五月一日 二人の時間と寮の中(2)
「ふう、お腹いっぱい」
秋奈が大きく息をついた。
「要、寮の食事はどうだった?」
沙織が隣に座る要に訊いた。
「おいしかったよ。量や種類も多かったし、やっぱり専門の人が作ると違うね」
夕食を済ませた三人は部屋に戻り、くつろいでいた。秋奈と沙織がそれぞれ自分のベッドに腰掛け、沙織の右隣に要が座っている。
「要さえよかったら、いつでも食べに来てね」
「うん。また来てみたい」
「おっと、沙織。誘い方が上手じゃない。それってまた部屋に来てねってことでしょ?」
秋奈が話に入って来た。
「まあ、それもあるけどね」
「それとも今度はお泊まりまでいっちゃう?」
「へぇっ? それは……要がよければ」
沙織は要を横目で見た。
それを受けて要は部屋の中に視線を泳がせる。
ベッドは二つ。床はフローリング。これらの要素から浮かんだ疑問を口にする。
「──もしそうなったら、私はどこで眠ればいいのかな?」
「心配しないで要さん。もちろん沙織と同じベッドを使っていいよ」
「ちょ、ちょっと秋奈、勝手に決めないでよ」
「あれ? 沙織、要さんと一緒に寝るのが嫌なの?」
「別に嫌ってわけじゃないけど……」
語尾を濁すように言って沙織は俯いた。
「よし、これで沙織は決まりね。あとは要さん次第だけど、ゆっくり考えていいからね」
「うん……」
こうなると、沙織のことを気にせざるを得ない。要も嫌ではないのだが、一緒の布団で眠るということは、やはり考えてしまう。
要と沙織が視線を斜め下に落としている。それを秋奈が見つめる。
その状態で時が止まったかのように誰も動かない。
静寂を打ち破ったのは要だった。
「──私も、構わないよ」
その言葉に反応した沙織が顔を上げる。
「構わないって、その」
「うん。一緒に──」
「──寝るのが?」
要は頷いて肯定の意思を伝えた。
「うわ、うわ、私凄い現場に遭遇しちゃった」
秋奈は目を輝かせ、興奮を抑えるように口に手を当てた。
そんな秋奈には目もくれず、沙織が身を乗り出す。
「じゃあさ、わたしが要の部屋に泊まりに行ってもいい?」
その瞬間、要の脳内を様々な思考が駆け巡る。
要と沙織、どちらが訪れる側になるかの違いはあるが、結果を見れば同じことである。要の部屋にも余分な布団はない。寮の部屋でも要の部屋でも、添い寝という結末が待っている。
それならば沙織と二人きりの方がいいのか? 秋奈もその場にいる方がいいのか? 断る? 受け入れる?
考えている間、要と沙織は無言で向き合ったままだった。
沙織はじっと要を見続けている。間近に迫ったその顔が微かに赤く染まる。ここまで真剣に願われては、返せる答えは一つしかない。
「──いいよ」
「ほんとに? それなら、いつならいい?」
沙織の表情がぱっと明るくなった。
「えっと、まあ、いつでも」
「そうなの? じゃあ、いつにしようかなあ……」
沙織は浮かれた様子で考え始めた。
「やれやれ、またお腹いっぱいになったよ」
秋奈が溜息をついた。
「お泊まりの予定は後でゆっくり話し合ってね」
要は秋奈に顔を向ける。
「ごめんね、秋奈さんを置いてけぼりにしちゃって」
「いやいや、いいんだよ。二人が仲良くしてればそれで」
秋奈は未だ夢から覚めない沙織に目をやる。
「沙織はこんな子だけどさ、よかったら一緒にいてあげてね」
要には、その目が慈しみに満ちているように感じた。今まで見てきた秋奈の表情は明るいものばかりだっただけに、それがとても斬新に映った。
「──うん。私も沙織と一緒にいると楽しいから」
「そりゃよかった。私が言うのもなんだけど、よろしくね」
そう言った秋奈の微笑みは今までにない優しさで満ちていた。
「ん、帰るのかい?」
「はい。お世話になりました」
寮の入口、要は窓口に座る寮監に声をかけた。
夕食後の休憩と雑談を終えて要が帰る時間になったのだ。
「よかったらまた来てな」
「あの、食事代は……」
「ああ、それなら大丈夫さ。学費の引き落とし指定口座があるでしょ? そこから自動振替されることになってるから。月末くらいにその証明書が届くと思うから確認してくれるかい」
「わかりました。ありがとうございます」
「はいよ。それじゃあな」
寮監は陽気に告げて手を振った。
寮の外は暗い夜空に包まれていた。沙織と秋奈が見送りのため一緒に外に出ている。
「門まででいいよ」
要の言葉に従い、三人は門までの短い道のりを歩く。決して急がず、ゆっくりとした足取りで。
それでも確実に目的地は迫る。あと数十分で門は施錠されてしまう。そんな時間になるまで寮に居続けたのだ。時間は一定の速度で流れるというのは果たして本当なのか。
「部屋まで送ってくのに……」
沙織が名残惜しそうに言った。
「ありがとう。その気持ちだけで嬉しいよ」
要はそう答えるしかない。もし沙織の言葉通りにすれば、今度は要が同じことを言ってしまうからである。
「ほらほら暗くならないで。またすぐ会えるじゃない。連休なんてあっと言う間に終わっちゃうよ」
秋奈が努めて明るく言った。
「うん……それじゃあ、またね、要」
「またね。今日はありがとう」
沙織が手を振り、要も同じように振り返す。
そのまま要は歩き続ける。それはまるで役割を交換して初日の別れを再現しているかのようだった。
夜の闇が、あの時よりも早く沙織の姿を隠す。
要は前に向き直り、家路についた。
*
「沙織、要さんもう見えなくなったよ?」
秋奈の言葉を聞いて、ようやく沙織は手を下ろし、寮に向かって歩き出した。
沙織の少し後ろに秋奈が続いて歩いているが、二人の間に会話はない。互いに無言のまま寮に入り、エレベーターに乗って部屋に戻った。
部屋に入ると沙織は眼鏡を机に置き、ベッドにうつ伏せで倒れ込む。
「はあ……楽しかった」
目を細めて顔を横に向け、要が座っていた場所を見つめた。その口角が自然と上がる。
そんな姿を見て、秋奈も表情を緩める。
「なんだ、元気じゃない。落ち込んでるかと思っちゃった」
「ん? どうして落ち込むの? 要が来てくれてたのに」
ベッドの端を見続ける沙織の笑顔は崩れない。
「まあ、それもそっか。次の予約もできたしね」
「へへ、いつにしよっかなー」
「そうだね……連休明けの土日なんてどう?」
「どうして? まあ早い方がいいけど、それなら連休中でも……」
「土日が明けたら月曜でしょ? その五月十日はなんの日?」
「んー……あっ!」
沙織は上半身を起こす。
「わたしの誕生日だ!」
「やれやれ、忘れてたとはね」
秋奈も呆れ顔だった。
「ちょっと気取った感じになるけど、自分に誕生日プレゼントってことでどう?」
沙織は「うーん」と唸りながら俯いている。
「──考えてみる」
そう言うと再びベッドに寝転がってしまった。
秋奈は立ち上がり、クローゼットからタオルや着替えを取り出す。
「ちょっとお風呂入ってくるね。今日は一階の方に行って来るから」
「行ってらっしゃーい」
沙織は手だけ上げて送り出した。
──一人になると色々な光景が浮かぶ。
その全てに要の姿がある。思えば入学式から今日まで、ほとんど要と一緒に行動していた。
授業や食事などの時には、座席が前後という状況が味方した。同じ委員会ということもあり、放課後も離れることはなかった。それらの延長で、下校をするのも同じ時間だった。
だが、一緒に登校したことはなかった。
学園の敷地内で教室に行くまでに出会うことはあったが、学園の外から並んで歩いたことはない。寮が学園の近くにあり、さらに駅の反対側という状況が仇となった。
もし日曜に要の部屋に泊まるとする。そうすれば月曜の朝、要と一緒に登校できるだろう。
そして一日中要と行動を共にできる。誰かと長時間一緒にいるということは、秋奈を除けば他になかった。
緩んだ頬を隠すように枕に顔をうずめ、沙織は未来を想像するのだった。
*
秋奈は浴場の湯船に浸かっていた。時間が遅いこともあってか人はまばらである。
要が部屋に来て、沙織はとても楽しそうにしていた。そんな二人を見て秋奈は楽しんでいた部分もあったのだが、寂しさも少なからず感じていた。そんな時には決まって衿香の姿が浮かぶ。
もし沙織が先ほどの言葉通りに要の部屋に泊まるとする。そうすれば秋奈一人だけの時間が確実に訪れる。言い換えれば完全に自由な時間である。
思えば沙織がルームメイトになって以来、そんな時間とは縁遠くなっていた。久し振りに来るかもしれない自分だけの時間。何をしようか。
──衿香と、また話せるだろうか。自分から行動できるだろうか。
秋奈は立ち上がり、湯船から出た。椅子と洗面器を手に取ってシャワーの前に座る。少しぬるめに調節した湯を頭から浴びると、思考までもが引き締まる感じがした。同時に湧き上がりそうになった自己嫌悪も消えていく。
考え過ぎるとどうしても負の思考が付きまとう。不幸な幸せという矛盾を抱えたまま、秋奈は体を洗い始めた。
*
要は布団の中で今日の出来事を思い返していた。
沙織とは朝からずっと一緒に行動していた。互いの部屋に行き、隔てる物の違いはあったが、間近で着替え合った。寮を案内された時も、夕食の時も、食後の部屋でも沙織は隣にいた。帰る時も見えなくなるまで手を振り続けてくれた。
そして、一つの言葉がずっと頭から離れない。
──要の部屋に泊まりに行ってもいい?
その申し出には了承したが、その日をいつにするかは決めなかった。いつ来るかわからないことに対する漠然とした思いが胸中で渦巻く。
もし沙織が泊まりに来る日をいつにするか決めていたとする。そうすれば沙織を意識せざるを得なくなってしまう。夜が明けるたびに近づくその日が、要に重くのしかかるかもしれない。
その日がいつになるか、わかっていてもいなくても同じこと。泊まりに来ると決まった時点で、選べる道、そして結論は一つしかないのである。
だが要は辛さや苦しみばかりを感じていたわけではない。むしろ嬉しさや期待の方が大きかった。
待ち遠しい。それが一番正直な気持ちだった。
──長く考えていたせいで暗闇に目が慣れてしまった。電気が消され、外からの光も閉ざされた部屋の内装が、はっきりと要には見えていた。
要は目を閉じて静かな呼吸を意識する。こちらも長い時間のせいで暖かくなっていた布団に包まれて、要は眠りに落ちていった。