便り
広くはないライジカーサ地区だが、孤児院の不可思議な件ばかりに構ってもいられない。
公共事業への出資、収穫量調査、収穫祭の認可、染色工房の着工といった案件が、伯爵邸に次々と舞い込む。
トワは公用語で堅苦しく記された文書を必死に理解し、時には〝領主補佐〟の先生や執事に質問の末、署名をこなす。
日々は流れゆき、季節は移り変わり、グレイス伯爵令嬢が成人を迎える日が近づいてきた。
「お父様ったら、供を一人しか連れずに馬で向かってるみたい」
九之月の末、西の伯爵本領から届いた便りを読み終え、トワは呆れを含んで告げた。
長椅子の反対端に座るレクスが、ふわりと長い筒衣の裾から覗く足先を組んで、可愛らしく小首を傾げる。
「馬車でなく?」
「そう、騎乗で。その方が早く着けるからって」
「お元気そうで何よりですね」
楽しげに笑う幼馴染みを横目に、トワは高価な皮紙の便りを畳み直す。
まったくもって、元気な独り身だからできることだろう。
母はトワを産んだひと月後に、体調が回復しないまま亡くなっている。以降、戦中戦後の慌ただしさを理由に、父は後妻を迎えていない。結構、縁談は来ているようなのだけれど。
便りに綴られていたのは、トワには伯父に当たる公爵に、いい術者を紹介してもらった事。その人に守護精霊を精製してもらった事。従者も腕の立つ者を選んだから、道中の心配はしなくていい事。
【宴前に着いてしまいそうだったら、その辺で野宿もいいかもなと話しています。】
文末に至っては、そんな呑気なモノだった。
因みにレクスが生まれたのは、一年の余り日。五日間の最初の日。
今年は、前日に祝うかもしれない。その年に十五歳となった貴族が集う、披露目の宴が大晦日にあるから。
気懸かりなのは、レクスの家族。祝いの日が一日ずれようがどうしようが、トワの父のように駆けつけてくれるか怪しい。
例年どおり、伯爵家の面々が遠くの家族の分も込めて祝う可能性が高かった。
領主の成人ということで、十之月八日には、ライジカーサの町でも広場で祝い酒が振る舞われる事になっていた。
他領からも数種の酒が運び込まれ、情報を聞きつけた旅芸人や露店商も集まりだす。
警備隊を臨時増員したという事後報告の文面に目を通し、何だか派手なことになってしまっているなと、トワは息をつく。
けれども、これを機に人や金や物が動き、加えて王国の片隅に美しい町があると宣伝になれば儲けものだ。
誕生日まで後三日という夕暮れ、一通りの執務を済ませたトワが廊下に出ると、メイが種火を手に主要な場所へ灯りを移していた。それが本日最後の仕事だろう。
トワが笑んでメイが頭を下げる間に、二人の後方では、一緒に部屋を出たレクスとヌーノが寸劇を始めていた。
「先生、廊下で踊りの練習は如何なものかと思います」
「今やらずして、いつやると!? 成人の宴まで三ヵ月を切っていますよ、もう三ヵ月無い――踊らなければっ」
「でも先生、宴で踊るのは求婚の舞ではないと思います」
「これこそがっ――これこそが成人たる証――大人の第一歩の舞ですともっ」
背後で床を踏むぎごちない足音に加え、るらら、るららー、と伴奏を口ずさむのまで聞こえ、先生の尊厳を守る為、トワはメイを促してその場を離れることにした。
二階から一階へと階段を降りながら、普段どおりの口調で、メイがのんびりと言った。
「先生は、いつも面白い方ですねぇ」
あの狂態をそう表現できるということは、まだなんとか脈が残っているのだろうか。
うん、まぁ……とトワは返事を濁すにとどめる。
踊り場まで降りた時、そうそう、とメイは足を止めた。
「今朝、出がけにポタから便りを預かりまして」
夏におやつを贈った後、孤児院から二十通の便りが届いた。仕方なく書いたのが丸判りの物から、美味しかった――嬉しかった、と率直な感想を綴った物まで様々。
そして今でもたまに、メイに便りを託す子が居る。
直接渡すというのがバトラとモユは気に入らないようで、最初、何の気なしに受け取ったトワも拙いような気はしてきていた。一応、トワは領主なので。
ささいな訴えかけ、あどけない夢、憧れだとしても、他の人々は色々と手順を踏まねば領主に届けられない。子供だから、たまたま使用人に繋がりがあるから、と済ませていいのか迷う。
すぐに手を差し出せずにいたら、折り畳まれた紙葉に書かれた宛名をメイが読み上げた。
「えぇと、今回はですねぇ〝伯爵家で働いてるお姉ちゃん達へ〟なので、レクシア様宛てでもあるみたいです」
レクシアというのは、レクスがメイに、周りにはそう名乗っています、と冗談混じりに自己紹介した時の名だ。
「あ――じゃあ、後でレクにも読んでもらうわ」
はい、とニコニコして、メイは二、三枚あるらしい紙葉の便りを手渡してくれた。
〝使用人〟宛てなのだから、執事による検閲の必要なんて無いだろう。
夕食後、軽い気持ちで、トワは便りを開く。
【お姉ちゃんたちも、えらばれた人ですか?
えらばれたすてきな子だから、ハクシャク家からお便りがきたの?
わたし、王女様からえらばれたの。でも、ほかの子はだめ。えらぶ気がないから、ほかの子はかわいそうだから、だれにも言わないでとかいてある。わたしにだけのお便りなんだって。
あさってまでに決めないと。これをのがしたら王女様の所へは一生いけないのだそうです。お姉ちゃんたちも、ハクシャク家から同じようなお便りきた?
やっぱりいくべきなのかな。でもどうせなら、みんなで、ハクシャクレイジョウさんのところへいきたいなと思ったりもするの。】
令嬢に宛てた物とは違う砕けた文面が、変に現実味を帯びていた。
たちまち嫌な動悸に襲われたトワに、近くに居たレクスがすぐ気づいた。何かの絵巻物を見ていた筈だのに。
「トワ――顔が変だけど」
「――もっと別な言い方は無いの」
眉と口を更に歪め、トワは紙葉をレクスに突き出す。「これ、ポタから貰ったの」
「あぁ、孤児院で飲み物を持ってきてくれた……」
レクスは葉の色が濃い面に書かれた宛名を見てから、裏返して文章に目を走らせる。
ややしてから、そういう事だったのか、と低めの呟きが漏れた。固唾を呑んで注目していたトワは、身を乗り出す。
「これ――一体、何。アイネ殿下の侍女にでも引き抜いてるの?」
解っていながら、トワは訊いてしまう。
レクスも解っているだろうが、几帳面に答えてくる。
「王族の侍女を務められるのは、余程の推薦状を持つ教育済みの召使か、トワのような貴族令嬢です」
「じゃ、これ――」
「急いで先生とバトラに相談しないと」
怖い程に真っ直ぐ、空色の瞳がトワを映した。「ライジカーサを奴隷の産地とするわけにはいかない」
翌午後、執務室で、トワは苛立ちを隠せずにいた。
「向こうが自分から手を引くのを、ただ待つしかないと言うの?」
苦い顔つきのバトラとヌーノが、黙然と顎を引く。
とにかくポタを思いとどまらせようと、今朝、トワとレクスは使用人の扮装で孤児院に出向いた。
そうして、こんな雇われ方をする使用人は聞いたことが無いと少女に説明し、良かったら王女からの便りを見せてほしいと頼んだ。
ポタは、怯えた顔つきで首を振った。
『他の子にばれたら、他の子が可哀相だから、読んだらすぐ細かく千切って捨てるようにって、書いてあったの……』
少女の手元に残っていたのは、乗合馬車がライジカーサを発つ時刻が書かれた、小さい紙葉だけだった。
「この件にアイネ殿下御本人が関わっているのか、こちらの得ている情報だけでは判りません。ライジカーサ孤児院の子と最近お会いになったか、それとなく、伺うくらいしか」
ヌーノがしかめっ面で言い、トワは眉根を寄せた。
「実質、野放しじゃないの。誰が主犯かなんて、この際どうでもいい。面倒だからアイネ殿下が犯人でいいわよ」
不敬極まりない発言に、窓がしっかり閉まっているか、バトラが泡を食って目を投げる。トワは横目で執事をねめつけ、続けた。「殿下が今後も余所で同じような事をするか、し続けるかの方が問題に思えるわ。ここで片を付けてしまった方がいいんじゃないの?」
レクスが小さく息をつく。
「どうやって」
「ポタの代わりにわたしが――」
「駄目です」
胸を張って言いかけたトワの台詞は、男性三人に声を揃えて遮られた。
「ちょっと、なによ! まだ全部言ってないっ」
バトラが頭を抱えるようにして言った。
「全て聞かずとも解りますとも。子供を連れに現れる者は、恐らくまともな輩ではありません。わたし共が、お嬢様をみすみす送り出せるとお思いですか」
ヌーノが小刻みに頷く。
「馬車に乗るよう指定された日、お誕生日ですよ。伯爵のお出迎えもあるし、町への挨拶も予定されてるじゃあないですか」
「ま、間に合うように戻るわよ」
ぼそぼそとトワが言い返すと、レクスが天井を仰いだ。
「そもそも、トワの身長じゃ十一歳の女の子のふりは無理です」
かちんと来て、トワは立ち上がった。
「ゆるゆるの包衣か筒衣でも着て膝を曲げて歩いてやるわよっ。何でもかんでも駄目駄目って、わたしだってたまには誰かの役に立ちたいのよっ」
「では、トワはこの屋敷でじっとしていてください。それが一番、周りの役に立つ」
澄まし顔で幼馴染みに言い放たれ、トワはしばし口を開閉させた後、どすんと椅子に戻った。
「レクの身長だって無理なんだから」
「私は闇避けの女装はするけど、闇雲に女の子のふりをするつもりはないですね」
しれっと応じたレクスに、ノリノリで化粧してるくせに、と言いたいのを我慢する。代わりにトワは、頬を膨らませた。
取り敢えずアイネ王女には、孤児院への親切にライジカーサ領主として感謝する旨を書き送ることとなった。王女自身が関与しているか定かでないから、探りと牽制を含んだ便りだ。
ちょうど来るのだし、父にも事の次第を話してから清書するつもりだ。
誕生日が明日に迫った日、下書きに目を落とし、トワは伸びをする。
屋敷はいつの間にか、窓掛の布や絨毯が厚手になっている。窓に目をやれば、外も秋の装いが深まっていた。
北方の王国の、春、夏、秋は駆け足だ。一年の三分の二は冬。
又、長い冬が始まろうとしている。
空の灰白色と清冽な雪のにおいに、しばしば満たされる季節。
一面の雪景色に息をつくだけならいいけれど。
人は凍てつく中で生活してゆかねばならない。
冬空の下、身寄りの無い少女が一人で旅立っていたら、どうなっていただろう。
想像すると、トワは腹の辺りが重くなる。
孤児院を黙って去った子供達は、某かの労働者にされた可能性が高いらしい。
子供なら、力に物を言わせれば大人より従順で、使い捨てに近い奴隷になるから。
大陸に於いて奴隷契約は禁止事項となっているが、秘かに取り引きする者達は後を絶たない。貴族や金持ちの中には、そういう労働力を使う事に頓着しない者が居る。
まさか、自国の王族がその類かもしれないとは思ってもみなかった。
和平協定と新たな暦の始まりに立ち会い、歴史に名君として名を残すだろうサージソートの国王。今回、実の娘が怪しまれている件は知っているのだろうか。
仮に、トワが他領でこのような誘拐まがいの事をして、それをグレイス伯爵が知ったら。
父が、どれほど落胆するか予測できない。
久しぶりに会える父を脳裏に思い描けば、もやもやした。
父から信頼されて土地を預かっているのに、当地の孤児院で好き勝手な事をされた挙句、ろくな手も打てない。それだけでも充分に恥ずかしい。
悶々とし、夜になってもトワはなかなか寝付けなかった。
熟睡できず、翌朝、やたらに早く目が覚めてしまう。
十五歳、最初の朝。
寝室の雨戸を押し上げると、澄んだ薄空が広がっていた。
冴えた風を顔に受け、トワは唇を引き結ぶ。
手早く使用人の服に身を包み、令嬢は伯爵邸を滑り出た。