嵐から慈雨のしらべ
一ヵ月後。六之月の終わり。
トワは前日まで、やはり王子のことは忘れ去っていた。が、グレイス伯爵邸の他の住人は、二度も続いたから、しっかり覚えていた。前の晩に、夕食の席で笑い話に出る。明日の朝もいらっしゃるのでは、と。
事実、来た。前回、前々回より、更に早い時刻に。
薄曇りで、トワは少々目覚めが遅れた。
寝台で半身を起こすと伸びをして、窓の外の灰色に、今日は雨かしら、と思う。手早く着替えと洗顔、うがいを済ませ、髪は念入りに整える。新しい手拭を持って庭へ出た。
雨は、まだだった。けれど、いつ降り出してもおかしくない、湿った生ぬるい空気だ。
こっち、と見当をつけてトワは歩き出す。大きめの樹木が植わっている方。
雨が降り出しても枝葉で些少はしのげそうな方、とトワは予想したのだけれど、外れたようだった。幼馴染みを見つけられずに、庭をぐるりと巡る羽目になる。
短い息づかいと、地に踏み込み蹴り出す足音が幾つも聞こえた。異変と察してトワは木立を小走りに抜ける。
開けた視界に、剣を持つ金髪と黒髪の少年が映った。それを遠巻きにする若者も二人。
「それ以上近寄るな、トワ殿――っ」
レクスの薙ぎから飛び退いて、セカン王子が声を響かせる。
何してるの、とトワは喉まで出かかっていたが、先手を打たれた形で声を呑む。
レクスはいつもの模擬剣を構えている。セカン王子の物は真剣のようだ。鞘に収まったままではあったが、振り回しているうちにすっぽ抜けたりはしないのか。
トワが混乱している内にも、少年二人は間合いを窺いながら、睨み合っている。
普段はさらさらに見える幼馴染みの短い金髪が、雨ではなく汗に濡れて額に付いてしまっていた。対するセカン王子はそれほど疲労していないようだ。剣の構え方にも余裕が感じられる。
きっとレクスが随分鍛錬した頃にやって来て、挑みかかったのだ。
いつでも抜刀できると王子が脅しているように見え、トワは立ち尽くす足が震えてくる。こんな状況で、守護精霊は何をしているのか。
例の証言をして守護以外にも世話になった風は、トワ饅頭をみんなで食べた数日後、仲良くな、と言い残して大気に還ってしまっている。三ヵ月強の付き合いだった。
そして新しく守護に就いた精霊を、トワは一度も見かけていない。
もしかして、今は守護がついてない――?
浮かんだ仮定に血の気が引いた。
レク――とトワが震える足で出かかった時、セカン王子が一気に踏み込んだ。あっと言う間にレクスの懐近くに入り込んで剣を殆ど垂直に振り上げる。トワが言葉にならない悲鳴を上げる間に、顎に達しかけた相手の柄を、レクスは剣の平に腕を重ねて防いだ。それでも衝撃に足が浮き、後方によろめく。
「やめてやめてっ、酷いわっ」
トワは、喚きながらレクスの前に飛び出してしまった。「レクを苛めないでっ、殿下、王族が弱い者苛めをするなんて信じられませんっ」
セカン王子は距離を置いて再び構えかけていたが、口を曲げて剣を下ろす。
「寄るなと言ったろう。剣を使えぬ女性が、このような場に出て来るものではないよ」
「わたしの屋敷の庭で堂々と弱い者苛めをする人のお言葉なんて聞けるとお思いですか!?」
目頭が熱くなってひと息に言い切ったトワに、セカン王子は溜め息をつく。
「手合わせを願ったのはレクス殿の方だ。長剣は我流でしかないので、どの程度通用するか試させてくれと」
ほけっとして、トワはそろりと視線を横手にやる。脇で成り行きを見守っていた王子の従者だろう若者二人が、同時にこくこく頷いてきた。
後ろで乱れた呼吸音を聞かせていたレクスが、一つ大きく息を吐き、ぼそぼそと言った。
「そういうことです」
ふぅ、と今一度吐息が漏れ聞こえる。邪魔をしてしまったと判明して、トワは恐る恐る王子を見上げた。
「すみませんでした、申し訳ありません」
もういいと言うように王子は払う仕種を見せる。穴を掘って飛び込みたいトワ越しに、殿下は真顔で言葉をかけた。
「俄かにしてはいい動きだった、レクス殿。なかなか隙を見せてくれないから、実に嫌ぁな相手だな。とはいえ、また機会があったらお相手するぞ」
「えぇ、お願いします」
やや低い声音でレクスが応じた。「人員の募集については、なるべく早めに御連絡します」
トワが振り返ると、幼馴染みは既に身を整え、礼儀正しく一礼していた。頭を上げると、こちらを全く見ずに踵を返す。すたすた屋敷の方へ戻っていく。
握り締めていた手拭も渡せず、トワはおろおろと、追い駆けたい後ろ姿と王子とに視線を彷徨わせる。
従者の一人が、気の毒そうな顔をして、殿下、と声を発した。
トワをとっくり眺めていたセカン王子は、苦笑した。
「本日の用件はレクス殿に話してある。雨になりそうだし、俺達はもう帰ろう」
「あの、はい――いえ、せめて朝食だけでも……」
「よい。トワ饅頭でも買う。それよりもだ」
王子は己が顎をひと撫でした後、両の腕を胸の前で組んだ。「俺は女性が大好きだが、どうも女心というヤツが解らん。教えてくれ」
「はい。その、わたしなどで、宜しければ」
「好いた男を〝弱き者〟と真摯に連呼する。しかも当人の前で、他に向けて。一体どういうつもりなのだ?」
トワは、じわじわと、自分がしでかした最大の失態を悟った。
男心としては……と剣帯に剣を吊るしつつ、王子はトワの悟ったことを御丁寧に言葉にしてくれた。
「力量の差を自覚していても、守るべき婦女子に指摘されては立つ瀬が無い。或いは、屈辱で怒り狂う」
「――でっ、でで殿下っ、お帰りの道中、どうぞお気をつけてっ」
言うや否や、トワは筒衣の裾を勢い良く持ち上げ屋敷へ走り出した。
すっ飛んで行く伯爵令嬢を寸時目で追ったセカンは、庭の裏口を示す従者に頷いた後、可笑しそうに呟いた。
「また来なくては。ここの連中は面白い」
従者二人は、主人の酔狂に、やれやれと言いたげな顔を見交わしたのだった。
レクスは、井戸端で顔を洗っていた。
雫が、はたはたと頬や顎を伝い落ちる。それを服の袖で軽く拭うので、トワはおずおずと手拭を差し出した。
冷たい色の瞳が一瞥してきて、トワは小さく口を開閉させる。
ごめんなさいと言いたいけれど、今回ばかりは事態の火に油を注ぎそうでためらわれる。
「ちゃんと拭かないと、風邪ひくわ」
謝罪以外を口にすると、明らかに乱暴な手つきで、トワは手拭をひったくられた。
がしがしと頭を拭き出し、レクスは不機嫌そうにそっぽを向く。
「子供でもあるまいし。この程度で風邪をひくほど私はひ弱じゃない」
淡い金髪を乱したまま、手拭を首に掛けるとレクスは使用人口から屋敷に入っていく。後を追うと、厨房にはモユが居た。挨拶してきつつも、朝から何をしていると言いたげな目を向けてくる。二人が成人して以来、乳母は少々堅苦しいお小言を並べるようになっていた。
今はその〝貴人の男女の節度ある姿〟とかいう話を聞いている余裕は無く、殿下はお帰りになったわ、と言い逃げ、厨房を突っ切って廊下へ出る幼馴染みに続く。
二階へ向かいかけ、階段の踊り場でレクスは苛立たしげに足を止めた。
「何処までついて来る気かな。モユに叱られそうなことをさせないでほしいんですけど」
「いいわよ、〝代わりに叱られます券〟を遠慮無く使って」
トワが急いで応じると、レクスはちょっと天を仰いだ。
「女性の方が早熟と思っていたけど、貴女にはどうも適用されないな。背丈ばかりが成長している」
胸に刺さる言葉だったが、トワは必死に弁解した。
「そうなの――そうなの――つい、セカン王子が、珍しくわたしより背が高いものだから、だから、すっごく強い人みたいに勘違いしちゃったのよ」
「あの方は強いですが? 剣に名高い貴女の伯父様から、長きに渡り指導を受けてきただけのことはあります」
「う」
言葉に詰まったトワに、レクスは双眸を冷ややかに細めた。
「意味不明な泣き落としはお断りです」
言い捨てると、少年は階段を上がっていってしまう。
はしたないと知っていたけれど、涙をこらえる為、トワは鼻を啜った。
二人が仲違いするのはこれが初めてではない。グレイス伯爵邸の年長者達は、若い二人の空気が普段と違うのをすぐに察した。
下手な仲立ちは誰もしない。粛々とそれぞれの仕事を進める。
しんとした執務室で、レクスが受け取ったセカン王子からの依頼書に、トワは肩を落としたまま目を通す。
収穫期、周辺領主に、出稼ぎ人募集の布告を願う旨が記されていた。労働者には魅力的な報酬内容だ。在籍証明があれば、御領地ヨーグサーフルまでにかかる往復の交通費も出るらしい。これを受けてあまり大量の領民に出かけてしまわれると、今度はこちらの収穫が大変になるから、調整が必要だ。
予め人数を限って募集を受け付ける形にした方がいいだろう。町役と話し合って決めなくては。
そうですねと先生も言ってくれたので、後は執事に頼んでおく。トワは、ライジカーサは布告に応じるとの返信をセカン王子にしたためた。
抽斗から返信用の皮紙を一枚出した時、思いついて、隣に束ねられた未使用の紙葉も一枚抜き取る。
レクスはトワの斜め横の机で、領主補佐でも構わない署名を黙々とこなしていた。いつものように姿勢良く腰かけて、本日は、ほぼ無表情で。
盗み見るトワに気づくことなく、つと目元にこぼれた前髪を左手でかき上げる。手首の辺りに細いみみず腫れが出来ていた。今朝の手合わせで付いてしまったのか。痛む様子は無いから、軽いモノらしい。
外から、水滴の落ちる音が聞こえてきた。雨が降ってきたようだ。
ぽつぽつ。ぽとぽと。ぱたぱた。
心奥に、こぼれる涙のように音が染む。
なんで、あんなことを言ってしまったのか。
自分は同情に名を借りて、可哀相な人と、レクスを下に見ていたのではないか。
レクスは幼くして家族と離れ、一人で他国からやって来て、一人で立っている。
しかし一度たりとも、それについて弱音や泣き言を漏らしたことは無い。ごく真っ当な感性を持つ者がそう在るには、どれほど心のしたたかさとしなやかさが必要なことか……
自戒を込め、トワは紙葉に〝肩殴り券〟と大きく書いた。
昼食後の休憩時間、自室へ行ってしまおうとするレクスに、トワは紙葉を押し付けた。
少年は、大きいだけが取り柄のような文字に目を落とすと、諦めたように肩をすくめた。
「こんな物を貴女に贈った覚えはありませんけど」
「そ、そうなんだ……なんで、あるのかしらね」
ぎごちなく首を傾げるトワの前で、まったく……とレクスは紙葉を懐に入れ、足の向きを変える。
ついて行けば、広間に着いた。雨天の所為で各部屋は薄暗くなっている。でも、大きな硝子窓の多いこの部屋は、比較的明るかった。窓の外の庭木が、しっとりと濃い緑に滲んでいる。
長椅子を示してから、レクスは腕まくりをして自らも座り込んだ。やる気満々だ。
王都の伯爵公邸で逆の立場だった時、内心でレクの莫迦と唱えつつ、トワは結構ぽかぽか叩かせてもらった。
覚悟を決めて椅子の端に座ると、幼馴染みに背を向ける。
すぐ、雨音に合わせるように、ぽん、ぽん、と両の肩を交互に叩かれた。軽い。手の甲を乗せているだけのような気がする。
「殴ってる?」
「殴ってます」
澄ました声が返ってきて、ぽくぽくと心地好い震動と共に肩が温まる。
「ちゃんと殴ってる? なんか、気持ちいいんだけど」
「……凝ってるのか。机仕事のし過ぎですよ」
ちょっと強い力で揉みほぐされ、いたた、とトワは声を上げたが、その調子よ! と言を継ぐ。ぴりぴりした刺激に反省を促される気分だ。
「ところで、レク」
「何」
「精霊は……?」
「代わってくれたばかりです」
彼に寄り添ってくれる者が健在だったことにトワはホッとしたけれど、レクスはぽそりと続けた。「居てくれなければ、モユに叱られてます」
「レクは、昔から、ちっとも叱られないじゃない。券もあるんだし、ちょっとぐらいなら羽目を外してもいいと思う」
「はいはい。叱られると解っていて敢えてやるのはトワぐらいですよ」
トワが唇をすぼめるうちにも、雨のしらべに乗せ、レクスは肩を叩き続けてくれた。