色と香と恋と花
暦は五之月に差しかかっていたが、大陸北方にあたるライジカーサでは、ようやく春が訪れる頃合いだった。
僅かに拓かれている農地では、作物の種蒔きや苗の植え付けが始まっている。
近所同士が集まり、順番に各家の作業をこなす。税を納める相手が変わっても、住民達の営みに変わりは無い。
彼等が外で働いている時分、新たな統治者となったトワはグレイス伯爵邸で机に向かっていた。
執事や家庭教師と相談を重ね、前任者の統治記録と照らしつつ、予定を組んでいく。
王家直轄領だったこれまでは、集まった税の大半は王都へ運ばれていた。グレイス伯爵領となってからは、実家へ納める必要無しとされた。だから、そのまま統治費用へほぼ全てをあてられる。そのかわり、実家からは基本的に援助が無い。
限られた金品を、何へ優先的に回すか。
トワは孤児院が気になっていたけれど、私情でそこを最優先にできるわけではない。
道や水道、集会場の修繕、用水路の増設……町からの要望も加味しながら、必要な人員、日数なども試算していく。
バトラとヌーノがまとめてくれた巻物へ、トワは責任者として署名する。署名の入った物は町へ届けられ、町役が内容を受諾すれば実際の工程が開始となる。
こういった執務に加えて家事もするとなると流石にバトラの過労が心配され、地元の住民を一人雇うことになった。
町役の斡旋で三人の名が挙がり、面接の日取りが決まる頃には、ライジカーサは春の盛りになっていた。
署名に忙殺される日も徐々に減り、トワの日常はだいぶん落ち着いてきていた。
領内も、たまに買い物へ出るモユの話だと、種蒔きや苗の植え付けがひと段落して長閑な風情らしい。
出歩きたいという欲求がむくむくと膨らんでいたところへ、使用人の面接日だ。
真面目に働いてくれるなら誰でもいいので、バトラとモユで決めてほしい。早朝の庭でトワがそう漏らしたら、レクスが木刀を振るのを一旦やめ、肩過ぎの淡金髪を結び直しながら言った。
『仲良くできそうな人に来てもらって、この辺の散歩の穴場とかを教えてもらおうとは思わないの?』
地元の人だからこそ知っている綺麗な所がありそうだけど、と空の色に似た瞳が楽しげに煌めくのを見て、それもそうかとトワは思い直した。
これぞライジカーサというモノが無いのも、この地の人口が減少している一因ではないかとトワは考えている。何か、ここならではのモノを探したい。新たな使用人から、その情報を仕入れられるかもしれないのだ。
そうして面接の時を迎え、結果として、採用したのは三番目に来た女性となった。
当初の思惑からややずれて、トワやレクスが仲良くできそうな人と言うよりは、彼等の先生が仲良くしたそうな人に。
邸内の清掃や洗濯を請け負うことになったメイは、独身で二十五歳。黒髪で濃い青の目。典型的なサージソート国民の色で、ライジカーサ住民に多めの、薄い色合いではなかった。
礼も兼ねてメイを雇うと連絡したら、町役が何故か追加で知らせてきた。彼女は元未亡人で、嫁ぎ先から追い出されたという事を。
要らぬ知らせを受け取ってしまったバトラと、一緒に聞かされてしまったレクス、そしてトワ。三人で、メイに確認するべきか密談する羽目になる。
トワとしては、きっちり働いてくれるなら、その手の経歴はどうでもよかった。とはいえ、自分の師がひと癖あるかもしれない女性に引っかかってしまうのも考えものだ。
執事が、苦笑しつつ述べた。
「どうも町役は、一番目に名前を出していた女性を推していたようですね。親戚の娘さんらしいですから」
「じゃあ最初から、一人だけ紹介してくれば良かったのに」
「町役の肩書を利用したと言われるのは嫌だったんでしょう。小さな町ですから、そんな噂は御免こうむりたいんですよ」
眉を寄せるトワの横で、レクスが真顔で口を開く。
「メイを選んだのはトワの妙な直感からなんて、町の人達には口が裂けても言えないですね」
内心で同意しているようなバトラの顔を見上げ、トワは憤然と両腕を胸の前で組む。
「妙じゃないわよ。バトラ、一緒に居たのに、なんで気づいてないの」
「いやぁ、わたしは、お嬢様と先生の後ろに控えておりましたし……」
「位置は関係あるのかしら。その様子じゃ、最初に来た人が貴男に熱視線を送っていたことも気づいてなさそうだけど?」
「えっ」
呆けた顔になる執事の前で、トワは言い募った。
「わたし、メイの登場までは最初の人でいいかなって思ってたのよ。はきはきして明るくて、一応仕事も真面目にしてくれそうで。あの調子だと仕事以外の面で面白くなりそうだったし」
「かっ――おっ、お嬢様、勘弁してください」
どもる執事を斜に見て、トワは乳母が居ないのをいいことに、はしたなく鼻で笑った。
「あら、残念。貴男好みではなかったの」
「いえ、好みとかいう問題ではなくてですね……」
台詞はもごもごと尻すぼみになる。ささやかに鬱憤晴らしを果たしたトワは、幼馴染みを見やった。
「レクもね、先生の様子を見てないんだから、妙とか決めつけないでよ」
メイの第一印象は〝地味〟だった。
黒髪で茶系の服で。それでも服と同じ色の布にきちんと包まれた髪の艶や、示された椅子に浅く座った姿勢の良さが清潔感を醸していた。
雰囲気が隣室に居る筈の幼馴染みに似通っているなと、トワは好ましく感じた。
共感を求めて横に視線を流したら、そこには、普段とは違うぼんやり具合で、メイを見ている家庭教師が居たのだ。
あの時のぼうっとしたヌーノを目撃していないレクスは、ちょっとだけ肩をすくめた。
「では、ワケありかもしれない点は黙殺ということで?」
「まぁ、事実に脚色が加えられてそうですしね」
気を取り直したらしきバトラが言った。「それこそ、そんな取り沙汰する程ワケのある人を紹介したら、町役は醜聞どころでは済みませんから」
なるほど、とトワが思ったところで、独特の微震する声が割り込んだ。
〈我が本人に確かめてやってもよい〉
レクスの傍らに、すうっと半透明の姿が現れる。
不意に出現する精霊にもこの八年間で慣れた執事は、驚きもせず、あぁいいですね、と頷いた。
「彼女に悪癖があるとしても、精霊の目があると知れば某かの牽制になるかもしれませんし」
それが決め手となり、暇だったのか、いそいそと精霊は出向いて行った。
しこうして、あっけらかんとメイは語ってくれた。
十六で親に言われるまま結婚。夫妻でひと晩過ごした後に、夫は南部へ出兵。そのまま帰らぬ人となる。
妻は一夜でその家の後継ぎを身籠れず、一年後に義親から縁切りを乞われ、承諾。
実家に出戻りを許されず路頭に迷いかけたが、孤児院の小間使いとして拾われ、終戦直後、残る戦火に脅かされながらもライジカーサに。
そのまま、今日まで過ごしてきた、と。
トワは、改めて町役に、メイを紹介してくれた礼を告げておいた。
ほどなく、当初の思惑通り、トワもレクスも新しい使用人と仲良くなる。もはや先生はそっちのけで。
「ホントにねぇ、雇ってもらえて良かったです」
乾いた敷布に熱した鉄ゴテをあてながら、メイはのんびりと言った。「先月成人した女の子の勤め先が、決まってなかったもんですから」
昼下がりは、トワとレクスには食後の休憩時間だった。連れ立って歳の近い使用人を捜したら、彼女は温かな匂いの立ち込める一室で作業していた次第だ。
「去年辺りから孤児院は子供が減ってて、あんまり職員が要らなくなってたのもあってねぇ。院長さんは雑用係が居てくれないと困るって言ってくれてたんですけどね、雑用なんて、その子で充分務まりますから。わたしが出た方がいいんだろうなぁって状況で」
喋りながらも、メイは慣れた手つきだ。敷布から皺がするすると消えていく様を眺めつつ、トワとレクスは炭火の台から離れた所で、思い思いに椅子に腰かけている。
庶民の女性の働き口となると、王都でもそう多くない。ライジカーサでは下働きの受け入れ先も少ないのだろう。
孤児院を出たと言っても、メイの住まいは今もそこだったりする。伯爵邸での仕事を終えると孤児院に帰り、これまでと変わらぬ雑用をこなしているようだ。正式な小間使いとなった、成人したての少女と一緒に。
一枚仕上げ、メイは炭火に鉄ゴテを一旦乗せる。手巾で額を拭きながら、そういえば、と心配そうな顔を向けてきた。
「孤児院、閉鎖なさったりしませんよねぇ」
室内のほわほわした空気に眠気を感じていたトワは、目を覚まされた。
「何それ」
「ウチの孤児院、百五十人近く受け入れられるんですけど、この頃、なんでか逃げ出す子も居るしねぇ、いま引き受けている子供は二十一人しか居ないんですよ」
「二十一人も身寄りの無い子が居るのに、閉鎖なんてできないわよ」
トワが断言すると、メイは人の好さそうな顔をほころばせた。
「ですよねぇ。予想外にわたしが雇われたもんですから、ひょっとして孤児院閉鎖に向けての人減らしだろうかって、院長さんが気にしちゃってねぇ」
「全然関係無いから。メイに来てほしかっただけだから」
「あはぁ。トワ様、おだててもわたしは何にも出せませんよぉ」
笑声と共にメイが新たな敷布を広げると、出せます、とレクスが座面に両手をついて身を乗り出した。
「メイのお勧めを教えてください。この季節に綺麗な場所とかを。それに、その頭の薄布、素敵な色です。どの店の品ですか」
今日のメイは、ごく淡い桃色の布で髪を包んでいた。面接の時の重い土色よりも格段にいい感じだ。
「あっは、恥ずかしい。これは端切れを見様見真似で染めただけなんですよ。わたしの実家、染め物にちょっと関わってたもんですから」
お手製? とトワとレクスが驚く前で、鉄ゴテを手にしつつメイは照れ臭そうに笑んだ。「ライジカーサって、紫色を出せる草がたくさん生えてるんです。栽培の難しい弱い草の筈なんですけどねぇ、ここらのは何がいいのか活き活きしてて」
そう、その近くに鈴蘭も群生してる綺麗な所がありますよ。そろそろ見頃かもしれません。そう続けたメイの台詞は、目を見交わしていた少年少女の耳を半ば素通りしていた。
行きたい場所があると位置を告げた時、執事も家庭教師もいい顔をしなかった。
ヌーノは浮かない顔のまま、机上に地図を広げた。
『屋敷からそう遠くない場所なのはいいですが、中立地帯との境が間近ですよ。関所以外の境には近づかない方がいいです。大地神の怒りに触れ、二度と太陽神を拝めなくなる。和平協定を結んだ各国国主がそう口を揃えたんです。お二人とも御存知でしょう』
事実、国主が警鐘を鳴らす前から、国境と定められた付近には動物が近づかないと言う。
トワもそのことは聞き知っていたが、普通の女性であるメイが、何事も無く行って帰ってこられる場所なのだ。恐らく、それ程には境に近くないのだと思う。
それを口にしようとしたら、隣のレクスが何食わぬ顔をして言った。
『メイが気に入ってる場所だそうで、勧めてもらったんですけど』
途端、先生は挙動不審になった。目を泳がせ、地図上に指先で〝め〟の字を書き始める。そうするうちにも、みるみる耳元が赤くなっていった。
『あ、あー、なら、でしたら、平気で、大丈夫で、素敵な、いい所でしょう。違いないです、きっと、絶対』
バトラとレクスはまじまじと若い教師を眺めやり、ほら見なさいと言いたいのをトワは懸命にこらえた。
メイから教わった地に出向き、トワ、レクス、ヌーノの三人は、辺り一面にびっしりと生えている草を目の当たりにした。
根絶やしにしないよう、慎重にこの付近の土地を管理すれば、染料を特産品にできるかもしれない。
紫の染料は、戦前から今現在も変わらず、高値で取り引きされている。
紫は貝に頼る比率が大きく、沿岸地域の少ないサージソート王国ではとかく貴重で高貴な色だ。
ライジカーサは北の山裾に広がる地区な上、しばしば戦場にされてきた。特定の草の根から紫色が出せるなど、元からの住民さえ知らなかったのだろう。
帰ったら早速、あの周辺の保護や職人の招致について練ろうと師弟の意見が一致する。
昂揚した三人は、鈴蘭の群生地へも足をのばした。
清々しい晴天の下、小川の源流から少し逸れ、小さな森の中。木立の合間に濃い緑が広がり、慎ましやかに白の彩りを添えるまろい花が咲き乱れていた。
辺りには、花の小ささからは想像できない程の香が漂っていた。甘い中に草の爽やかさも含んだ匂い。
「ライジカーサって北方の割には花も豊富よね」
芳香にくすぐられながら、トワは緑の絨毯を見回した。「ねぇ、香料も作れないかしら。戦争が終わって七年も経つんだもの。みんな、そろそろ嗜好品に手をのばしてもいいと思うの」
ヌーノの傍らで花の精のように佇んでいたレクスが、微かに顎を引く。
「確かに。でも、あれもこれもと手を出して、収拾がつかなくなると困ります」
細い杖に身体をあずける先生が、小刻みに頷いた。
「染料も商品とできるか、まだ確定ではありませんよ。それに、香料を作るとしたら大量の花が要るのでは。その為に規定以上の農地開拓をすることにでもなったら、宜しくないですね。伯爵だけでなく、王家にも申告しなくてはいけなくなります」
正論を口々に言われ、トワは唇をすぼめる。
「理想の翼を広げただけでしょ。ばしばし叩き落とさないでよ、野暮な人達ね」
その時は、男性二人は苦笑して舌鋒を引っ込めたが。
グレイス伯爵邸に帰宅後――
「さぁ、ではライジカーサを〝色と香の町〟にすべく話し合いましょうっ」
会議の冒頭、紙葉に〝色・香〟と大きく書き連ね、にこやかに宣言したトワに、執事も加わった男性三人は寸時固まり。
「先ず、その企画名は却下ね」
にべもなくレクスが斬り落とした。