105.亀裂
――あの若造は、もしもの時の人質じゃ。
アルテリオスはあえてその単語を口にした。
全ては山田学人の身の安全を確保するためだ。ヴォルタリスもそれがわかっていた。
人質など決して許されない。ジェイクの一件が片付くまでは、一切手出しができなくなってしまった。もし拷問にかけたとすれば、人質として傷付けたのと同義になってしまう。それどころか存在そのものが脅しの手段になってしまう。
ヴォルタリスは仕方なく、尋問もする事なく離れた地下牢に学人を押し込めた。
どうせ何もできはしない。今は居ない者として考え、全てが終わったあとに焼くなり煮るなりすればいい。
そう考えていた。
扉の向こうから姿を見せた時、目を疑った。
ジェイクは想定の範囲内だ。領都での発見報告を聞いて、自分とノットを殺しに来るかもしれないと思っていた。
しかし、学人までもが一緒だとは思いもしていなかった。それどころか、ジェイクを引き連れて戻って来たのだ。
一度は一笑に伏した警告を言いに。
危険を冒してまでわざわざ戻って来た異人に、何のメリットがあるというのだろうか。ヴォルタリスの思い付く範囲では一つも無い。
もう異人の戯言で済ませられる話ではなくなった。必死な姿勢が伝わってくる。きっとそれが真実なのだろう。
頭でそう認めても、心のどこかでは“何かの間違い”である事を願っている。
他に黒幕がいて、お互いに誤解をしているだけなのだ。
『屋上には何が?』
ヴォルタリスに肩を貸す学人が尋ねた。
『先生がいる』
『何のために……?』
『嵐の観測だそうだ』
ジェイクはもはや目を合わそうともしない。ヴォルタリスと行動するのが不本意なのだろう。
部屋を出ると、死体と死骸の中で立ち尽くす部下の姿が目に入る。
後退しながら戦っている時はよくわからなかったが、篝火によって浮かび上がる範囲だけでもかなりの有り様である。
『ディス、これから屋上へ行く。まだ動けそうなら付いて来い』
返事は無い。
『そうか……』
眉根を寄せて唇を噛むものの、ヴォルタリスから追弔の言葉は出なかった。
『外はどうなっている?』
近衛兵が大勢いる城内ですらこんな状態だ。城外だとこれよりもずっと酷い事になるのは想像に難くない。
仮に隊舎にいる兵たちが独断で動いていたとしても、守り切るには領都は広過ぎる。魔法に頼れない以上、自分たちの身を守るだけでも精一杯かもしれない。
『わからない……』
学人はそう答えるしかなかった。ジェイクも何も言わないところを見ると、現状どうなっているのかわからないのだろう。
嵐の間、召喚は無いと踏んでいたのは楽観過ぎた。今更悔やんでもどうしようもない。今できる事を全力でやり遂げるだけだ。
階段まで戻ってくると、先導していたジェイクがそこで足を止めた。
『屋上へ行ってどうする?』
振り返らないままに疑問を投げかける。
『真偽をはっきりさせる。お前たちの言っている事は……多分正しいのだろう。最悪の場合は先生と剣を交える心づもりでいる。だが、それでもだ。両者の言い分が正しいとも限らない』
すれ違いであって欲しい。言葉にはしなかったが、そんな願望が込められていた。
返答に対してジェイクは悪態をつく。どう見ても冷静に物事を見ようとしている風には見えなかった。
『テメーの踏ん切りが付いたらすっこんでろ。邪魔だ』
ジェイクは冷たく言い放つと、さらに続けた。
『その時点で、ノットの始末は俺らに任せてもらう。テメーは委嘱状でも書いてろ』
学人は城に忍び込んだ時、策と呼べるものは持っていなかった。
なんとかして魔法陣を見つけて破壊する。なんとかしてヴォルタリスを説得し、ノットを捕縛する。そんな漠然とした行き当たりばったりなもので、結局のところ、どうしていいかだなんて思い付かなかった。
投獄されている間、アルテリオスから得た情報を加味した上で、考える時間は腐るほどあった。そこで初めて、召喚を止めるだけでは足りない事に気付く。
領都を救えても、日本人の排斥はおそらく止まらない。
ジェイクにその相談をする暇なんて無かった。なのに、
『これでいいんだろ、ガクト』
全てを見透かしていた。
『あ……ああ、僕としてはそれで……』
しどろもどろになりながら頷く。
領主公認で動く以外に方法は無いだろう。それでも、頭の中を覗かれているような気がして、学人は少し寒気を覚えた。
学人は後ろを振り返る。ペルーシャ、アルテリオス。そして気がかりなのは侍女の二人だ。
彼女たちを置いて、屋上に出ても平気なのだろうか。またいつ魔獣が湧いて出るかわからない。それにヴォルタリスも手負いで、退避した際には心細い。
『ペルーシャ、ヴォルタリスさんとメイドさんの護衛をお願いしてもいいかな?』
『はぁ?! ニャんでアタシがそんニャんせなあかんねんッ!』
ペルーシャがあからさまに拒絶する。
戦力を割くのは痛手だが、どうしても必要な役割である。
嵐で魔法が使えないのでアルテリオスを、というわけにはいかなかった。召喚阻止のためにも、彼の知識が必要だったという事もあるが。
『君にしか任せられないんだ。頼む』
頭を下げる学人に、腕組みをして唸る。
『……一個貸しやで』
『ありがとう』
ペルーシャと侍女を残して屋上を目指す。
階段を昇りきると、そこはあまり広くない空間で、灯りなど無く真っ暗である。やけに天井が高く手に持っている火では照らしきれない。
城内とは違い何の装飾も無い殺風景な場所だ。部屋の隅にはスコップやバケツなど、園芸用と思われる道具が無造作に置かれている。
壁を伝って、まだ上へと伸びる小さな階段が目に入るが、それを無視してジェイクが扉に向かう。
『警戒はしておけ』
そう言うと、ゆっくりと押し開けた。
地上でも相当の風だった。遮蔽物が無い分、身体が持って行かれそうになるほどの強風が吹き荒れる。当然寒さも厳しい。防寒具を突き抜けて、芯から凍えてしまいそうだ。あまり長い時間屋上に出ているのは危険だろう。
雷で一瞬だけ視界が明るくなった。
行く手を阻むかのように、何か小屋のような建物が建っている。こちら側には壁が無く、真っ暗で中の様子もわからない。
小屋を回り込んで奥に視線を飛ばす。
暗闇の中を注意深く探さなくても、渦中の人物は一目で見つかった。
魔力でそこだけが光輝いている。強風を物ともせず、寒さなど感じていないかのように、両手を天に掲げるノットの姿があった。
まるで見えない何かをその手で捏ねているかのような、ゆっくりとした仕草をしている。
隠れて様子を窺う気など毛頭無かったのだろう。学人の腕を払い退けてヴォルタリスが声を上げた。
『先生ッ!』
振り向いたノットは意外そうな表情を浮かべるも、すぐに笑顔へと変わった。
『丁度よかった。迎えに行かないとって思ってたところだったんだよ』
『迎えに?』
『ところで……ジェイクと仲直りしたの? 一緒にいるって事は、そっちが正しいと判断したんでしょ? じゃあもう隠す必要も無いよね。どっちにしても、もう隠す必要なんて無いんだけどね』
言い逃れをするでもなく、何も訊かないうちから自分の主張が正しくない事を肯定する。
失望と絶望に沈むヴォルタリスの様子が、後ろ姿からでもよく伝わってくる。
期待通りの反応だったのだろう。ノットは嬉々として続けた。
『領都が崩壊していく様をここで一緒に見ようかなって。ここならどこよりも良く見えるでしょ?』
その煽りに頭に来たのは学人だった。自分を慕っている人間の信頼を踏みにじって、本当に嬉しそうにしている。もし学人がヴォルタリスの立場だったらどうしていただろうか。きっと逆上している。
これはノットとヴォルタリスの問題で、学人が関与する余地は無い。それでも自分の事であるかのように、許せない感情が沸き上がっていた。
『だ――』
学人がノットを遮ろうとすると、ヴォルタリスは視線だけでそれを黙らせた。敵意の無い睨みだが、声を出させない凄みがあった。
『ジェイク、約束通り先生の始末は任せよう』
『あぁ、とっとと帰れ。テメェが死ぬとガクトが困る』
それ以上言葉を交わす事も無く、ヴォルタリスは城内へと引き返して行く。アルテリオスも声をかけずにその背中を見送る。
意外だったのはノットだ。てっきり何かをしてくるのだと構えていたのに、その様子をじっと静観している。
『追わねえのか? テメエの可愛いヴォルタリスが逃げて行くぞ?』
『させてくれるならそうしてたよ、ジェイク』
学人は二人の会話を聞いて、追わなかったのではなく、追えなかったのだと理解する。
その時、顔に冷たい何かが当たった。強風に乗って、いくつも極小の何かが頬に当たり、思わず手で拭う。
(なんだ? 雨?)
チクチクとして液体の感触ではない。だが、触れた指が僅かに濡れている。つまり小さな氷が降っているのだ。
雨はまずい。
そう思って空を仰ぐ。また雷鳴が轟いた。
初めて光の迸る暗雲をまともに見る。ジェイクも少しだけ頭を動かし、それを見た。
光と共に巨大な幾何学模様が浮かび上がる。魔法の知識が全く無い学人でも、今何が起きているのか想像できた。
『それで、どうするのかな? 私を殺してみる? もう私自身でも召喚は止められないよ』
嵐そのものが魔法陣になっていたのだ。アシュレーたちが血眼になって探しても見つかるわけがない。
学人にとって“魔法陣の破壊”というだけでも雲を掴むような話だったのに、文字通り天に手が届かなければ何もできない。
アルテリオスに懇願の目を向ける。しかし無言で首を横に振るだけだった。
止められない。
学人は自分の無力さを改めて突き付けられた。
物置きでノットを殺していれば召喚を阻止できただろうか。いや、牢から出た時点で既に手遅れだっただろう。
ノットの頭上だろうか、距離感がわからない。鳴り続ける雷に照らされて、何もない空中に大きな亀裂が入っているのが見えた。全てが遅過ぎたのだ。
無音で徐々に広がっていく亀裂を、半ば放心状態で見守る。降り注ぐ霰が口の中に入ってくる。
舌で冷たい感触を味わうと止まった思考が動きを再開し、学人はようやく戦慄を覚えた。




