トワとレクス
長い筒衣の裾が朝露に湿るのも構わず、トワは広い庭の一隅に向かい早足に歩いていた。
そろそろ食事の支度が整う頃合いに、旅の道連れが自室に居ないと使用人から聞いたから。朝食後にはこの生家を旅立つので、あまり遅れるわけにはいかない。
トワは、グレイス伯爵家の一人娘である。
サージソート王国に於いて相続は男女問わず長子に定められており、トワは父から伯爵家を継ぐことが半ば決まっている。
幼少の折からその手合いの教育を受けてきて、この度、昨年に買い上げた領地の一部を試験的に任されることになった。
今秋ようやく成人を迎える小娘だから、宛てがわれたのはごくごく狭く使途も判然としない地だ。王家が切り売りした元直轄領の一部。町と呼ぶべきか村と呼ぶべきか悩ましい人口密集地が一箇所だけ在る。
といっても、そこで生活している人々が居る。とてもではないが素人が一人出向いて統治していい筈がない。
当然ながら、トワには同行者がつけられた。
次の執事頭の最有力候補である三十代の執事、二十代の家庭教師、五十路間近の乳母、そして居候の幼馴染み。トワは、何故に彼まで同行することになったのか解らずにいる。前三名は殆どお目付け役で、ひょっとすると彼もそうなのかもしれない。そうとすると一面、不愉快だ。
一面なのは、複雑な乙女心ゆえ。
行く手に可憐な姿が見え、トワは呼び声をあげた。
「レク!」
華奢な姿が、短い木刀を振っていた腕を下ろし、顔を向けた。トワは速度を緩めず歩み寄る。
少女にしか見えない幼馴染みの少年は、木刀を足元に置くと、一つに括っている肩過ぎの淡金髪を、たおやかな手つきで纏め直す。女物の、裾のふんわりした白い筒衣姿が、うつむきがちの鈴蘭のようで異様にサマになっていた。トワの、宵のように暗い黒髪黒眼とは実に対照的。
微かな苛立ちを抱えながら、トワは幼馴染みをねめつけた。
「もう朝食の時間なのだけど、貴男はライジカーサへ行かないのでしたっけ?」
「そういえば、今朝は少し早いんでしたね」
レクスは、トワの嫌味をさらりと流す返答をしてきた。声だけは、最近になって多少低くなったと思う。
しかしながら、造作は出会った頃から大して変わらない。変わらないどころか、このところは化粧まで覚えて、美少女ぶりに磨きがかかっている気がする。
トワが同い年のレクスに初めて会ったのは、七歳の時だった。
大人達の会話から知れたのは、貴族らしき彼が、何かから逃れて来たらしいという程度。当時は戦争が終わる一年前で、やんごとない身分の人々が安全な地を求めて転々とするというのはよく聞く話だった。故に、その子も同じ手合いだろうとトワは思った。
二人がまみえたのは、戦火の遠い王国西部の伯爵領。令嬢の私室だった。
最初、トワはレクスのことを〝お客の召使〟と勘違いした。短い髪、細長い袴。一見して男の子だと判る風体だったから。
この国では、男女とも十歳くらいまでは女の子の恰好をする。
死病の闇に攫われないようにと、貴族などは成人まで続けることもある。逆に、平民は七、八歳で切り上げてしまう。
だから、この子が仕えている筒衣姿の貴人は何処かと、トワの目はレクスをほぼ通り越した廊下の方へと向いた。けれど、扉がさっさと閉められ、彼を案内してきた乳母がにこやかに伯爵令嬢の紹介をし始めて、ちょっと驚いてしまった。
『モユ、貴族の子を預かるのでは、なかったの』
紹介を遮られた乳母は、小言を出す時の目つきでトワを見た。
『嬢やと同じく御身分ある方でございますよ』
育ての親の目にたじろいだトワが口を結ぶと、近くまで来ていた少年は、僕はそう大した者じゃないです、と添えてきた。
使用人も連れず、一人で見知らぬ土地へ来ることになったという子と、トワは仲良くするつもりだった。だったのだけれど、その澄ました感じにムッとしてしまった。
『村の子みたいな恰好だから間違えたのよ』
嬢や、とモユはたしなめてから、自分の服装を確かめているレクスに、この国の子供の装いについて説明した。それでトワは、彼が異国から来たのだと気づいた。
改めてよく見てみれば、レクスは思いのほか綺麗な子だった。この国ではあまり見かけない白金の髪。春空のような淡い色の大きな目。控えめな桃色の唇。外で遊ぶことなどあるのか疑わしい青白い肌。
モユの話を行儀良く黙って聞いた後、レクスは少しだけ目線を横手にやった。さほどせずに頷き、こちらの風習に従います、と告げた。
モユからことづかった伯爵家の女性使用人達は、喜んでレクスを飾り立てた。戦は遠く南や東の出来事だったものの、それなりに色々と慎む時世。ささやかなり心華やぐ仕事は大歓迎だったのだろう。トワの身繕いを世話する時より力が入っていた気もする。
そうして少年は、異性が自信を失くしかねない姿に変身し、その日から、女の子のふりをして暮らすようになったのだ。
「女性の支度は時間がかかるのに、うっかりしていました」
身体を動かしていた割に息の乱れも窺わせず、レクスは屋敷の方へと歩き出す。
肩を並べたトワは、憮然とした気分のままに問うた。
「ライジカーサでも闇避けを続けるつもりなの?」
「成人直前で闇に攫われたくはないです」
生真面目そうにレクスは応じてから、つとこちらを流し見て口端を緩めた。「何故かな、ゆうべ引退した精霊にも同じことを訊かれました」
精霊という単語に、トワは眉を寄せる。
レクスはたった一人でこの国に来たようだったが、厳密に言えば違った。
風の精霊が傍に居るのだ。
レクスが精製したのではない。彼はトワ同様に術力皆無だ。ただ、彼の祖父が、かなり優れた術者らしい。四ヵ月も消えない精霊を定期的に守護者として送ってくる。
人をかたどってたまに半透明の姿を見せる守護精霊を、トワも何度か見ていた。
それは幾度目の事だったか――レクスが伯爵家に来てから、二年は経過していた日だったと思う。
守護を交代したばかりだったらしい新参の精霊が、トワを興味深げに眺めながら、余計な問をレクスに投げかけてくれた。
《こちらの子は、主の許婚かな》
レクスは無駄に淑女らしくなっていた。が、正真正銘女の子のトワとしては、矜持を守る為にも、あんな恰好ながら彼は男の子だと強く認識していた。
だからこそ、精霊の発言に、トワは咄嗟に反応できなかった。
ところがレクスは、例によって澄ました顔で、はっきり言ってのけた。
『違います』
否定するなら、せめてムキにでもなれば可愛げがあったのに。レクスに備わっているのは見た目の可愛さだけだった。
精霊の言葉にうっかり心をそわそわさせてしまったトワは一気に不機嫌になり、自棄っぱちに、適当なことを口走ってしまった。
『そうよね、第一、わたしと結婚してくれる人は、わたしより背が高くなくっちゃ』
トワより頭一つ分ほど背の低かったレクスは、そこで黙り込めばまだ可愛げが取り戻せた。
しかし、その後も何度も実感することになるのだが、レクスの可愛さは見た目だけだった。
ころころとした笑声をこぼしてから、彼はこう切り返してきたのだ。
『そうね、私のお相手は、私より可愛い子がいいかな』
都合の悪いことはすぐ忘れるという特技を持つトワでさえ、未だに頭にこびりついている苦い記憶。
あれから、レクスの背丈はトワに追い着いてはきた。だが、少々負けず嫌いのトワの身体は追い着かれるだけなのを良しとせず、只今、女性の平均身長以上に成長中である。
そもそもそれよりも。どう見てもレクスがトワより美人のままという点の方が、由々しき問題だった。
けれども、連れ立って屋敷に入りながらトワが思うのは、旅の荷物の隙間に、レクスの為の化粧品を多めに入れてあげようかというようなことだった。