1.九月一日
天と地がひっくり返っていた。
太陽に焼かれたアスファルトがとても熱い。
薄れいく意識の中で見たものは、守り抜けなかった市民や同僚が、得体の知れない生物の餌食になっていくところだ。
ほんの数十分前まで、一体誰がこんな光景を予想できただろうか。
ーー数十分前。勤務を終えた冬元巡査長はスーツに着替え、署を出て帰路に着くところだった。
何気ない日常。それを自分たちが守っているのだと思うと、誇らしく感じた。
他の同僚がどうだかは知らないが、冬元にとってはこの平和こそが、最高の勲章なのだ。
それが今はどうだ。
「一匹そっち抜けたぞ!」
銃声が鳴る。
赤色ではない血液がはねた。
銃撃に倒れたのは緑色の肌で、子供のような小さい体格。しかし腕力は人間を凌駕している。
怒声、奇声、悲鳴が入り乱れる大混乱の中で、誰もが必死だった。
ライオットシールドを構えた警官隊の壁で、駐車場の鉄柵の向こう側はほとんど見えない。状況がよくわからない。自分はただ、運悪く防衛線を越えてきた怪物を、拳銃で仕留めるだけだ。
できるだけ引きつけて、銃口をなるべく下に向けて発砲する。万が一外したり、貫通してしまうと味方に命中してしまう。
冬元はシリンダーから空になった薬莢をこぼした。全弾撃ち尽くした。すぐに再装填する。
今日は許可も何も必要ない。世間体を気にする必要すらない。弾を無駄にできない、という点に目をつぶれば撃ち放題だ。
視線を正面に戻す。
一度防衛線が崩れかけたが、すぐに立て直した。一体いつまで持ち堪えればいいのだろうか? このままでは半日ともたない。
署内では上部の人間が会議を設けているはずだ。何かきっと打開策を出してくれる。
ただ不安なのは、何が起こっているかだなんて、誰もわかっているはずがない。
「な、なんだよあれ!」
警官隊に動揺が走るのが見てとれた。
慌てた様子で二つに割れて、外の様子が露わになる。それを見た怪物たちも同様に二つに割れ、一本の道が出来上がっていた。
冬元が見たのは……宙を滑走する車だった。
次の瞬間、破壊音が響き、砕けたガラスが撒き散らされる。視界から車が消えた。
後方で大きな音と共に、いくつかの悲鳴が消える。
鉄柵に激突した車が大きく跳ね上がり、敷地内に落下して何人かが下敷きになったのだ。
バリケードは破られた。
怪物が中へ殺到して来る。
冬元は顔に衝撃を受け、倒れた。
天と地が逆転している。
起き上がろうにも、体に力がまったく入らない。
署内からは多くの悲鳴が上がった。
だがその声はすぐに遠くなり、やがて自分の呼吸音だけが聞こえるようになった。排水管が詰まったような、自分のものではない音。
視界の縁から黒が侵食していき、冬元の人生は終わりを迎えた。
――九月一日。
この日は学生たちにとって、少し特別な日だ。
夏休みが終わって、皆が久しぶりに顔を合わせる。
そして夏休みはどこに行った、何をしただのと土産話をし合う姿が目に浮かぶ。
中には夏休みの課題の提出に、怯えている子もいることだろう。
しかし、社会人になってしまうとただの平日だ。通勤電車に学生が増えてしまうので、少し嫌だなと感じる。
その程度だ。
通りを歩く制服姿の学生を見て、過ぎ去った自分の学生時代に思いを馳せる。
喫茶店で休憩をとっていたサラリーマンが、小さくため息を吐いた。
あまり楽しい思い出がでてこなかったのだ。友達と呼べる人間がいなかった彼の学生生活は、一般的なものと比べると寂しいものだった。
悔いがあるわけではないが、楽しそうにしている姿を見ると、ちょっと羨ましくも思ってしまう。
ここはオシャンティーなカフェではなく、どこか昭和の雰囲気を感じさせる喫茶店で、煙草も吸う事ができる。
煙草を通して肺一杯に息を吸い込み、風を送り込むかのようにゆっくりと吐き出す。煙を存分に愉しんだら、次は温かい珈琲を口に運ぶ。
仕事の合間の至福のひとときだ。
サボるのは営業の特権だ。今日は天気が良く外は絶好調に真夏日で、仕事なんてやっていられない。このまま港に出て海でも眺めていようか、などと考える。
ズボンのポケットに入っている、彼のスマートフォンが震えた。
取り出して見てみるとLEDが緑に点滅していた。この色はコミュニケーションアプリのメッセージ着信を通知するものだ。
ロックを解除して内容を確認すると、妹からだった。
彼には四つ歳の離れた、仲の良い妹がいる。内容はどうでもいいような他愛のないものだ。
返信をすると会話が続いてしまい、せっかくのこの静かなひとときを邪魔されてしまう。なので、返事はせずにそのままポケットにしまった。
返事は仕事が終わってから、帰りにでもすればいい。
この喫茶店は駅のすぐ横にあるビルの一階にある。
テーブルの横は壁ではなくガラスだ。一面がガラス張りになっていて、外の様子が一目でわかる。
店内から目を向けると、そこには幅のある歩道と屋根の付いたバス停、奥には歩道橋が走る駅のロータリーが広がっていた。
何かを考えるわけでもなく、ただぼんやりと景色を眺める。
彼と同じ営業なのだろうか、ジャケットを抱えたサラリーマン。手押し車を押して歩いている老人。買い物袋を腕に提げた主婦。バス停では大学生とおぼしき若い男女がバスを待っている。
色々な人が道を行き交っている。今日も日本は平和そのものだ。
道行く人々や、喫茶店のウェイトレス、他の客たちはこの時、思いもしていなかった。
この後、自分たちが死ぬなんて事は露ほども思っていなかった。
休憩をとっていた若いサラリーマン、山田学人もそうだ。この後、自分の視界にいる人間が全員死んでしまうなどとは、微塵にも思っていなかった。
誰もが今日も変わらず一日が終わり、そしてまた明日が来るものだと思っていた。
……しかし、その時は唐突に訪れた。
外の景色をぼーっと眺めていた学人の視界が、何の前触れも無く大きく上下にぶれた。
(……目眩?)
そう思った。何の音もしなかったのだ。
しかし、外を歩いていた人たちがバランスを崩して転倒していた。
信号機や駅にあったデジタル時計、太陽で明るい店内を薄く照らしていた照明も、全て消えてしまっている。
何が起こったのかわからず呆けていると、太股にぬるい液体の感触があった。
学人が視線をテーブルに落とすと、置かれていたティーカップが倒れていて、少し冷め始めていた珈琲がこぼれていた。テーブルの端から滴り落ちて学人のズボンを濡らしている。
状況を理解する間も無く、今度は軋みと共に全てが大きく横に揺れ始めた。
地震だ。
揺れを合図に一面に張られた強化ガラスに網目状の亀裂が入り、次の瞬間、硬質な音を立てて粉々に飛散した。
店内には悲鳴と、物の壊れる音が響く。
今までに経験した事の無い大きな揺れで、椅子に座っている事すらできなかった。
通路側に倒れ込んで運良く割れたガラスから逃れた学人は、そのままテーブルの下へ潜り込んだ。
地震が治まったのは、その一瞬後の事だった。
各々のテーブルの下に隠れていた他の客たちが、おずおずと這い出てきて立ち上がる。
悲鳴や軋み、破壊音は止み、店内は水を打ったようにしんと静まり返っている。対照的に外からは怒号や泣き叫ぶ声、クラクションなどが聞こえてきていた。
学人は通路側には出ず、そのままガラスの砕けた窓から歩道に這い出した。
「う……ッ!」
歩道には数人、鋭利なガラスの破片と一緒に血の海に沈んでいた。歩いていた人が、上階の割れたガラスのシャワーを浴びてしまったのだ。
むっとする血の匂いに嗚咽が込み上げてくる。倒れた人たちはピクリとも動く様子がない。
(きゅ……救急車!)
真っ青になった学人が救急車を呼ぼうと、携帯を取り出した。
震える手でロック画面にある緊急通報をタップし、119番をダイヤルする。
しかし、コール音が鳴るどころかアナウンスすら流れない。ツーツーという無機質な音が鳴るだけだった。
大きな揺れだったのだ。救助を求めて通報する人は大勢いるだろう。おそらく回線が混雑しているのだ。
そう思い再びコールしようと、耳から携帯を離して目を落とす。すると、繋がらない原因が他にある事に気が付いた。
圏外だ。
今の地震で基地局が死んでしまったのか、電波が届いていない。
「くそっ!」
通報を諦め、顔を上げる。
学人の目に飛び込んで来たのは、アスファルトが割れてめくれ上がったロータリー。墜ちた歩道橋。そしてその歩道橋に潰された車だった。
辺りを見回すと、倒れた街路樹や事故を起こして停車した車が確認できる。
見える範囲の全ての建物には大きな亀裂が走り、中には完全に倒壊してしまった建物もあった。
どうしていいのかわからず狼狽えていると、バス停の屋根に守られて難を逃れた若い男女が、喫茶店を見たまま言葉を失っている様子が見て取れた。
「ひぐッ!」
喫茶店から上がる妙な悲鳴。続いて湿り気を帯びた、何かを殴打するような音が耳に届いた。
建物が崩れて誰かが下敷きになってしまったのだろうか、とも思ったが音は何度も聞こえてくる。様子がおかしい。
これから目に入るであろう、凄惨な光景を覚悟し、恐る恐る視線を移す。
「な……ッ!」
学人も若い男女と同じく、言葉を失ってしまった。
倒れた人間の頭部を目掛けて、棍棒が何度も何度も振り下ろされていた。
棍棒を振るっている人物の姿は、柱に遮られていてここからは確認する事ができない。
振り上げる、振り下ろす。その動作がひとつ繰り返される度に棍棒の先から血が舞い、頭部はその形を変えていく。
振り下ろされる棍棒が目標を完全に潰し、とうとう床を叩いたところでようやく動きを止めた。
そして、ゆっくりと柱の陰から姿を現した。
わけがわからなかった。それは人間では無かった。
緑の肌で鼻には凹凸が無く、黒目しかない丸いギョロっとした眼。頭部に髪は無く、背丈は一メートル半ほど。
一言で言えば怪物だった。
地震、怪物。混乱が思考を埋め尽くす。
目の前で何が起きているのか理解できない。狐にでもつままれた気分だった。
まるで現実味が無い。
怪物の上げる奇声で我に返った学人は、一点を見つめたまま固まっている男女に声をかけた。
これが夢にせよ現実にせよ、とりあえず逃げるべきだろう。
「そこの人! 逃げましょう!」
学人の叫ぶ声に、男女も弾かれた様に動き出した。足をもつれさせながらも立ち上がり、大学生風の青年が女の手を引く。
怪物がこちらに標的を定め、動き出すと同時に三人も駆け出した。逃げる先に宛てなどないが、じっといてしても殺されるだけだ。
混乱に陥った町を走る。
至る所で人が血を流して倒れている。
悲鳴、怒声、破壊音。町は暴動でも起きたかのような騒がしさだった。
広い車道の交差点に差し掛かった時、花火の様な、普段は聞き慣れない音が耳を突いた。
実際に生で聞いた事は無いが、おそらく銃声だ。
「あれ!」
青年が指をさす。
見ると、警察官がパトカーの陰に隠れる様にしてこちらに背を向け、何かに向けて拳銃を発砲していた。
警察官が一緒なら心強い。駆け寄ろうと方向転換をするが、一歩踏み出して、その足を止めた。
狼の様な獣が警察官に飛び掛かったのだ。
銃声と絶叫が上がる。
「だめだ!」
後退り、再び先程と同じ方向に走り出した。
乱雑に停止した車を避け、パニックになった人並みをかき分けながら車道を走っていると、道の真ん中にあるはずの無いものが目に入った。
木だ。
アスファルトを突き破り、木が生えている。それも一本や二本ではなく、ちょっとした雑木林が元からそこにあったかの様に、道路を塞いでいた。
遠くからも見えてはいたが、公園か何かがあるものだと思っていた。
「なに……これ……」
雑木林を前に、女がうわ言の様に言葉を漏らす。
「意味わかんない。どうなってるのよこれ!」
ふらふらと雑木林に近付きながら、声が甲高い怒鳴り声に変わる。
「あ、明美! だめだ、戻って!」
青年が慌てて引き留めようと手を伸ばすが、その手が彼女に届く事はなかった。
わめく声が突然途切れ、女の頭が割れて弾けた。
何の前触れも無ければ、何かが飛んで来たわけでもなかった。本当に唐突の出来事だった。
「え……え……?」
返り血と脳漿を浴びた青年は目の前の状況についていけず、放心状態で力無く膝をつく。
何が起きたのかわからないが、すぐに離れた方がいい。そう察した学人は放心したまま動かない青年の手を強引に引っ張り、脇の路地に飛び込んだ。
(なんなんだよ! 夢なら早く覚めてくれ!)
九月一日。
この日、突如として世界が一変した。