約束
十之月半ば、グレイス伯爵は飛び地の領土であるライジカーサから西の本領へと帰っていった。
西方には王家直轄領が多く、アイネ王女の領地も在る。ライジカーサ孤児院から出奔した子供の行方を、父も独自に探ってくれることになった。
何せ、隣の地で捕らえた人攫い一味が、かの地で大した取り調べもしない間に、全員死んでしまったのだ。
五人纏めて放り込んでいた牢が俄かに騒がしくなり、牢番が駆けつけた時には、変わり果てた囚人の姿と激しい乱闘の跡だけがあったという。
ささいな諍いか責任のなすり合いの結果だろう、というのが現地の役人の見解だ。だが、そう見せかけた口封じの線が濃厚だと伯爵達は感じている。
故に、ライジカーサ領主の伯爵令嬢は、下書きしていた王女への便りを変更無しで清書した。
父と従者、便りの配達人を領地の口門まで見送り、トワは箱馬車に揺られて田舎の町を邸宅へと戻る。
同乗していたレクスが、途中で、買い物をしたいと言い出した。珍しいなと思いつつトワは諒承し、手綱を握っている執事に停車を告げる。
淑やかに馬車を降りた幼馴染みは、窓から見ていたら、広場に並ぶ屋台の一つに向かった。
食べ物を扱っているらしきその店で何か買い、厚手の筒衣の裾を片手で品良く持ち上げ、軽やかな足取りで戻ってくる。闇避けであれほど完璧に女装している少年が、かつて居ただろうか。トワは居ないと思っている。
お待たせしました、と向かいの席へ乗り込んだレクスは、揃えた膝に湯気のくゆる葉包みを乗せる。微かな酒精混じりの、美味しそうな匂いが鼻先をよぎった。
馬車が走り出す。何を買ったの、とトワが尋ねる前に、レクスが包みを向けてきた。
「遅れてしまったけど、どうぞ。本当は、これをお祝いに贈るつもりだったんですよ」
「え――ありがと」
小首を傾げながらトワは受け取る。お祝いと言えば、ほんの七日前の誕生日のことだろう。
当夜にレクスから貰った匂い袋を、トワはとても気に入っている。それ以上の品が、屋台でたった今、ひょいと買った代物なのか。
開けていいの、と訊けば、うん、と笑むので、トワはほかほかする大きな蒸し葉の包みを開いた。
生成り色の饅頭が、二つ。
トワは表情を決めかねながらも、向かいを見た。美少女にしか見えない少年が、にっこりと口角を上げる。
饅頭に視線を戻す。
蒸かしたてだと湯気と香で伝えてくる饅頭には、大きく茶色の焼き印が真ん中に捺してあった。
【永久】
「レク……ありがたいのだけど、これは何」
「祝祭に合わせて、ライジカーサ名物として商品化されたんです。当日に買ってあげたかったのだけど、手持ちが馬車代に消えてしまったものだから」
「う、それは、仕方ないことだったし……それよりこれ、饅頭よね……? この、これに書いてある真名は……」
一応確かめてみると、レクスはきょとんとした顔になって明言した。
「〝トワ〟です。その真名、新領主の名前と同じ響きだと言い出した役場の人が居まして。縁起のいい言葉だし、いけるんじゃないかって。長寿に効くとか、成人まで無事に育つよう子供に食べさせようとか、祝祭の日もかなり売れたようですよ。大成功ですね」
〝色と香の町〟はよく解らないまま却下され、〝饅頭の町〟へと向かっているのはどういうわけか。
「わたし、そんな話、聞いてないんだけど」
「私がトワへお祝いに贈りたいなと漏らしたら、みんなが内緒にしてくれました」
叫びたいのをトワは呑み込んだ。
みんな、乙女心が解ってない!
誕生日当日に意中の相手から自分の名前入り饅頭を贈られていたら、絶対に忘れられず、喜んでいいのか非常に微妙な記憶として刻み込まれるところだった。危なかった。
今こうして貰っても恋が冷める気配は無いので、当日贈られても構わなかったかもしれないけれど。
トワの内心も知らず、何処となく得意げにレクスが語る。
「味は煮込み肉野菜なんですけど、せめて外の食感を焼きファトに似せられないか、業者と試行錯誤したんですよ」
昼近くで小腹も空いていたし、はしたないとモユに叱られる前に食べてしまうことにした。一つ手に取り、トワは向かいを見る。
「レクも食べる?」
嬉しそうに頬を緩めるので、トワは手渡す。
からからと小気味いい音と軽い震動を伝えて走る馬車の中で、二人は饅頭を味わった。
生地のふわふわした口触りは予想以上に焼きファトを思い出させる。うん、とトワが頷けば、ん、とレクスも目を細める。具はタレを絡めてしっかり味付けされた刻み野菜と挽き肉で、旨味の融和した汁が舌から喉へ溶け入った。庶民の食べ物だのに違和感の欠片も無く、あっと言う間に食べ終えてしまう。
手巾で口元を拭いてから、試食したのより美味しかったです、とレクスが満足げに言った。名称はともかく、味にはトワも文句が無かった。御馳走様と告げる。
まぁ、トワの名を冠した物、忌避するどころか随分と関わってくれたようなので喜んでおこうと思う。
「レクのお誕生日にも何か贈らせてよね。欲しい物があったら、それを贈りたいんだけど」
トワがそう言ったら、レクスの淡い空色の瞳が煌めいた気がした。何か、良からぬことに喜々とした感じで。
九年近い付き合いから察したトワは、釘を刺しておく。
「欲しい物って言っても、成人のお祝いなんだから、流行りの筒衣とかお化粧品なんてもってのほかよ」
幼馴染みが軽く肩をすくめ、してやったりの気分でトワは澄まし顔を作った。
屋敷に帰り着くなり、精霊が半透明の姿を見せた。
〈代わりが来たようじゃ〉
そう、とレクスが短く応じる横で、トワは思い出す。そういえばこの精霊は、もうすぐ大気に還ると言っていた。
これまで見かけたレクスの守護精霊は年配の姿ばかりだったから、同い年くらいを象っていた今回の風には知らず親近感が湧いていた。
宙に浮く貴族令嬢風情の精霊を見上げ、ちょっといい? とトワが言うと、彼女は主を一瞥してから、まぁ良かろ、とついて来てくれた。
人けの無い客間の辺りまで廊下を進んで、トワは綺麗な精霊を振り仰いだ。物問いたげに見下ろしてくる銀の双眸に笑む。
「お礼を言っておきたかったのよ。貴女、居なくなってしまうんでしょう」
〈わたくしは大気に戻るだけ。居なくなるわけではない〉
「でも、もうこうして話せないんでしょ」
〈それはそうじゃな〉
何処となく可笑しそうに応じ、少女の姿をした風は虚空で足先を組む。〈感傷かえ?〉
揶揄の響きにトワはムッとしたけれど、そうよ、と正直に告げた。
「わたし、〝ありがとう〟と〝ごめんなさい〟は、言える時に言っておくことにしたの」
笑みで細められた銀色の目を見ながら、トワは自分にも確かめるように言った。「言えずに後悔することになるのは嫌だから」
柔らかな風に髪を撫でられ、トワは心からの言葉を紡いだ。
「レクを守ってくれて、本当にありがとう」
ぷっと噴き出したような風が額に当たった。何、と額を押さえるトワに、精霊独特の微震する声が誇らしげに降ってきた。
〈告げてしまえば終わりと思うな。真ありがたいと思ったなら、そなたが生かされる限り、世に感謝し続けるがいい。わたくしもこれまでの同朋も、この世界の一部に過ぎぬ〉
それもそうかと、トワはこくりと頷いた。
「この先、忘れてそうだと思ったら、向かい風ビシビシ吹きつけてきて」
〈葉っぱでも叩きつけてくれよう〉
「……今の洒落?」
言うやいなや、つむじ風が巻き起こり、トワは髪をぐちゃぐちゃにされた。