雪どけは雪崩を招く
王都のグレイス伯爵公邸で夜に催された宴には、父のダドだけでなく、驚いたことに伯父の宰相ドゥーと夫人も参加した。
レクスの誕生祝いにいつもより多くの人が集まってくれたのは、純粋に嬉しい。トワは機嫌良く幼馴染みの隣席で食事に興じていた。
流行りの仕立屋で服を見立ててもらう約束を取り付けたのも、機嫌の良さに拍車をかけていた。王都に居るうちに注文だけでもしておきたいから、明日にも二人で外出だ。
レクスはしきりに、見立てるだけでお金は出さないと繰り返していたが、念を押さなくてもトワはそこまで図々しくはない。それよりもやたら、室内に風が吹いていた。今現在の守護精霊は大丈夫なのかを彼は気にした方がいいと思う。
談笑混じりに温かな時間は移ろっていたが、不意に廊下から慌ただしさが舞い込んできた。
入室した執事が、宰相に何か告げる。
口許を布で拭ってから指先で美髯をひと撫でし、申し訳ない、と宰相は同席者に向けて口を開いた。
「仕事が生じてしまった。退席をお許し願う」
「過労死しないでくださいよ」
伯爵が身内の気安さで応じれば、宰相は苦笑して席を立った。レクスを見て目を細める。
「どうぞ今後も良い日々を」
「ありがとうございます――お気をつけて」
返答に目尻の皺を深めてから、宰相夫妻は公邸を後にする。
抑え切れなかったらしい足早さが場の温度を幾らか下げ、飲み物で暖を取った後、会話もそこそこで宴はお開きとなった。
宰相が急いで向かう程の何があったのか気にはなったが、夜明け前から動き回っていたこともあって、寝床に入ったトワはすぐさま眠りに落ちる。
翌日、空気が冷たくも風は穏やか、空は晴れ渡り、絶好の外出日和と言えた。ここ数日、幸いにも好天続きだ。
いつものように庭の片隅で鍛錬していたレクスを見つけ出し、出かけようとねだる。諒承を得て、朝食後、羨ましがる伯爵を尻目に、二人は都で評判が上がっているらしい服飾店へと箱馬車で向かった。
馬車通りは雪も除けられ比較的落ち着いた趣だったが、窓から見える細い街路は年の暮れだからか賑やかなようだった。ライジカーサとは人口の差もあるだけ、活気の規模も違う。
両手に荷物を抱えた家族連れの睦まじさに頬を緩めていると、向かいで反対側の窓から外を見ていたレクスが呟くように言った。
「どうも騎兵の行き来が多い」
「――昨夜からなのかしら」
昨日の今日だ。思い出し、トワも同じ窓から外へ目をやる。丁度、馬車と数騎がすれ違った。王国正規兵の装束で、一団となって何処かへ向かっている様子だ。窓へ顔を寄せて後方へ視線を投げれば、馬はいずれも背に荷布を括っている。
不穏な雰囲気に、トワは眉を曇らせる。戦が終わってやっと八年なのに、よもやまた争い事でもするのだろうか。
メイやポタ、ヌーノも、戦が無い時代に生まれていたら、家族も失わず身体も不自由にならず、もっと別の幸福があった筈だ。
きっとレクスも。
黙り込んだトワの前で、幼馴染みが外を見たまま言った。
「風、何か判りますか」
ふむ、と微震する声が起こり、ややしてからまた聞こえてきた。
〈都を出て北東方面に向かっているな〉
その方角にはライジカーサが在る。思わずトワが両手を握り締める間に、レクスは宙の一点に視線を据えて尋ねる。
「馬に積んでいたのは何だろう」
〈掘り具と大きそうな布は確認した〉
「……雪で主要道が塞がれたかな」
〈主がもっと安全な場所で動かなければ、もう少し詳しく見てきても良い〉
「あぁ、うん。では、後で。ありがとう」
精霊の、昨日とは打って変わったまともな言動に、トワはそろりと息をつく。
入り込む冷気を遮るように、レクスは窓蓋を閉めた。肩をすくめる。
「道が塞がれてしまったとしたら、ライジカーサへの出立は延期するしかないかも。ひょっとしたら、トワの服が出来上がるまで王都に滞在かもしれないですね」
「うーん、服よりもライジカーサのみんなに早く会いたいわ」
率直にトワが漏らすと、レクスは白い歯を覗かせて快活な笑声をこぼす。見ていたら顔が赤くなりそうで、トワは閉じていない方の窓外へ目を向けた。
女装していたレクスもある意味目の毒だったけれど、素のレクスがもっと刺激的だったのは誤算だった。
元々サージソートは織物が盛んな国でもあるから、店内には布一つとっても素材から織り方から色々あった。縫製の技術も、王都で店を構えているだけあって、見本から既に素晴らしい。
あれこれ薦められ、目移りを通り越して目を回しかけているトワの横で、レクスは店員の意見も取り入れつつ、それでいてきちんと似合いそうな型や布地、色を選んでくれた。
無事、宴にも着て行けそうな服を一式注文し、気分良く公邸に戻る。
戻ると、便りの添えられた小さな桐箱がトワを待ち受けていた。
【私の夢に夜毎現れていたのは、やはり貴女だったのだな。今度は私が貴女の夢に訪れよう。これをつけて、私を想って褥に入っておくれ。必ず行くから。 セカン・ダリカ・サージス】
来ないで、迷惑! と喚きそうになって、トワは価値も忘れて製紙の便りを握り潰す。
「何なのこれはっ」
「香水のようですね」
「それは判ってますっ」
箱の中身を覗いて述べたレクスに、トワは言い返した。「なんでわたしに贈ってくるのよ!?」
「貴女の心を得たいのだと思いますけど」
代弁なのが切ない。
トワは箱の蓋を閉めると、ほどいたばかりだった青い紐を結び直す。ぎりぎりと締め上げながら、肘掛椅子に澄ましてもたれるレクスを睨んだ。
「白状してちょうだい。一緒に踊ったのはわたしじゃなく貴男なのよ。一体、何を殿下に言ってくれたの」
斜向かいで、レクスは目線だけこちらに流してきた。それだけでどきりとしてしまう我が身が腹立たしい。トワは強がって口をへの字に曲げる。
幼馴染みは、ちょっと肩を上げた。
「殿下は王妃陛下の仰るがままに貴女を娶るおつもりのようでした。王侯貴族の常ではありますが、少しは好かれる努力をするべきと愚考しましたので、僭越ながら煽りました」
結婚相手が自分の意思に沿う人となるかは怪しいと、トワも伯爵令嬢として覚悟はしていた。
でも。それよりも今、心を打ちのめしたのは……
「煽った、の……」
掠れ声が漏れたと同時に、トワの目から涙が一粒こぼれた。
レクスは、軽く目を見張って一旦口をつぐんだ。窺うように、名を紡ぐ。
応えられず、トワは桐箱を掴むと部屋を出た。
残されたレクスは呆気に取られた様子で見送っていたが、やおら、精霊が傍らに半透明の姿を現す。四十路辺りの男性らしき風体だ。
〈主は女装をやめたら、振る舞いがすっかり歳相応になったな〉
「……そうかな」
ぽつりと応じた少年の額にかかる前髪を、風がはじいた。
〈この場合、速やかに追ってひとまず謝罪すべきと我は思う。例え主が、偽りは口にしなかったとしてもだ〉
微かに頬を紅潮させ、唇を引き結ぶとレクスは立ち上がる。珍しく乱暴に扉を開け、上着の裾を翻して駆け出した。
「トワ――」
遠く後ろから呼び声が聞こえた途端、猛烈な羞恥が湧き起こってトワは足を速めた。
どんな顔をすればいいのか。
レクスのした事に傷ついているけれど、トワに責める権利は決して無い。
彼がセカン殿下に対抗なんてしてくれるわけないのだ。トワが勝手に夢を見て、勝手に悲しくなっただけ。
争い事は嫌だと思ったばかりだったのに。自分を巡って争ってほしいと思うなんて、醜い女の浅はかさが恥ずかしい。
待って、と聞こえ、トワは焦って長い筒衣の裾を持ち上げ走り出す。
筒衣じゃなくなったレクスの足には敵いそうにないから、トワは闇雲に廊下の角を曲がった。すぐ先で一室に入ろうとしていた父に出くわす。書斎か。
「おっ父様っ、お会いしたかったっ」
おどけたように片眉を上げたダドの背を押し、トワは一緒に部屋へ滑り込む。巻物の棚が並んだ奥に長椅子が見え、そこへぐいぐい連れて行く。
「なんだなんだ、珍しいな、おねだりか。手持ちでは服の代金が足りなかったのか? いいよ、美人に磨きがかかるように、たまにはわたしが出してあげよう」
「これ以上は身に余ります。そんなことより、わたし当分結婚しませんからっ」
「あぁ、レクス殿の背、まだお前に並ぶくらいだものなぁ」
「んなっ、なななんで、そんな大昔の話を御存知なの」
うろたえて舌を噛みそうになりつつ、トワは父を見る。ダドはややきょとんとしてから、目を細めた。
「小さなトワが訊いてきたんだよ。〝男の子って大きくなったら背が高くなるわよね。レクもお父様みたいになるわよね〟と」
頭を抱えたい心地で、トワは熱くなった顔をうつむかせる。父が言を継いだ。「どうしてそんなことを訊くのか尋ねたら、〝わたし、わたしより背の高い人と結婚するって言ってしまったの〟と、いたくしょんぼりと教えてくれた」
「……レクはあの時、自分以上に可愛い子がいいと言ってたわ」
「ははは、そうなのか」
どう考えても、わたしじゃ無理よね。
口にしたところで、一人娘を大事にしてくれている父が、本当のトコロを言ってくれるとは思えない。トワは手にしていた小箱を向けた。
「いきなり引っ張り込んですみませんでした。これ、お父様にあげます」
「おねだりどころか贈り物かい? ありがとう」
ダドは受け取ったが、縛り付けられている紐をすかさず示す。「トワ、親への親愛を示す時は赤だからね」
「う――はい……すみません」
ふふふ、と父は含み笑うと、まぁ引き受けよう、と空いた片手で退室を促す。トワが首元に抱きついて謝意を示すと、ダドは今度こそ心から嬉しそうに相好を崩した。
避け続けるとしても夕食辺りまでしか叶わないだろうが、トワはこそこそと廊下の端から端を伝い歩いて自室の近くまで戻ってきた。
が、それも無駄な事だったと知る。
部屋の扉前に、しっかりレクスが待ち構えていた。既に気づいているようで、こちらをじっとりと見ている。
伊達に長いこと幼馴染みはしていない。喧嘩した際の譲りどころは判っている。ここで踵を返しでもしたら、こじれるのは明白だった。
トワは重い足を前に進め、逃げて悪かったわよ、と口をすぼめた。
レクスは、小さく息をついた。
「待ってくれれば、私が謝るだけだったのに」
こちらの心が傷ついたことは解ってくれたと悟り、トワは同じ高さにある顔を上目づかいに見る。
綺麗な顔は、気まずそうにしていた。何か摘まんだ片手を差し出してくる。
「こんなに早く、こんな形で使うのは不本意ですが」
切り取られた紙片には、トワの筆跡で〝肩叩き券〟と書いてあった。「思い切りお願いします」
「……改めて見ると間抜けな品物ね。レクが笑ったのもよく解るわ」
「こうなって、いい贈り物だったと実感しましたけど」
「む、やっぱり間抜けだと思ってたのね!」
安堵と憤慨混じりに、トワは拳を作る。「遠慮無く叩かせてもらうわ。精霊に反撃させないでよ?」
「ほんの少し前に、北東へ出かけてもらいました」
「じゃあ、帰って来るまで存分に叩いてあげる」
「風は速いので、お早めに」
いつもどおりのやり取りになって、二人は連れ立って部屋に入る。
〈道の一部を塞いだ雪崩の痕を片づけていたらば、人の死体が複数見つかったようだ〉
そんな予想外の情報を、風の精霊が持ち帰って来たのは夕食寸前だった。