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大竪穴物語

夜のモンストロ・ビート

作者: 曲瀬 湧泥

降りても降りても底のない、巨大な竪穴。いつ、誰が造ったのかもさだかではない大竪穴には、先住民たる亜人が築き上げた巨大遺跡と、奇怪な魔物たちが今なお潜んでいる。外界からの冒険者たちは、踏破した遺跡に街を造り、古代文明の遺産や財宝を求めて今日も竪穴の深層を目指す――そんな、大竪穴物語の、新しい一コマ。

「……俺は寛容な男だ。だが、それにも限度ってものがある。分かるな、ベニイ? 」

「……はぁ」

 俺は、巨大なテーブルの向こうからこちらを見据えてくる相手の顔を見ないようにしつつ、生返事をした。テーブルの上にはぎっしりと豪勢な料理が並び、ずらりと居並ぶ黒服の男たちが黙々と食事をしている。俺の前にも取り皿が置かれ、パンとスープが用意されているが、食欲はない。胃の中に家が一軒建つくらいのモルタルを詰め込まれたような気分だ。

 そんな俺の横でジニ――ドラマーの娘は、一心不乱に肉のパテをむさぼっている。カギ爪の生えた指と、肘まで羽毛に覆われた腕もあらわだ。ジニは鳥人(バードマン)の混血だが、こっちがハラハラするくらいそのことに頓着しない。ついでに、テーブルマナーにも頓着しない。

「昨晩のショウも、ひどいザマだったそうじゃないか。ええ? 」

 俺の話相手はスープにパンをひたしながら、淡々とした声で話を続けてくる。

「ありゃ、客が悪かった。ビンを投げるにしたって、わざわざシャンパンを選ぶバカもないもんですよ。おまけに飛んだコルクが運悪くガラス製のランプに……」

「ビンを投げられるような演奏をするなと言っているんだ! 俺のクラブで! 」

 弁解する俺の言葉を遮って、雷のような怒声が飛んできた。俺は思わず顔を上げ、相手の顔色をうかがった。

 俺の話相手――というか雇い主、バルナバス・ボルゴは、太った顔に苛立ちをにじませながら、パンを持ったままこちらを睨んでいた。頬のたるんだ悲しげな顔立ちと、重すぎる荷物を背負ったロバのような瞳からは、内に秘めた感情は読み取れない――いつもなら。今は全身から怒りを蒸気のように発散させているといった感じだ。

 ボルゴは組合(フッド)のボスで、繁華街・翡翠通り一帯を仕切っている。組合(フッド)というのは、ヨソで言うギルドのようなもので――もっとありていに言ってしまえば、外の世界で言うマフィアだ。食卓に並ぶ黒服の強面は、みんな組合の手下どもだ。ボスの号令があれば、俺を一瞬で細かく刻んで小麦粉と一緒に練って油で揚げてテーブルに並べちまうような連中だ。

「だいたい、呼び物の『モンストロ』があれでは、客が荒れるのも無理はない。カヴェラ・ジョルトはどうした? また雲隠れか? 」

 ボルゴは鋭い声で問うてくる。俺は必死で弁解した。

「カヴィのやつは、その、ちょいとばかり風邪を引きましてね……いや、今晩のショウには必ず出演させますよ! 約束します」

 ボルゴは胡散臭げに眉をひそめた。俺の背中を冷や汗が伝った。当然、風邪なんて話は真っ赤なウソ。おっしゃる通りの雲隠れだ。それも一昨日から。また、どこかで飲んだくれてやがるのだろう。

「あの『モンストロ』を置くのに、テーブルを一つ片づけさせている。その分の席代だって毎晩となれば無視はできんのだ。スペースばかり取って音すら出せない、では話にならん。どうするつもりだ? 見世物にして、見物料でも取るか? 」

「ハハ、それ、いいかも知れないスね、ハハ、ハハハ」

 俺は引きつった笑みを浮かべて見せるが、ボルゴは乗ってこない。冷たい空気が流れる――何かフォローを入れてくれれば、と思い隣のジニを見ると、向かい側に置かれたヌマエビのシュリンプ・カクテルにフォークを突き立てようと、テーブルの上へ思いっきり体を伸ばしていた。期待するだけムダだった。

「いや、その……万一のことがあったら、俺とジニで、何とか場は持たせますから……」

「場は持たせる、だと? 」

 ボルゴは酷薄な顔で俺を一瞥した後、取り皿に取り分けられたステーキをナイフで指し示した。

「この肉を、カヴェラ・ジョルトに例えるとしよう」

 言いながらボルゴは、俺の方にナイフを突きつけた。

「お前らはこの、ナイフや皿だ。晩餐には食器と料理を用意しなけりゃならない。とは言え、肉は手づかみだって喰えないことはないが、空っぽの食器だけを並べた晩餐なんてのはあり得ない。

 それが、俺の評価だ」

 俺は目を伏せた。そんなことは、言われるまでもなく俺が一番分かっている。才能が違うのだ。多少酒癖が悪くて、その上放浪癖があるからと言って、俺が二流であいつが超一流であるという事実に変わりはない。

「だが……俺だって、出来るなら食器も料理もそろった食卓につくのが一番いい」

 ボルゴは皿の上の肉片をフォークでもてあそびながら、独り言のように言った。

「何だかんだ言って、俺はお前らを買っている。半端なバンドだったら、他のクラブではともかく『火竜(かりゅう)の巣』じゃあ演らせない。俺にとっても大事なクラブだからな、あそこは。

 最後のチャンスをやろう。今晩だ」

 ボルゴはナイフを降ろし、ステーキをゆっくりと切断した。

「今晩のショウは、完璧に仕上げろ。もちろん、カヴェラの小僧も揃えてだ。今日も失敗するようであれば……」

 ボルゴは、皿の上で真っ二つになったステーキ肉を見つめた。俺も、ごくりと唾をのみ込みながら、肉とナイフを交互に見る。

「……消される、とか、ないですよね? ハハ、まさか、そんなフィクションみたいなこと……」

「俺を何だと思ってやがる」

 ボルゴは顔をしかめた。

「人殺しか? 俺は人殺しは嫌いだ。何より、なんの利益も生み出さないのが気に食わん。ただでさえひどいショウで損をさせられたのに、この上どうして貴重な人手をお前らのために割いてやらねばならんのだ? 」

「そうですよねェ! いや、おっしゃる通りで」

 ホッとして愛想笑いを浮かべる俺に、氷点下の眼差しを投げかけてボルゴは続けた。

「ところで……俺は最近、ドラゴンの飼育にも手を出していてな。竜列車を曳く、黒鱗種(こくりんしゅ)のやつを2、3頭買ったところなんだが、どうも餌の食いつきが悪いんだ。残飯でも何でも食う丈夫な種類だと聞いてはいたが、やはり餌の好き嫌いというのはあるようでな……」

「はぁ……」またも話が妙な方向に行きだした。何だ? 一体、何が言いたいんだ、このデブは?

「なあ、竜が好きな餌と言ったら、何だと思う? 」

「そりゃ、まあ、肉じゃないですかね……!? 」

 俺はハッと気づいてボルゴの顔を見た。ボルゴは、何の感情もうかがえない黒い瞳でじっとこちらを見つめている。

「そうだな、肉だろうな。クズ肉でも手に入ったら都合がいいんだが……分かるな? 」

 俺は笑おうとした。が、顔面はセメント漬けにでもされたようだった。胃袋がモルタルで顔面がセメントだ。さぞや雨風に強い建物が出来るだろう。

「……ドラゴンの餌だなんて、そりゃ、あんまりヒドい……ヒドすぎますよ、ボルゴさん」

 俺はやっとそれだけ言った。声が知らず知らずのうちに涙声になっている。

「俺は寛容だ。いや、寛容だった。今までずっと。寛容すぎたと言ってもいいかもしれん。借金を肩代わりして、ステージにも立たせてやった。多すぎるくらいのチャンスをやったのだ。これ以上は待てん」

 ボルゴはぴしゃりと言った。

「仕事の話はこれで終わりだ。これ以外の条件はない……さて、堅い話が終わったところで、引き続き食事を楽しんでくれ。料理はまだまだあるからな」

 ふざけやがって――人をドラゴンに食わせる話をしておいて、今度は人にメシを食えと言う。バカにしてやがる。俺は泣きだしたくなってきた。

「まだ、あるのか!? 」隣のジニが嬉しそうな声を上げた。あのバカ。

「その、それも、まだあるか? それ、うまいな」

 ジニはフォークでパテの皿を指した。ボルゴは――驚いたことに、唇をわずかに曲げ、笑みを作った。

「ああ、まだある。持ってこさせよう」傍らの給仕に指で合図をすると、真顔で俺の方に向き直る。

「いい娘じゃないか。あんまり苦労をさせるんじゃないぞ。ああいう娘に辛い目を見せるのは、俺だって寝覚めが良くない。俺にも同じくらいの娘があるんでな」

 よく言うよ、まったく……俺はヤケクソ気味に、グラスのシャンパンをあおった。ひどく苦かった。



「カヴィはどうした!?

 あの、飲んだくれの、ゴロツキの、青二才の、その……えーと……あのバカは、まだ帰って来てないのか? 」

 真っ昼間の、ガランとした『火竜の巣』のホールで、俺は叫んだ。

「人をののしる言葉のレパートリーが少ないのは、善人の証拠よね。ベニイちゃん」

 空いた椅子に腰かけて、ホステスのリーカが嫣然と笑った。昼間なので髪を上げ、簡素な化粧着姿だ。体のラインが、白い布にくっきりと浮き出している。張りつめた曲線が、布の中に隠された爆発的な質量を予感させる。

「それはいいからさ、リーカ。カヴィは帰って来てないのか? 」

 俺はリーカの肢体を正確に3秒眺めた後、質問した。女性の体を鑑賞するのは連続で3秒まで。ジェントルマンを自任する俺のルールだ。

「芸術家先生? ああ、さっき出てったわよ」

「そうか……あの野郎、一体どこに……って、ええッ!? 」

 俺は椅子に座りかけた腰を浮かせて、リーカの方へ向き直った。

「さっき出てったって、どういう事だ!? あいつ、帰って来てたのかよ? なんで引き留めてくれなかったんだよ! 」

「だって、そんなこと、言ってなかったじゃない」リーカはむっとした顔で、テーブルに肘をついた。その拍子に胸元が圧迫され、絞り出されるような形になる。その地殻変動をきっかり3秒眺めた後、俺は気を取り直してなだめにかかった。

「悪かった、悪かったよ。元々は俺たちの内輪の問題なんだ。で、奴はどこに行くって? 」

「さぁ……何にも言わなかったわよ。ひとっことも。戻ってくるなり、あの大ッきなピアノを見つめて、難しい顔しちゃってさ。話しかけづらいなーって見てたら、そのまま出てっちゃったの」

 リーカの言葉を聞いて、俺は改めて「大ッきなピアノ」――『モンストロ』の異形を見る。

 半月型に並べられた、上中下と三段の鍵盤に、足元には13枚のペダル。演奏者を囲むようにそびえる巨大なボディから、幾本ものパイプが突き立っている。何かを掴もうとする指を思わせるフォルムだ。

 モンストロは、カヴィが自分で設計した、奴しか弾けないバケモノだ。風の魔術を風力源としたパイプオルガンと、ハンマー式のピアノを組み合わせて連動させ、両者の音がひとつの鍵盤で同時に出せるようになっている。微妙な力加減とペダルの操作によって生まれる荘厳な音と自由闊達な旋律は、他の楽器では到底真似できない。

 だが、その素晴らしい道具も、使い手がいないのでは粗大ゴミと一緒だ。ジニが椅子に腰かけて、でたらめに鍵盤を叩いて遊んでいる。が、音は鳴らない。風の魔術を使えるカヴィでなければ、音を鳴らすことさえできないのだ。

 借金までしてこいつを完成させたのが3か月前。『モンストロ』のカヴィを看板に、ドラムのジニとサックスでリーダーのベニイ・ジャーキン――つまり俺――というバンドは、大層評判を呼んで、あちこちのショウにひっぱりだこだった。何もかも、順調に行っていた。それをぶちこわしたのは、カヴィ本人だ。奴は売れてくるに従って酒の量が増え、リハーサルにも出なかったり、出ても酔いつぶれていて練習にならなかったりということが続くようになった。ついには本番まですっぽかすほどになり、挙句の果てに失踪だ。

「くそッ! どいつもこいつも……命が懸かってんだぞ、分かってんのか! 」

 焦りと苛立ちから大声を上げてしまう。リーカが慰めるように言った。

「落ち着きなさいよ。きっと、カヴィちゃんだって今夜は戻ってくるわ。だって、楽器持って行ったんだもの。きっと、外で練習でもしてるのよ」

「ふゥん、楽器をね……楽器!? 」

 俺は飛び上がった。あいつはピアニストだ。外に持っていける楽器なんか、持ってるはずがない。見ると、ジニのドラムセットにも異常はないようだ。とすると――

「あら、あの黒いケース、楽器じゃなかったの? 」

「やっぱりかー――ッ!! 」俺は叫んだ。

「あの野郎、俺のサックスを持ち出しやがった! 」

 冗談じゃない。あれは、俺たちがまだ羽振りの良かった時代に買ったもので、わざわざ魔導合金で作ってもらった逸品だ。魔導具でこそないが、音のブレが少なく、響きもそんじょそこらのモノとは段違いだ。その代わり、かなり大きな出費にはなった。カヴィには宝の持ち腐れだのカネの無駄だのさんざん言われたが、ウデが悪いからこそ道具で補うって部分もあるだろう。

 それを、あいつが持ち出したとなれば、目的は分かりきっている。

「あの野郎、楽器売りとばして呑みに行きやがった……畜生! 」

 俺は怒りに任せてテーブルを叩いた。

「行儀が悪いぞ、ベニイ。叩くのは、ジニの仕事だ」

 ジニがのんきな声でたしなめてくる。命が懸かっているというのに、こいつは本当に……。

「だいたい、ピアニストが楽器を……それも、俺の楽器を持って出てったのに、おかしいと思わなかったのかよ!? 」

 ムダとは知りつつも、ついリーカに恨みごとを言わずにはいられない。リーカは頬を膨らして足を組んだ。

「だから、言われてないんだから、分からないって言ってるでしょ。それにあの子、なんだかとっつきにくいし……口出しして揉め事にでもなったらイヤじゃない」

 俺は苛立ちを抑えつつリーカの脚を3秒眺め、不服そうな顔にいったん視線を戻し、もう一度脚を3秒眺めた。俺のルールに、女性の体を眺める際のインターバルに関する規定はない。ともかく、組んだ脚を鑑賞したおかげで、やや頭が冷えた。

 考えてみれば、これでカヴィの行き先がほぼ確定したわけだ。まず質屋、その次に酒場だ。この界隈で、楽器を欲しがるような道楽者は少ない。俺たちみたいなバンドマンがせいぜいだが、それだって大抵は自分の楽器を持っている。サックスなんか扱ってくれる質屋を探すのにも手間がかかるだろう。まだ、捕まえる時間はある。

「こうしちゃいられねぇ……おいジニ! お前も来い! カヴィを連れ戻すぞ! 」

 俺は、まだ音のしない『モンストロ』をペコペコ叩いているジニに叫んだ。

「そういうわけなんで、ちょいと出かけてくるわ……怒鳴ったりして、済まなかったな。こっちも命がけなんだ。その代わり、今夜のショウはブチかましてやるからさ」

 俺はリーカの顔を覗きこみ、優しい声で言った。リーカは笑顔で答える。

「いいわよ、許したげる。成功を祈ってるわ……でも急がないとダメよ? ショウは今晩なんだから。お客が入ったのにバンドがいませんじゃ、オーナーも怒るわよ」

「分かってるさ、分かりすぎるくらいよーく分かってる。ついさっき、オーナー本人から優しく教えてもらったばかりだ」

 俺はリーカに微笑みを返し、部屋着からこぼれんばかりの胸を未練がましくもう3秒見つめた後、くるりと振り向いて外に出た。ジニがとことこと後に続く。

「呑気してんじゃないぞ、ジニ! これから、命がけの追っかけっこなんだぞ」

「大丈夫だ。結局、今夜のショウをなんとかすれば、何もかも、なんとかなるんだろう? じゃ、大丈夫だ。なんとかなるって」

 ジニは頭の後ろで腕を組み、あっさりと答える。俺はこみ上げる頭痛と戦いながら、白昼の街へと足を踏み出した。



 3軒目で、アタリを引いた。

 かなりツイてる方だ。なるべく小さくて、なりふり構わず何でも引き取りそうな店を狙ったのだが、予想通りだった。洗濯屋の2階に間借りしている小さな質屋のショーウィンドウに、見覚えのある楽器ケースを見つけたのだ。

 質屋のおやじは、年取った矮鬼人(コボルト)だった。なんかの冗談じゃないのかと思うくらいに、業突く張りを絵にかいたようなツラだ。額には小さなツノまで生えている。矮鬼人(コボルト)だから、当たり前だが。

「あァ、そのケースなら、確かにさっき若い男が持ち込んだもんだよ。背が高くて、茶色い髪の男だったかな」

 質屋おやじは俺の質問に、「商売のジャマだ」と言いたげな表情で答えた。

「本当に、今さっきか? 出てってからまだ間がないんだな? 」

「しつこいねェ、本当だよ、兄さん」おやじは面倒くさそうに答える。

「どこの質屋でも引き取ってもらえないんで困ってるとかなんとか、ぶつくさ愚痴を垂れてたからね、よく覚えてるよ。ああいう、酔狂な趣味の品は滅多に買い手がつかないからね」

 余計なお世話だ。渋い顔になる俺に構わず、おやじは話をつづけた。

「それで、わしの所に持ってきたんだが……うちでもまあ、高い値はつけられんと言ったよ。一応魔導合金製らしいから、つぶして材料にするくらいは出来るだろうということで、結局、金属クズの相場で金を貸したけど」

「つぶ……って、ちょっと待て! 」

 俺は慌てて、カウンター越しにおやじに詰め寄った。

「あのサックスを、つぶすだって? まさか、もう……」

「あァ、心配しなさんな。さすがにまだやってないよ。準備もあるしな」

「オイオイ、勘弁してくれよ。寿命が縮むぜ」

 俺はほっと胸を撫でおろした。アレがなかったら、寿命が縮むどころの話じゃない。明日まで生きていられないのだ。

「とにかく、買い戻すんだったらカネを払っとくれよ。ま、あんた方にも事情があるんだろうから、ケースも込みで10万ゾルにまけてやるから」

「10万だァ!? 」

 俺は危うくひっくり返るところだった。10万ゾルと言ったら、新しいサックスが一つ買える額だ。このジジイ、足元を見るにもほどがある。

「こっちゃ今すぐ楽器が必要なんだよ! そんな大金、ポンと出せるわけないだろう! 」

「何だったら、分割払いでもいいよ」おやじは落ち着いたものだ。こういうあざとい取引には慣れているのだろう。

「手付を5千払って、契約書にサインさえくれたら、現物は引き渡してもいい。どうする? 」

 俺は歯ぎしりしながらおやじを睨みつけた。が、ブツが相手に握られている以上どうにも仕方がない。俺は踵を返し、表のショーウィンドウを眺めているジニに歩み寄った。

「おい、カネ持ってるか? 俺の方はどうかき集めても2千くらいしかない」

「持ってるわけ、ないだろ」ジニは「何言ってるんだ」と言わんばかりの表情で、こちらを見つめ返してきた。

「もう、長いことまともに仕事してないからな。すっからかんだ」

「やっぱり、そうだよな……くそッ」俺は絶望にかられて窓の外を見た。太陽苔(たいようごけ)の光は既にピークを過ぎ、刻一刻と弱まってきている。ここ『大竪穴(おおたてあな)』では、、太陽光が差し込まない代わりに、壁面や天井に貼りついた太陽苔の光が街を照らしている。大地から魔力を吸い上げ、光として放出する性質がある植物だ。その発光周期は、外界の太陽の動きと一致している。つまり、見かけどおり、もう時間がないということだ。

 まだ、カヴィの行方も追わなければならないというのに。いっそのこと、サックスの方は諦めて、どこかで中古を都合するか? ……いや、ダメだ。今晩は特別な夜だ。どうしても、使い慣れたあのサックスが要る。ハンパな演奏をしたら命が無いというのに、二束三文のボロサックスなんて使ったら、それこそドラゴンの餌になりにいくようなもんだ。

「なんだ? なにをそんなに、悩んでる? 」

 ジニがしれっと尋ねてきた。こいつは、こいつだけは、本当に!

「分かってるのか、この状況を! カネがなくて、サックスが取り戻せない! サックスがないと、演奏できない! 俺たちみんな、おしまい! わかるか!? 」

 ほとんど怒鳴りつけんばかりに言うと、ジニはうるさそうな顔で額を掻き、大きな黒い瞳で俺の目を見た。

「わかってる。わかってるから、大丈夫だ。ま、見てろ……あ、そのまま、窓際で景色でも眺めてればいいからな」

 ジニはそう言うと、わけが分からずぽかんとしている俺を置いて、すたすたとカウンターへ向かった。質屋のおやじが、いぶかしげに眉を上げる。

「作戦タイムは終わったのかね? ひどくもめてたようだが……結論はどうなった? 」

「それだけどな、おまえ、ウソつきだ」

 ジニは飄々とした顔でとんでもないことを言い出した。おやじの眉が跳ね上がる。

「おいおい、何だいいきなり。わしのどこがウソつきだって? 」

「おまえ、本当はもう、楽器をつぶしちゃってるんじゃないのか? 契約書だけ書かして、渡すのはニセモノって、そういう考えじゃないのか?

 ……って、ベニイが言い出した」

 さりげなく全てを俺のせいにしている。おいおい、一体どうするつもりだ? 俺は明らかに苛立ち始めたおやじと、どこ吹く風といった調子で立っているジニを交互に見守った。

「し、心外だねェ。わしゃこれでも正直者で通ってるんだ。そんな詐欺まがいの商売はせんよ」

「本当かァ? 」ジニはいかにも疑わしげに片目をすがめて見せた。ハラの立つ顔だ。俺でさえ、反射的に殴ってしまいそうだ。

「本当なら、楽器をちゃんと見せろ。口先だけじゃ、信用しないぞ。ベニイは」

 俺を指さしながら、鼻息も荒くジニは言った。売り言葉に買い言葉で、おやじの鼻息も荒くなる。カウンターを小さな拳で叩くと、おやじは椅子から立ち上がった。

「そこまで言うんだったら、見せてやる! 見せてやろうじゃないか! 待ってなさい」

 おやじは小走りに裏へ引っ込むと、しばらくガサゴソやった後、黒い布包みを持って出てきた。

「ほら! 一応デリケートな品だから、保管方法だってちゃんと気を使ってるんだ。見ろ! これでも、わしを詐欺師呼ばわりするか? 」

 おやじはジニの前で、これ見よがしに布包みを解いて見せた。黄金色の、見慣れた肌が姿を現す。間違いなく、俺のサックスだ。涙の出るような安心感と、見えているのに手の届かない絶望を、同時に味わう。

「ふーん……ホンモノに見えるけど……楽器は、見ただけではわからんからな」

 俺の複雑な心理をよそに、ジニは強気の態度を崩さず、カギ爪の生えた両手でヒョイとサックスを取り上げた。と、次の瞬間!

 あまりに多くのことが起こったので、俺は理解が追い付かなかった……我に返った時、俺の体は宙に浮いていた。

「おおおおおおぉぉォー―――――ッ!!?」

 周囲の動きがゆっくりに見えだす。俺は目の前に流れ始めた走馬灯を一旦頭の隅っこに追いやり、何が起きたのかを整理しようとした。

 まず、ジニがサックスを抱えたまま、一目散に駆けだした。俺に向かって、というか、窓に向かってだ。そのままの勢いで窓を蹴破ると、、片腕にサックス、片腕に俺の体を巻き込んだまま、窓枠を蹴って跳んだのだ――2階の窓から!

「……ドロボーじゃねえかぁあああアアアァァー―――ッ!! 」

 俺は悲鳴を上げながら下に落ち、地面に激突――しない。何か、柔らかいものの上に着地した。

「ふぅ。無事か、ベニイ? 」ひと仕事終えた、と言わんばかりの充実した顔で、ジニが言う。無事か、じゃない。殺す気か! 何か説教してやらねば……そう思いかけ、ふと、あたりを見回す。いったい、何の上に降りたんだ? 白くて、ふかふかしたものだが……見ると、俺たちはシーツを満載した荷車の上に落ちたのだった。そう言えば質屋の下は洗濯屋だった。客の洗濯物を回収してきた車なのだろう。運転手はいないが、荷車を曳くオオツチドリはそのままで、俺たちを丸っこい目で見つめている。

 オオツチドリは、その名の通り地面を走る巨大な鳥だ。見上げるほどもある巨体に、丸太のような2本の足と長い首、その先には人の頭くらい平気でねじ切る巨大なクチバシがついている。面と向かって見つめられると、迫力があると言うか、正直かなり恐ろしい。

「こらァーッ! この、泥棒!! 」

 上から怒鳴り声が降ってくる。破れた窓から真っ赤な顔を出し、質屋のおやじが拳を振り上げている。いや、今度ばかりは相手の言う事が100%正しい。

「おっと、いけない。捕まってしまう。捕まったら、演奏ができない」

 ジニはポンと手を打つと、胸を張り、大きく息を吸い込んだ。そして――

「ケケェー――――ッ! 」

 ジニの喉から、素っ頓狂な大声がほとばしった。まさに怪鳥音という声だ。

「ギャアアアァー――――ッ! 」

 オオツチドリは驚き、土を蹴立てながら叫び声を上げた。

「ギャアアアァー――――ッ! 」

 これは俺の声だ。俺も思わず悲鳴を上げてしまった。オオツチドリが、荷車を引いたままとんでもないスピードで暴走を始めたからだ。ジニの叫びが何を意味するものだったのかは知らないが、とにかく怯えているのは確からしい。風が耳元で唸り、街並みがあっという間に後ろへ溶けていく。

「おォーい、済まねえ! カネは後で必ず返す! 『火竜の巣』へ来てくれェ! 」

 聞こえるかどうかは分からないが、質屋の親父へせめてもの気遣いとして、俺は叫んだ。ジニはやれやれといった顔つきで首を振った。

「意外と、律儀だな、ベニイ。借金のひとつやふたつ、もう気にしないかと思ってたぞ」

「お前は、ちったぁ気にしろよ! もっとこう、色々なことを! ムチャクチャやりやがって……考えってものがないのか、お前には! 」

 わめき散らす俺を、ジニはいつになく真剣な顔つきで見返した。

「わかってないのは、ベニイだ。今晩、演奏できない、みんなおしまい。何もかも。だろ?

 なりふりかまってる余裕があるのか? わかってないな? かぁーんがえってものが、がないぞ」

 ジニは俺の口真似でそう言った。俺は口を開きかけ、閉じた。こいつのいう事にも一理ある……あのままだったら、俺は何も出来ないまますごすご帰るしかなかっただろう。当然、サックスも俺の手には戻らなかったはずだ。

 俺のサックス! 質屋のおやじには悪いが、俺は安堵の気持ちでサックスを手に取った。自分の楽器が手元にあるというだけで、こんなにも安心するとは思わなかった。今晩の演奏に間に合う、という安心だけではない。もっと根源的な、バンドマンという生き物としての安心だ。

「そうだな、覚悟を決めなきゃならねえか……あんまり褒められたことじゃねェが、まあ、分かったよ。

 ところで、この車、そろそろ止めた方がいいんじゃないのか? 」

 オオツチドリは相変わらず、クチバシの端から泡を飛ばして走っている。ジニはそちらを見てから、俺の顔を見、肩をすくめて手を広げた。

「……おい、もしかして、止められないのか? 」

「まあ、なんとかなるだろう。跳ぶぞ」

 ジニは俺の腕を引いて無理矢理に立たせた。俺は慌てて腕の下にサックスを抱きかかえる。やっぱり、考えなしはこいつだ。

「せーので行くぞ……せえのぉ! 」

「おい待て! 心の準備が……! 」

 叫ぶ俺に構わず、ジニは荷台を蹴った。俺の手を掴んだまま。引っ張られて体勢を崩しながらも、なんとか体をよじって背中から着地した。堅い地面に背中を打ちつけて、一瞬呼吸が止まる。だが、サックスだけは腕でかばいきった。

「さ、行くぞ。次はカヴィだ」

 ジニは見事に受け身を決めて立ち上がり、何事もなかったかのように服の埃を払っている。俺は痛む体のあちこちを気遣いながら、おっかなびっくり立ち上がった。跳んだり跳ねたりして遊ぶようなトシじゃないというのに、まったく。

「早く、時間がないんだぞ! 」ジニは無慈悲に俺を急かす。だがまあ、正論だ。多少節々が痛んだり、明日か明後日ひどい筋肉痛になったりしたからと言って、ドラゴンの餌になるよりはマシだ。

「カヴィの野郎……見つけたら、引っぱってくる前にまず一発殴ってやるか」

 俺はぶつくさ言いながら、軋む体に鞭打って、再び歩き出した。



 俺たちは、くねくねと折れ曲がる狭い通りをひた走っていた。一杯呑み屋や薄汚い曖昧宿が立ち並ぶ場末の通りだ。すでに陽の光は弱まり、あちこちの店で魔導灯看板に火が灯りはじめている。時間がない。

「どこに向かってる? 心当たりでもあるのか? 」

 ジニが横から聞いてくる。俺は荒い息の下から答えた。

「カンだけどな……奴も、楽器を売り払うくらい追い込まれてるんだ。そういう精神状態のカヴィが行く場所といったら、一つ思い当るフシがある」

 俺は見慣れた通りを抜けて、裏通りのどん詰まり、ひときわ汚らしい呑み屋が並ぶ一角へと辿りついた。ごみごみと並べられた看板の群れに目を走らす。知らなければ見逃してしまうような、古ぼけた、小さな看板が目に入った。『割れ(さかずき)』――俺とカヴィが初めてであった安酒場だった。

 扉を開けながら、俺はまざまざと思い出していた。あの頃、俺は日雇いで楽団に呼ばれて吹くしがないサックス吹きだった。その日も、演奏を終えて一杯やろうとこのドアを開け、飲んだくれていたカヴィと出会ったのだ。カヴィの奴は、外の世界で将来を嘱望された若手ピアニストだったのだが、魔術を取り入れた新しい楽器を作りたいという夢を見て、魔術研究の盛んな大竪穴まで降りてきたのだった。

 だが、現実は厳しい――大した実績もない若造にカネを出すような人間はおらず、酒場のピアノ弾きを務めて日銭を稼ぐ日々に疲れ果て、いつしか安酒場に入り浸るようになった。あの日、カヴィは酔いに任せて初対面の俺にそんなことを滔々と語った。

 なぜその話をまともに聞く気になったのか、自分でもわからない。まして、そんな計画に乗って、カネの工面を手伝うと決めた理由も。俺も、何か転機が欲しかったのかもしれない。その日その日だけを食いつなぐ生活から抜け出す転機が。

 そう、あの日こそが転機だった。今でもはっきり思い出せる。こう、酒場のドアをくぐると、カウンターの隅に、長身を丸めるようにして座っている痩せた男が――

「カヴィ! やっぱりここか! 」

 俺の声を聞いて、カヴィ――カヴェラ・ジョルトは弾かれるように立ち上がった。あの日と同じく、整った顔の中で傷つけられた獣のような目が光っている。暗い酒場の中で、俺は目のくらむような既視感に襲われた。

「お客さん、どうかしました? 」

 酒場の店主が、ビンを片手に怪訝そうな顔をした。カヴィの前には、まだグラスはない。ちょうど注文を聞いたばかりというところのようだ。なんとか間に合ったというところか。

「心配かけやがって……さあ、来い! もうショウまで時間がないんだぞ! 」

 俺が言いながら歩み寄っていくと、カヴィは苦しげな表情でうつむいていた。と、突然その右手が跳ね上がる。

「うおッ!? 」

 俺は慌てて腕を上げ、顔をかばった。カヴィの投げた空のグラスがその腕に当たり、床に落ちて粉々になった。俺の視界が塞がれているうちに、カヴィは椅子から立ち上がって出口へと走った。

「ジニ! 捕まえろ! 」

 ふらつきながら駆けていく背中にジニがタックルをかます。カヴィの胴の辺りを捕らえた。が、引きずられる。何しろ鳥人(バードマン)の血が入っているのだ。小柄で細身だし、軽い。

「待てって、言ってるだろうに! 」

 俺はグラスの弁償代としてカウンターへ適当な紙幣を投げると、カヴィの後を追った。カヴィは必死の足取りでドアをくぐり、よろめきながらなんとか通りへ出た。が、そこまでだった。『割れ杯』の店先で、俺はカヴィに追いつき、ジニの上からタックルをかました。たまらずカヴィは地面に倒れる。

「捕まえたぞ……おい、いい加減にしろよ、カヴィ! なんだって逃げるんだ? 」

「……構うなよ」カヴィは組み敷かれたまま、ぼそりと言った。

「どうせ、もう、演奏は出来ないんだ。サックスも売っちまったし……」

「ところが、ちゃんと取り返してある」

 俺はサックスを見せた。走っても大丈夫なように、上着を使って背中に括り付けてある。

「一発ぶん殴ってやろうと思ってたが、今のタックルで勘弁してやらあ。さ、急ぐぞ! 今夜のショウをしくじったら、俺たちゃドラゴンの餌なんだからな! 」

「結局、そういうことじゃないかよ! 」

 カヴィが突然大声を上げた。目には涙が浮かんでいる。

「あんたも、結局そうだ……借金を返すため、カネのため、売れっ子バンドって評判のため……俺の音なんて、誰も聞いちゃいない。客だってそうだ。音楽を聴きに来るんじゃない。『モンストロ』を……バケモノを見物に来るだけなんだ」

 俺はカヴィの、傷つきやすい子供のような顔を見た。今までの失踪癖や酒びたりの理由が、ようやく分かった。俺はカヴィの胸ぐらをつかみ、引きずり起こした。

「おい、ふざけるなよ! そんなガキみてえな理由で、俺たち全員の将来をブチ壊すつもりか!? 繊細なのも大概にしろ! 」

「いいじゃないか、死ねば! 殺すって脅されて演奏するとか、カネをやるって言われて演奏するとか、そういうの、もう嫌なんだよ! 」

「甘えたこと抜かしてんじゃねえぞ、くそガキが! 」俺は怒りに任せて、カヴィの顔面に拳を叩き込んだ。さっきチャラにした分とは別勘定だ。

「カネがなかったら食ってもいけねえし、お前の『モンストロ』だって造れなかった! そして今、俺たちはカネのために殺されかかってる! お前がどう思おうが、生きるために仕方ねえことってのはあるんだ。それを……」

「どうだっていいんだよ! もう、生きるのも死ぬのも……あんたらがどうなろうと知ったことか! 今の成功だって元はと言えば、俺の演奏が作り上げたものに、あんたが乗っかっただけじゃないか! どうせカネのためだけで、俺の音に向き合おうともしないくせに……」

「どっちもどっちだ、な、カヴィ」

 静かな声で、ジニが口を挟んだ。そのトーンに毒気を抜かれ、思わず俺もカヴィも黙った。わずかに流れた沈黙の中、ジニは昔話でも語るようなのんびりした調子で続けた。

「なあ、カヴィ、考えろ。お前、ベニイの楽器、売っただろ。でもベニイは、あれ、売らなかった。借金があるのに、売ろうって言い出しさえしなかったぞ。あれを……ほら、あれ……」

「『モンストロ』か? 」詰まるジニに、俺は助け舟を出した。

「そう、そう、『モンストロ』。な、わかるか? お前、自分の音を誰も聞かないと思ってるだろう。だけど、だからって他人の音を奪っちゃいけない。自分の音だけじゃ、バンドにならない。それなのに、お前、人の音なんてどうでもいいと思ったな。

 向き合おうともしなかったのは、お前もだ、カヴィ。」

 カヴィは、組み敷かれたまま言い返そうとした。が、黙った。ふてくされた子供のような顔が、消えかけた陽光の下で震えていた。その若さに、今さらながら俺は驚いた。その腕のせいで忘れかけていたが、俺より10は年下なのだ、この天才ピアニストは。

「分かった……バンドを続けるかどうかは、お前の自由に任せる」

 俺の口から、自然に言葉がこぼれ出た。

「だが、ショウにだけは出てもらう。俺たちの命が懸かってるってのもあるし、それに……これが、締めくくりだ。俺がお前の音を聞いてないってんなら、聞かせてみろ。全力でブッ飛ばしてみろよ。それを俺が受け止められなかったら、その時は出て行きゃいい。今のお前と『モンストロ』なら、引き取り手はいくらでも見つかるだろう。そのままどこかに雇ってもらって演奏を続けるなり、足を洗って外界に帰るなりすりゃいいさ。

 だが、今夜だけは……せめて一晩、俺たちにつきあってくれ」

 俺はカヴィに手を差し伸べた。その手を、カヴィは――少しためらった後、掴んだ。俺の手にすがって立ち上がり、カヴィは俺の目を見た。不信と不安がないまぜになった、獣のような瞳。その視線を、俺は真っ向から受け止めた。

「おい、ボケっとしてる場合じゃないぞ」

 ジニが冷静な声で口を挟む。

「もう、太陽苔の光が消えそうだ。時間がないんじゃないのか? 」

「そうだった! 」俺は大声を上げた。ここから走ったとして、大通りにある『火竜の巣』まではだいぶかかる。

「……これ、間に合わねえかもな、そもそも」

「何ぃ!? せっかくいい展開になったとこなのに、今さらそれはねえだろ! 」カヴィが素っ頓狂な声を上げる。

「俺の決意というか、そういうのは、どうしてくれるんだよ! 」

「知るか! とにかく走れ! 」俺は叫び返し、走り出そうとした。その肩を、ジニが押さえる。

「待て、いいものがある」

 そう言ってジニが指さした先には――酒瓶を積んだ荷車と、それを曳くオオツチドリ。

「おい、まさか……」

「他に方法があるか? 」

 ジニはしれっと言う。俺はぐっと言葉に詰まった。そりゃあ、まあ……だけど、質屋の時は緊急避難だった。今やったら言い訳のしようもなく窃盗なわけで、でもよく考えたら盗みはもうやってるんだし……だが……

「時間がない、急げ! 」

 迷っている俺と、何のことやら分からず呆然としているカヴィの腕を取り、ジニは荷車に飛び乗った。俺たちも仕方なく後へ続く。

「さぁ、行くぞ。しっかりつかまってろ」

 ジニは大きく息を吸い込み始めた。俺は慌てて荷台の上に体を伏せる。

「うわァ、待て! カヴィ、耳をふさげ。それからどっかに掴まれ。振り落とされないように」

「おい! 一体何なんだよ。大体そんなの一度に出来るわけ……」

「ケケェー――――ッ! 」

「ギャアアアァー――――ッ! 」

「ギャアアアァー――――ッ! 」

「ギャアアアアアアアァー――――ッ! 」

 ジニ、オオツチドリ、俺、カヴィの順で、叫び声が裏通りにこだました。

 店の中から、驚いて通りに出て来る客たちの間をすり抜け、荷車は風のように疾走した。



「おいジニ、止めろ止めろ! このまま正面から突っ込む気か!? 」

「止まらねえんだよ! 走らすことは出来るけど止められねえんだ、こいつ! 跳び降りるしかねえ! 」

「跳……!? 正気か!? このスピードだぞ! 」

「やるしかねえだろ!! 振り落とされたいのか! 」

「2人とも、落ち着け。なんてことはない。大丈夫だ。なんとかなる」

「お前のその、根拠のない自信は何なんだよ! 畜生……こんなことなら戻ってくるんじゃなかった! 」

「今さら何言ってやがる! いいから跳ぶぞ、1、2の……」

「ちょ、ちょっと待て! 心の準備を……うわああぁぁァ! 」

 地面のザラついた感触と、衝撃が俺を襲う。俺たちは3人そろって、オオツチドリの曳く荷車から、ナイトクラブ『火竜の巣』の前の道路へ飛び降りた。荷台が軽くなったことでオオツチドリが我に返ったのか、荷車はスピードを落として方向転換し、通りの雑踏へと消えていった。道を行き交う夜会服の客たちが、驚いて周りを取り囲む。騒ぎを聞きつけて、中からスーツ姿のバウンサーが出てきた。

「おい、騒がしいぞ! お前ら何者だ? 」

「ショウは! ショウは、まだ始まってないよな? 間に合ったよな!? 」

 いかつい顔で凄んでくるバウンサーに俺は叫び返した。バウンサーは出ばなをくじかれて目をぱちくりさせる。

「ショウ? ああ、まだだが。何でもバンドが現れないとか言って……」

「俺らが、バンドだ! 行くぞ、カヴィ、ジニ! 」

 叫びながらバウンサーを押しのけ、クラブの中へ駆け込む。カヴィもジニに肩を支えられて、ふらつきながら続く。

 客入りは思ったより良かった。ほとんどのテーブルが埋まっている。ここ最近、カヴィの雲隠れのせいでショウは散々だったのに、どうして――きょろきょろと室内を見回した俺は、ほどなくその理由を発見した。最前列のテーブルに座る巨体。『火竜の巣』オーナーにしてマフィアのボス、バルナバス・ボルゴその人だ。

「ボルゴさん! 今晩は、おいでになってたんですか」

「やっと来たか、ベニイ。待ちくたびれたぞ。遅刻気味だが、まあ、間に合ったということにしておこう。カヴェラもいるようだしな」

 ボルゴは、相変わらず悲しげな顔つきでこちらを見つめた。その目は冷たい。俺たちに演奏をさせるのとドラゴンの餌にさせるのとではどっちが得か、本気で計算している顔だ。

「分かっているだろうな? 今日がラストチャンスだ。今日は俺自らここまで来たのだし、俺のツテで客も呼んだ。クラブの評判を取り戻すため、メンツを賭けたんだ。そのショウで、気の抜けた演奏をするようだったら……」

「わかってる。大丈夫だ。なあ、ベニイ、カヴィ? 」

 ジニがカヴィを連れて話に割り込んでくる。カヴィはジニにもたれかかりながら青い顔をしていたが、やおらボルゴのテーブルに近寄ると、その上からビンを掴み上げた。スピリタスだ。俺はぎくりとした。この野郎、この土壇場で……!

 カヴィは俺の目の前でビンの栓を抜き、一気に傾けた――頭の上で。

 中身が音を立てて流れ、茶色い髪が濡れていく。やがてビンが空っぽになると、カヴィは空のビンを静かにテーブルへ戻し、頭を振ってしずくを払い落とすと、俺の顔を見てにやりと笑った。

「これで、呑みおさめだ。もう充分だ。何しろ、浴びるほどに呑んだからな」

「この、ろくでなしめ」

 俺はカヴィの胸板に拳を当て、笑みを返した。

「な、大丈夫だろう? 」

 ジニが笑う。その笑顔を見て、ふと気づいた。ジニがしきりに大丈夫大丈夫言うのを、俺は無責任な楽観主義のせいだと受け止めてきた。だが、こいつはもしかして、本気で「大丈夫」だと確信しているんじゃないのか? 俺たちなら、俺たちの力なら出来ると、それを根拠に確信している。だからこそ、ブレずに突き進んでくることが出来たんじゃないだろうか。俺は――

「おぉい! 『火竜の巣』というのは、ここかね! 」

 俺の物思いを吹き飛ばすように、高級ナイトクラブにそぐわない、品性の欠けたダミ声が響き渡った。見ると、見覚えのある小柄な爺さんが、困惑するボーイを押しのけて入ってくる。その額には小さなツノ――質屋のおやじだ! そう言えば、ここの名前を出したんだった。

「……あっ! 見つけたぞ、この盗人が……」

「ショウ・タイムだ! 」

 おやじの声をかき消すべく、俺は大声を張り上げた。たちまち拍手が上がり、魔導灯が消える。質屋のおやじは、左右を見回してオタオタしているうちに、ボーイによって開いている席へ案内されていった。俺はサックスを持ちなおすと、ステージに向かった。

 俺はステージの中央に立ち、客席を見渡した。前列に、赤いドレスをまとったリーカが見える。ドレスの胸元は楔形に鋭くえぐられており、ほとんどヘソに届きそうだ。リーカにウィンクを投げ、景気づけに胸元を3秒間眺めてから、俺はメンバーの方に振り返った。

 ジニがスティックを握る。カヴィはステージよりも一段下にいる。『モンストロ』は大きすぎ、ステージに乗らないのだ。もう一度だけ、ちらりと客席に目をやる。改めて見直すと、ステージを見上げている客はほとんどいない。みんな、『モンストロ』を見に来たのだ。

 落ち込みかける気分を励まし、気つけに両頬を叩くと、俺は2人に向かって拳を挙げた。スタートの合図だ。

「曲は、何をやる? 」

 ジニがスティックをくるくると手の中で回しながら聞いてくる。俺は答えた。

「『モンストロ・ビート』で行く」

「何だ、それ? 聞いたことないぞ」

 ジニが聞き返す。カヴィも怪訝そうな顔をしている。

「当たり前だ。俺が今考えた。即興演奏で行くってことだ。どうせリハもろくにやってねえんだ。

 ジニ、とりあえずリズムだ。ダラダ、ダラダ、ダラダ、ダラダ、ダン。しばらく続けとけ。そこに、カヴィが乗っかる。出来るよな、カヴィ? 」

 カヴィは仏頂面で、ただ親指を立てた。ジニはやれやれと言った顔で首を振り、スティックを構える。俺は客席に向き直り、ひと声叫んだ。

「モンストロ・ビートォ! 」

 ジニが軽快にリズムを刻み始める。鳥人(バードマン)特有の敏捷な身のこなしを活かした、スピーディなドラムプレイだ。カヴィは『モンストロ』の前に座ったまま、微動だにしなかった。タイミングを測っているようだ。俺は少々不安になってきた。やれるのか、カヴィ?

 やがてカヴィは鍵盤にゆっくりと指を置き、沈めた。弦は鳴らず、パイプオルガンの音だけが優しい和音を室内に響かせる。その音を聞きながら、カヴィは目を閉じた。

 次の瞬間、その目が見開かれたかと思うと、怒涛が『モンストロ』からほとばしり出た。

 俺は慌てて、複雑に展開する旋律の後を追っていった。圧倒的なスピードで叩きつけられていながら、ひとつひとつの音は限りなく細やかで鋭い。それでいて、音全体は驚くほどなめらかかつしなやかに繋がっている。きめ細かくつややかな毛皮をまとった、一匹の獣を思わせる音だ。一方パイプオルガンの奏でる旋律は、音と音が溶け合いながら移り行く神秘的な調べで、激しいピアノの旋律をヴェールのように彩る。

「すごい……すごいぞ」

 客たちの間からざわめきが漏れる。テーブルでグラスにシャンパンを注いでいたギャルソンが、シャンパンのビンを傾けたままこちらを向いて固まっている。シャンパンはグラスから溢れ、テーブルクロスを濡らし、客のドレスにまで滴っている。が、客の方もカヴィの演奏に夢中で、それに気づいていないようだった。

 これだ、これがカヴェラ・ジョルトの演奏なんだ――俺はついていくために必死で指を動かしながら、脳が揺さぶられるような不思議な感動を覚えていた。俺にはどこをどうやっても及ばない境地に、今さっきまで気安く話していた若造がたやすく至ってみせる。敗北感か、羨望か、畏怖か。そのどれだか自分でも分からない気持ちを込めて、俺はカヴィを見る。カヴィはその視線に気づき、ちらりとこちらを見やった。

 不安のこもった目だった。ついてこられるかどうか、心配しているのか?

 ふざけるな。

 俺は肺を潰さんばかりに高音を吹き鳴らした。疾走する美しい獣に、俺の音が弾丸のように追いすがる。汗が目にしみる。だが俺は構わず、マウスピースを吹き壊すつもりでサックスを吹き鳴らし続けた。

 天才ヅラしやがって、この、飲んだくれの、ダメ人間の、寂しがりの……罵倒が音楽に溶けていく。カヴィの音を追い、意識をそれだけに集中していくと、今までのいざこざ、わだかまり、借金のこと、客席で見ているリーカの胸元、そういった余分なものがすべて溶けていく。後には、音楽しかない。ジニがリズムを刻み、カヴィが音を並べ、俺が乗っかって――

 そして俺は、不意に、そこに至った。

 音が音としてではなく、風景として見えるような感覚だった。過去の旋律、今の旋律、未来の旋律が、突如としてひとつの視野の中で溶け合った。もはやカヴィの運指に合わせようと努力する必要はなかった。一見デタラメな速弾きの中に、ひとすじの必然性が見えたからだ。一本の道を、同じ速さで歩いているようなものだ。はぐれようがない。

 俺の指は他人のもののように動いた。強く、弱く、高く、低く。体の中に音楽が沁みわたり、全ての動作をコントロールしているようだった。俺は夢うつつのような状態で、客席に目を向けた。客たちは驚きを通り越し呆然とした顔で、俺たちの音を聞いている。質屋のおやじさえ、ぽかんと口を開けたまま大人しく席に座って演奏を聴いている。そして、ボルゴは――小さな目をさらに小さくし、難しい顔をして聞いていたが、やおら横を向くと、傍に控えていた黒服の男になにやら耳打ちをし始めた。黒服は頷き、立ち上がる。幾人かがその後に続く

 俺は焦った。まさか、何か気に入らないことでもあったのか? 叩き出される? 今? それだけはダメだ。ドラゴンの餌にされてもいい。今、この瞬間だけは――だが黒服たちは、ステージとは逆の方向に歩いて行った。出口へ、そして――ドアを開け放った。

 外の空気が、どっと入ってくる。音が、流れ出す。

 瞬間、俺は巨大な大竪穴を満たす空気を手の中に感じていた。俺たちの音が、竪穴の中へ空気の震えとなって伝わっていく。さながら、グラスに注がれたシャンパンの中で、泡が立ちのぼるように。開け放たれた扉の向こうに、野次馬が集まってきた。誰もが目を丸くし、口を開けて、ステージを見ている。聞いているのだ、俺たちの音を。

 これが、カヴィの見ていた景色なのだ。俺は早鐘のように打つ自分の心音を感じながら、そう思った。俺は初めて、カヴィの音を聞き、その音の世界を見ている。これが奴のメッセージだったのだ。これほどのものを作り上げながら、そこに踏み込んでくる者はない――カヴィの孤独を、俺は今やっと理解した。

「ベニイ! 」

 カヴィの声がした。下を見ると、カヴィが一本指を立て、口の端を吊り上げて笑っている。俺は震えた。ソロの合図だ。この俺に、ソロをやれというのだ。今、ここで。

 心臓はドラムパートを追い越すほどに激しく打ち、肺からは血の香りがこみ上げて来る。肋骨は軋んで折れそうだ。だが俺は――俺は、最後のひと息を吸い込むと、マウスピースに全てを注ぎ込んだ。

 ひとつづきの音が、クラブの中を、いや、空間すべてを満たした。俺の音だ。俺の頭蓋骨が、全身が、俺の音で震える。俺は体を二つに折って、音を撃ち放ちつづけた。カヴィのピアノが背中を押す。ジニのドラムは道筋だ。すべてがひとつであり、それでいて、俺は俺としてここにある。

 音楽は魔法だ――誰かがそう言っていた。ウソッパチだ。こんなことの出来る魔法が、こんな風景を見せてくれる魔法が、一体どこにあるというんだ。ザマぁ見やがれ、クソッタレめ。俺は思い、吹き鳴らした。永遠にだって吹き続けていられそうだった。

 だが、夢には終わりが来る。息が尽き、俺は最後の音符を吐き出して、膝を突いた。ドラムもピアノも止まる。静寂が戻った。音楽は消えた。静けさが一瞬あり、そして――

 割れんばかりの歓声と、拍手の嵐が吹き荒れた。

 俺はかすむ目で客席を見た。スタンディングオベーションだ。誰も彼も、夢中で手を叩いている。隅っこの席で、質屋のおやじが涙を流している。ボルゴまでが、顔を真っ赤に上気させて手を打ちならしていた。リーカの姿も見える。腕の動きと共に胸が揺れ、際どいドレスの切れ目がなおさら際どくなっていく。その姿を、俺は特別に5秒見つめた。今日は無礼講だ。

「メチャクチャやりやがったな、おい」

 見ると、いつの間にか舞台に上がってきたカヴィが、笑顔でこちらに拳を突き出していた。

「……そりゃ、お前だろ」

 俺も笑いながらしわがれた声で答え、拳を突き返し、打ち合わせた。

「ありがとうな、お前が、連れていってくれたんだ。あの世界に……」

「俺だって、あんたに引っぱられたさ。そう、無理矢理引っぱってこられたんだ。音楽でも、物理的にも、な」

 カヴィは感慨深げに笑った。と、打ち合わされた拳の上に、もう一つ、小さな拳が乗った。

「……そう、お前にもだ、ジニ」

 カヴィの言葉に、ジニはにっかりと歯を見せて笑った。

 鳴りやまぬ拍手の中、俺たちはもう一度、3つの拳を打ち合わせた。強く、強く。

※本作は「大竪穴物語」の一作です。世界観を共有する同シリーズ連載小説「冷血探偵」(http://ncode.syosetu.com/n9254co/)は、現在日刊連載中です。

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[良い点] 独特の世界感があって良かったです! 私もこちらでお話を書かせて頂いていますが、なかなか独自の世界観を演出出来なくて苦労しています… これからも執筆活動をぜひ頑張ってください!
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