風のやむ日
それから丁度ひと月後となる日、セカン王子は現れなかった。
第二王子で、今現在は王位継承権も二位、加えて復興さ中のヨーグサーフル領主だ。そうそう来る余裕も無いだろう。
ライジカーサの面々はそう推察したのだが、月の変わった翌日、殿下はお出ましになった。
「出かけようと思った日に、王都から使者が来たものだから」
例によって朝食にありついたセカン王子は、その席で告げた。「父上が退位を決められたようだ。来年初めからは異母兄上が国王となる」
六暦十年から新王の時代とは、区切りもいい。
和平から十年の節目でもあり、その祝典も兼ね、他国からも出席者を招き、年始に戴冠式となるようだ。既に出席の返答をしてきた国もあるという。
大陸の各国は、国境を接していない。国と国の間に、たった一人の術者が、中立地帯を作り出しているからだ。各地は概ね陸続きだけれど、行き来が可能な場所は関所のみ。
革新された世界の仕組に、これまでサージソート王国では輸出入品を優先し、一般の旅人の通行量を制限するという対応をしてきた。
だがこれから久しぶりに人の出入りが増え、各関所が慌ただしくなるだろう。
「祝祭にかこつけて変な連中が大量に入国してはかなわんから、関所に増員するようだ。何せ、中立地帯側の関には地元の者が飾りで立っているだけで、どうも信用ならない」
朝から旺盛な食欲を発揮しつつ、セカン王子は語る。どうやら、父王と王太子の要請で、国境の一部を視察したらしい。
四ヵ月前は初めて領地を任されたと浮ついていたのに、随分と情勢把握が正確になったものだ。
面立ちに愛嬌は残っているものの、男らしさが増してきたような印象を受ける。
トワは素直に感心し、それで本日はどのような御用件で、と丁寧に問う。
セカン王子は、いい笑顔で言ってのけた。
「今日は、単に遊びに来た」
食後の檸檬水を飲みつつ、あれからどれぐらいこじれた、と興味津々の顔つきで殿下が訊いてきた。
トワはムッとしながらも、お蔭様で早くあやまちに気が付けましたので、とだけ応じる。
「なんだ、もっとこじれると思ったのに」
王子がつまらなそうに言うと、レクスが澄まし顔で切り返した。
「そもそもこじれていません」
「午後には肩も首もすっきりでしたとも」
トワがにこやかに添えると、幼馴染みは軽く噎せた。セカン王子が訝しげな視線を送ってから、鼻で息をつく。
「トワ殿が消沈していれば、慰めようと思ったのに」
「まぁ、女性がお好きなだけあってお優しい」
お世辞含みで微笑したトワに、王子は朗らかに頷く。
「そういう時の女性はさすれば落とし易いと、温泉で一緒になった領民から聞いたのだ」
微笑を取りやめるトワの視界の端で、殿下の従者二人が、嗚呼、という顔になっている。レクスも一緒に、あーあ、という顔をしてから、何気なく尋ねた。
「ヨーグサーフルは温泉施設に力を入れることに?」
「前領主が幾つかいい場所を独占していたのを、公共用に改築してみたのだ。収穫に集まった者が使えるよう、間に合わせた」
「いいですね、収穫祭が楽しそうです」
「祭の日程をライジカーサとずらそうか? そうすれば君達も見物に来れるだろう。だいぶ治安も回復させてきたから、来るといい。今からなら、まだ日程の調整ができよう」
王子が従者を見やれば、彼等も笑んで首肯する。
のんびりと端で話を聞いていたヌーノが、小さな巻紙を懐から出してきてめくった。
「こちらの収穫祭は来月八日、九日の予定になっております」
「では六日後くらいにするか」
殿下の言を受けて、従者が紙葉に走り書きする。
ライジカーサ以外にも労働者募集に応じてくれた地区があったようで、収穫の方はなんとかなるらしい。早くもやって来て、担当農地や専用宿舎へ向かった人々も居るそうだ。
この辺りでも、短い夏があっと言う間に過ぎていく。物によっては収穫が始まっていた。
遊びに来たとの言葉どおりにセカン王子は伯爵邸で寛ぎ、それでも、今回も昼過ぎには辞去した。モユが焼いてくれたファトの実を、何だこれは、とはしゃいで受け取り、数日もつ土産と知ると喜んで馬に括っていた。
押しかけ王子一行は領境までの見送りは流石に固辞するので、トワ達は伯爵邸の前で走り去る馬影を見届ける。
ファトの丸こい荷が嬉しそうに弾んで遠ざかる様は、微笑ましい気分にしてくれた。
本日の執務に取りかかるべく、トワ達は屋敷へ戻る。
廊下を階段へと進んだところで、不意に微震する声が降ってきた。
〈代わりが来た〉
「えっ」
トワとレクスの声が揃った。
明らかに早い。
恐らく、五核精霊が存在を保っていられる最短期間だった。
若い二人の声音の硬さに、執事と先生が心配そうな顔つきで、老爺の姿で現れていた精霊を見た。精霊は、主のように澄まし顔で、長い鬚を垂らした顎をしゃくる。
示す先に、トワ達の目では別な精霊は見えない。しかし偽らないのが精霊だ。
レクスはややの間空色の瞳を揺らしていたが、先に行っててください、とこちらに告げた。守護契約時、第三者の立ち会いは許されないから。
空き部屋へ少年が消えると、ヌーノがトワを見た。
「どうしたのです」
「短いの」
応じた声が、精霊のモノのように震えてしまった。「先月、代わったばかりって、レクから聞いてて……」
「……核を練るのには、術力と熟練と、体力が要りますからね……」
レクスの守護精霊を誰が精製しているか、グレイス伯爵家の者達は知っている。精製者が相当の使い手だというのも、これまでの精霊が働きぶりで証明してきている。ただ、その人物はレクスの祖父――高齢というのが懸念される点だったのだ。
魔術は、術者が亡くなると効果が消えてしまうらしい。
精霊も、精製術という魔術で生み出されている為、奇跡の業と言われる六核を除けば、例えまだ数ヵ月もつ状態としても、術者の死亡と共に大気に溶けてしまう。
レクスの祖父は、常人には容易く生み出せない五核の精霊を、まだ見事に精製できている。けれど、後どれだけそれが叶うのか……
警備面の見直しを考えておきましょう、と執事が事務的に告げ、先生が同意する。
しばらくして執務室に入ってきたレクスは、静かに言った。
「無事に成人したので、風に護られるのもそろそろ卒業のようです」
彼の祖父は、これだけ大事にしている孫と再会しないまま、最期を看取らせるつもりも、亡骸を見送らせるつもりも無いのだろうかと、トワは切なく思ったのだった。
半月ばかり経過した頃、西の本領に居る父から、便りが届いた。
開くと、急いで書いたらしい筆跡だった。
【レクス殿の従弟の使者として、北東の中立地帯より客人が来た。
当家がレクス殿を婿にする気が無いのならば、某男爵家に話を持っていくと強気の姿勢。
ドゥー兄上の所に使者は行っておらず、直接当家に来た模様。
何かおかしい。
くれぐれも気をつけるように。】
トワは、レクスに話すべきなのか、しばし迷った。
何だかんだ言って、トワは幼馴染みがどういう経緯でこの国に来たのか知らず、積極的に知ろうとしていなかった。自分の国には居られないから来たのだろうなと思えば、それは悲しいことでしかないから。
戦争が終わっても彼は国に帰らなかったし、家族と言えば祖父の存在くらいしか窺えなかったし、尚更そう感じていたのだ。
ところが、こうして父からの便りを見るに、違和感がある。血縁の存在も然り、まるで当初はトワが貰うことになっていたかのようなくだりも然り。
許婚でも何でもないことは幼い頃にレクスが乙女心を粉微塵にしてくれたので、解っている。トワはここにきて浮かれるおめでたさは無かった。
とにかくも、末尾の不穏さが眉を曇らせる。トワ一人が気をつけておけばいい話ではなさそうだ。
夕食後、トワは結局、レクスに便りを見せた。
少年は、最初の辺りを読んだだけで頬を強張らせていた。
さほどせずに黙って便りを返され、トワは上目づかいにレクスを見る。
「某男爵家って、判ってる?」
「……先ずソコか」
苦笑され、トワは見透かされているようで頬が熱くなった。
「だって、お父様、〝某〟とか意味深な書き方してるし」
「ダド様にとっては取り沙汰する程ではなかったのでしょう。私としても同感です。何処の国の男爵家なのかもさっぱりだ」
「ひょっとして、従弟というのも居るか居ないか判らないような人?」
いえ、と即答してから、幼馴染みは一点を見つめた。トワは口をつぐみ、綺麗な横顔を見守る。
レクスは、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「貴女は何も訊かなかったから、私も話していませんでしたね」
「わたし……構わなかったのよ」
「トワらしい」
短く笑声をこぼした後、少しだけ長くなるかもしれません、と彼は前置した。
トワは並んで座っていた長椅子を立つと、鈴を鳴らして執事を呼ぶ。茶の支度を頼んでから、振り返った。
「構わないわ」
陶器から、ほのりほのりと揺らめきのぼる湯気が、宙に溶け入る。
レクスは、それを空色の双眸に映しながら、語った。
「ソータスでは長男が家を継ぐのです。祖父には二人子供が生まれました。私の父と、私には叔母に当たる人。順当に、父が後継ぎと定められました」
お伽話でもするかのような口調だった。
トワは隣で、花蜜を混ぜた茶を含みつつ、耳を傾ける。
「ただ、祖父は類稀な術者で、戦続きの時代、後継ぎにもできれば術者をと周りから望まれていました。でも祖母には術力が皆無だった為か、父はそちらの影響を濃く受けて生まれ、叔母の方にだけ僅かながら術力が」
嫌な予感に、トワはこくりと喉を動かす。
淡々とレクスは続けた。
「父は術力のあった母と結婚し、後継ぎとなる私が生まれました。ですが御存知のとおり、私も父同様に術力が無い。一方、叔母もやはり術者を伴侶に迎え、男児をもうけました。術力を持つ者は近年数を減らしましたが、術者同士の間には生まれ易いようです。従弟は祖父に遠く及ばぬものの、魔術を扱えます」
嫌な予感が募る。
夏場だというのに指先が冷えているのか、器から伝わる熱がはっきり判る。
「周りは従弟に期待を寄せました。従弟も期待に応えようと――いや、従弟というより叔母上かな」
「アイネ様とお母上のようだわ」
思わず呟くと、似ています、とレクスも首肯した。
「周りは、正式な後継ぎである父が居るにも関わらず、後継問題について躍起になっていました。けど、術者というのは割合頑健でもあるようで、祖父も例外でない。まだ何年でも現役を勤められる状態でした。そうして祖父は、現役のうちに、術力などなくても安心して暮らせる世にしたいとお考えでした。術力の無い父や私が家を継いでも、問題の無い状態に」
戦は終わり、各国は和平協定を結んだ。祖父の描いた世が実現している。
卓へ茶器を置きつつトワは眉を寄せ、レクスは睫毛を僅かに伏せた。
「和平協定締結の二年前に、父が戦死しました。本当に戦死なのかを母は疑っていましたが、私には事実を知るすべはありません。祖父は私を新たな後継ぎとし、その所為なのか、私は母に連れられ、ここに程近い場所で、母が病で亡くなるまでの数ヵ月を隠れるように過ごしました」
トワは息を呑む。
ファトの実を懐かしんだわけだ。
思わず幼馴染みの服の袖を握ると、レクスはなだめるように軽くその手を叩いてきた。こちらが慰められては情けないにも程がある。トワは唇を噛み、こぼれそうなモノを茶を飲むことで誤魔化す。
「お祖父様も頑固ですよね、無用な混乱を生むのだから、もう従弟を後継ぎとすれば良かったのに」
澄ました様子で、レクスは言った。「決めた時はまだまだお元気だったからかな」
「レクの方が相応しいとお思いなのよ」
浮かんだままにトワが言うと、レクスは肩をすくめた。
「それはともかく、叔母は国が無くなろうという時にも後継問題に拘っていました。祖母も既に亡くなっていて、安心して預ける先が無かったのか、祖父は私を出先へも一緒に連れていくようになりました」
彼の祖父は強術者として各地で引っ張りだこだったろう。トワ達が生まれた頃、術者が重宝されるのは戦場だったわけだが、まさかレクスはそれに近いような場所を歩かされていたのだろうか。
何度も傾けた器の中身は、空になってしまった。レクスが手を向けてくるので、無意識に手渡す。
余っていた茶を品良く注ぎながら、レクスは話を続けた。
「私は自分が足手まといになっていると思っていました。或る日、隣国の宰相閣下との会談に同行させられた時、祖父が相手を随分と信頼しているのが判り、思い切ってその方に頼んだのです――疎開先を紹介してほしいと」
「自分から!?」
「子供でしたから、配慮とか思慮深さなんてモノはありませんでした」
レクスは自嘲気味に言って、辛うじて湯気の立つ器を向けてくる。「呆気に取られている祖父には、別に私でなくても国は立ち行く。私はわけの解らぬことで死にたくはない。どうしても私が後を継がなくてはとお祖父様が判断されたなら、その時はしょうがないので戻りますと、生意気を告げました」
「その時もうとっくに可愛げが無かったのね……」
「宰相閣下は面白がってくださいましたよ?」
自分の器から一口飲んで、レクスは口角を上げた。「では弟の所に歳の同じ子がおりますので如何ですかと、子供の話に乗ってくださったんです」
やむにやまれず泣く泣く家族と別れたならともかく、自ら望んだことならば、そうそう弱音や泣き言など出る筈が無い。やはりレクスは、面倒臭い程にしたたかだった!
「祖父もグレイス伯の領地の方が自国よりずっと安全だと判断したようで、そのまま宰相閣下に私を託しました。私が姿を消したので叔母は喜んだようなのですが、祖父はソータス全土を中立地帯化させたことで、継承問題をうやむやにしたままにしていました」
トワはそこでようやく、本当にようやく、レクスの祖父が単なる一術者ではないと理解した。
「レクのお祖父様って、雪の王……?」
真っ白な顎鬚が立派だと聞く、隣国の王。
「今は王ではありません。北中立地区の暫定主管です。まぁ、叔母上は、権力者でさえあれば、肩書は何でもいいようですね。未だ、従弟に跡目を継がせたがっているらしい」
「……それで、この便りにある妙な使者を送ってきたわけ?」
「お祖父様はまだ同年代の人に比べたら充分元気だけど、少し体力が落ちてきたみたいです。後を狙う叔母上としては、私に継承権が残っていると思って落ち着かないんでしょう。こうなったら誰でもいいからサージソートの女性嗣子に引き取ってもらって、あちらの権力には絡めない立場になってほしいのかな」
「だ、誰でも良くはないでしょうっ」
「貴女が拘るのはソコなのか……まぁ、私にも好みがありますから、勝手に話を進めるのはやめてほしいけど」
ちょっと視線をずらし、トワは頷く。
「可愛い子がいいんでしょ」
レクスは、ふわりと目を細めた。
心の奥で、誰かを思い描いているように。
そうして、トワが泣きたくなるような優しい声で、うん、と肯定した。
どうやら故郷に残っているレクスの親戚が、強引に彼の縁談を進めようとしている。
判ったが、さてそれをどう警戒及び阻止すればいいのか。トワにはこれといった名案は浮かんでこなかった。
第一、今でもレクスは祖父の後を積極的に継ぎたがっていない。叔母と従弟が好みの可愛い子を連れて来たなら、それはそれで別に構わない感じである。
正直なところ、トワは面白くない。何が楽しくて、見ず知らずの可愛い女性とレクスとの結婚話に関わらねばならないのか。
結婚が決まったと知らされれば、必死に努力して努力して努力して、おめでとう、と言いたいけれど。
嫌だと泣き喚いては、グレイス伯爵令嬢という肩書に痛々しい傷がつきかねない。家を繋いでいかねばならない身で、後々自分の縁談に響く振る舞いはできなかった。
都合の悪いことはすぐに忘れられるトワだが、こと幼馴染みが絡むと記憶に被せる蓋に穴が開く。
翌日になっても、もやもやが胸中に漂っていて。
トワは、何処となくレクスに余所余所しい態度で過ごすようになってしまった。
そのまま日々は流れ、王国各地で、相次いで収穫祭が始まった。
ライジカーサでも二日間かけ、昨年と同じく賑やかに執り行われる。
二日目にはセカン王子が従者を連れて、当然のように姿を見せた。
トワ饅頭にやたらとぱくつきつつ、ヨーグサーフルの収穫祭にも来いよ? と念を押し、ファトの季節が終わったと知るや肩を落として帰っていった。
饅頭代や宿代をたくさんライジカーサに落としてくれたようだし、そもそも目の前で日程を調整してくださっていたのだから、伺わない選択肢は無い。
祭を終えた翌々日、ライジカーサ領主は補佐二名と共に馬車で出発したのだった。