止めを刺されるのを見ているしかできなかった。
前もそうだった。偽物のジェイクに殺されかけた。少し前までは警戒していたのに、それを怠ってしまっていた。余裕が無かったから、だなんて言い訳にもならない。
(駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ!)
這いつくばりながら必死に手を伸ばす。届くわけもないのに。
今まで散々助けてもらっておいて、自分は少しも助ける事ができない。
顔を伏せる。
急に手の先が重くなって、もう持ち上げている事すら叶わない。怒りに全身が震える。
しかしこんな状況でも“諦める”という感情は湧き上がらなかった。全てが終わってしまうまでは何があっても諦めない。
「……え? あれ?」
伸ばした手が重い。それもそのはずである。何かが腕を押さえつけていた。
丁度学人の背中くらいの大きさの物体で、しかもそれは見覚えがあった。国境都市で車と共に置き去りにしてきた、マンションの一室から持ち出した登山用のザックだ。
幻覚を見るにしても他に何かあるだろう。
学人がそう自嘲すると、頭上から金切り声が降りかかった。
『ちょっと! 放り出されるなんて聞いてないんだけどっ!』




