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四月七日 お茶会とそれぞれの事情(2)

「すみませんが、薙坂さんはもう少し残っていただけませんか?」


 茶会が終わり、後片付けを済ませた頃、悠希が言った。


「構いませんけど……何かありましたか?」


 秋奈は内心で不安に思いながら答えた。


「いえ、委員会の仕事の日程で少し調整があるのです。同じ組の彩にも残ってもらうつもりです」

「そういうことならわかりました」


 秋奈は要と沙織の方を向く。


「そんなわけだからさ。二人は先に帰っていいよ」

「いいの? まあ、呼び出しならしょうがないかな。要、帰ろうか」

「うん。それじゃ秋奈さん、またね」


 要と沙織は秋奈に手を振りながら図書館から出て行った。

 二人を見送ってから、秋奈は小部屋に戻る。席に着くと、彩と悠希の視線を感じた。委員会の話をするには、空気が張り詰め過ぎている気がした。


「……それで、話というのは一体なんでしょうか?」


 秋奈は努めて明るく言った。


「最初に言っておくけど、別にあたしたちは敵対したり批難したりする気はないからね」


 彩が言った。その声には、先ほどまでの談笑には感じられなかった響きがあった。


「そうです。ただいくつか質問に答えていただきたいだけなのです」


 悠希も雰囲気を変え、真剣な眼差しを秋奈に向けている。


「えっと、活動についての調整の話では?」


 呼び出されたのはそのためだったはずである。秋奈の声も緊張から低くなった。


「それは薙坂さんを呼び止めるための口実です。申し訳ありませんでした」


 悠希が一言で否定した。

 彩がおもむろに口を開く。


「──率直に言うけどさ、あたしたちのこと、見てたよね?」

「……え?」


 呆気に取られる秋奈をそのままに、悠希が言葉を引き継ぐ。


「先週、初めて委員会の会合が行われた日のことです。図書館で私たちを待ち、学食で離れた席から観察し、寮の部屋に帰るまで見ていましたね」

「……」


 秋奈は何も言えなかった。

 全て見透かされていた。ただの偶然だと言い逃れすることもできそうではあるが、それでは深みに嵌まるだけだろう。


「もしかして、入学式の日も見ていたのではありませんか?」


 悠希の追い打ちが突き刺さった。

 完敗だった。無理にごまかしても墓穴を掘るだけだろう。正直に話すべきだ。


「……すみません。見てました」


 秋奈は小声で言って俯いた。


「やっぱりね。さすが悠希。正確だったね」


 彩が悠希を見る。その表情は微笑んでいた。


「そうね。これではっきりしたわ」


 悠希は秋奈に向き直る。


「薙坂さん。お気になさらないでください。ただ本当に訊きたかっただけですから」


 その声は穏やかなものへと戻っていた。


「もう一つ訊いていい? あたしたちを見てたのはどうして?」


 彩がさらに質問した。


「それは……」


 秋奈は言葉を濁した。本当の理由を言うべきか迷っていた。


「言い辛ければ無理強いはしません。一番の疑問は解決できましたから」


 悠希の言葉を受けて、秋奈は考える。

 ここで黙っていれば、この場は問題なく収まるかもしれない。その場合、話を深く進めることはできないだろう。だが、もし本当の理由を言えば、さらに後に続けることもできるのではないか。求めていたこの二人の証拠を得られるかもしれない。

 リスクはあるが、多少はやむを得ないだろう。秋奈は決意を固めた。


「それは、さっきも言ったように知るためです」

「知るためって言ってもさ、あたしたちを見て何がわかるの?」


 彩が首を傾げた。


「あ、もしかして、あたしと悠希のイチャイチャっぷりに見入っちゃった?」


 おどけた様に言って、彩は悠希に体を寄せた。

 悠希は彩の相手をしながらも、秋奈に目を向けている。

 既に覚悟はしたのだ。秋奈は核心まで話すことにした。


「──私が知りたいことは、女性同士の恋愛についてです」


 三人の間に沈黙が落ちた。秋奈はまるで時が止まったかのような錯覚に襲われた。

 秋奈は彩と悠希の顔に視線を交互に送る。彩は微笑を浮かべつつ何かを考えているようだ。悠希は変わらず落ち着いた表情をしている。

 それでも秋奈は動揺を顔に出さないように努めた。


「ふーん、そっかー。そうだったのかぁ」


 彩が軽く頷いた。


「でさ、あたしたちが付き合ってるってどうしてわかったの?」

「いや、はっきりとはわからなかったんだけど、見てればわかることもあるんじゃないかなって思ってさ」


 秋奈は苦笑しながら答えた。


「えっ? それじゃあさ、いちゃついてる二人を見つけたからとりあえず観察してみるかーって感じだったわけ?」

「まあ、そういうことになる、かな……」


 秋奈の視線は泳ぎ続けている。気まずさが止まらない。


「ナギさんってしっかりしてそうなのに、意外とノープランなところあるんだね」


 彩が楽しそうに笑った。

 その姿を見て悠希も微笑みつつ、秋奈に視線を向ける。


「ところで薙坂さん。女性同士の恋愛について知りたいとのことですが、それは気になっている方がいらっしゃるということでしょうか?」

「……はい、います」

「詳しく伺っても構いませんか?」

「もう、大丈夫です」


 もう可能な限り言ってしまおうと秋奈は思った。


「実は、私のことを好きだと言ってくれた女の子がいるんです。でも、その時には離れたこの学校に入学することが決まっていて……。ここは他の女子校よりも女性同士の恋愛が盛んだって話題になってるのは知っていました。だから、その子が決めた期限までに答えを見つけようと思って、ここに来たんです。こんな理由……バカですよね」


 秋奈は悲しげな嘲笑を浮かべた。それは自分自身への嫌悪感を含んでいた。


「そんなことはありませんよ。どんな理由であっても、自らの意思は尊重されるべきだと私は思います。──相手の方は今どうされているのですか?」

「彼女は今、待ってくれています」

「それならいいのですが、結局は薙坂さんの気持ち次第だと思いますよ。私は彩と一緒にいたいと心から願っているから、こうしているのです。気持ちが固まったら、どちらにしてもはっきりと言ってあげてくださいね。相手の方が勇気を出して告白してくださったのですから、今度は薙坂さんが勇気を出す番ですよ」

「そう、ですよね」


 秋奈は歯切れの悪い返事をした。


「考える時間はまだあるのですか?」

「まあ、それなりにあります」

「それならば、じっくりと考えて後悔のない結論を出してください。私たちでよろしければ協力いたしますよ」


 悠希は彩に目配せをした。


「これからは何かありましたら、気にせずに訊いてください。こそこそと見ることはありませんよ」

「あ、ありがとうございます」


 秋奈には悠希の協力的な姿勢が意外に思えた。それでも、向けられる好意を無駄にする気もなかった。


「相手の方はどんな方なのですか?」

「年下の幼馴染です」

「え? それじゃ、あたしたちと一緒じゃない!」


 今まで話に耳を傾けていた彩が口を開いた。

 その姿を見て悠希が頷く。


「そうです。私と彩も幼馴染で、ずっと一緒にいました。境遇も似ていることですし、協力しやすい部分もあるかもしれませんね」

「では、また色々と質問させてもらってもいいですか?」

「もちろんです。私たちで答えられることならば、どんなことでも構いませんよ」


 秋奈はようやく安堵した。最初は尋問されるような形だったが、結果的に悠希たちの協力を得ることができた。一人で悩み続ける苦しみから逃れられるかもしれない。


「それにしても、幼馴染でしたか……てっきりあのお二人のどちらかではないかと思っていました」


 悠希が思わせ振りな口調で言った。


「あの二人って……まさか要さんと沙織ですか?」

「そうです。皆さんとても仲が良さそうでしたので、もしかしたらと思いまして」

「あの二人とは普通の友達ですよ。あ、でも……」

「でも、なんでしょうか?」

「要さんと沙織の二人はもしかしたら……ってことです」


 秋奈はこの場にいない二人に思いを馳せた。




          *




 秋奈と別れた要と沙織は、歩きながら会話をしていた。


「要はこの後どうするの?」

「部屋に帰ろうかなって考えてるよ」

「そうなんだ」


 沙織は少し考えるように言葉を切った。


「どこにも寄らずに帰るの?」

「途中で買い物をしていくつもりだよ」

「それじゃあさ、わたしも付き合うよ。要の買い物に」


 心なしか嬉しそうに沙織は言った。


「沙織は時間大丈夫? 何か予定があったりとかしない?」

「ぜんっぜんなんにもないから大丈夫!」


 沙織は手と首を大きく横に振った。


「それなら、一緒に行こうか」

「うん!」


 二人は駅前のデパートに向かって歩き始めた。

 デパートに着いた二人は店内を見回す。


「何を買ってくの?」


 あちこちに視線を泳がせていた沙織が言った。


「えっと……夕食に必要な物かな。野菜とか、あとシリアルとか」


 買い物かごを取りながら要が答えた。


「シリアルって、コーンフレークのこと?」

「そうとも言うね。朝食は大体シリアルで済ませてるから」

「それじゃ牛乳も買わないとね」


 乳製品売り場に向かおうとする沙織を要は引き留める。


「待って。牛乳はいらないの」

「え、じゃあ何をかけて食べるの?」

「何も。そのまま食べてるから」


 要がそう言うと、沙織は驚きの表情を見せる。


「そのまま? ポリポリって?」

「効果音が気になるけど……そうだよ」

「へー、珍しいなー」


 沙織は頷きながら呟く。


「また要のこと一つ知っちゃった」

「何? よく聞こえなかったんだけど」

「い、いや、なんでもないよ! それよりさ、もしかして牛乳苦手なの?」


 露骨な話題の切り替えが不自然に感じられたが、要は質問に答える。


「うん、そうなんだ。受け付けない体質なのかも」

「それならさ、給食で苦労しなかった?」

「したした。飲まないんじゃなくて飲めないんだってわかってほしかった」


 そんな会話をしつつ商品を取り、会計を済ませて外に出た。


「買い物は終わったけど、もうこのまま帰っちゃうの?」


 沙織が小首を傾げて聞いた。その顔が少し不安を抱えているように要には見えた。


「そうだね。もう寄る所もないし」

「そっか……」


 沙織は視線を下に向けて言葉を切った。

 その何かを言おうとしてためらっている様子を見て、要は助け船を出そうと考えた。


「どうしたの、沙織?」

「えっとね、ほら、あのー、ね」


 はっきりしない言葉だったが、要は辛抱強く待つことにした。

 沙織の言葉を待っていると、自然とその姿に目が行ってしまう。要より身長が高いのだが、今は沙織の方が小さく見えるようだった。沙織がそこまで悩みながらも言おうとしていることは何か。要はさらに気になって見つめてしまう。

 近くを車が数回通り過ぎた頃、沙織が勢いよく顔を上げる。


「あのね、わたし、要の部屋、見てみたいなーって」


 その顔は、うっすらと赤くなっていた。それを見て、思わず要も恥ずかしくなってしまった。

 だが、沙織の言葉に答えなければという思いもあった。


「うん、いいよ」


 要がそう言うと、沙織の顔から不安の色が消え、喜びで満ちていった。再び視線を下に泳がせ始めたが、そこには負の感情はなく、喜びを噛みしめているようだった。


「でも、そんな大した部屋じゃないよ?」


 要が付け加えて言うと、沙織は熱を込めた目を向けて来る。


「大丈夫、そんなの気にしないから! さあ、行こう!」

「う、うん」


 要は先に歩き出した沙織を追いかける。その歩幅は大きく、要は小走りしなければならなかった。


「ちょっと待って! 沙織が先に行っても道わからないんじゃないの?」

「大丈夫だよ。東棟の屋上で大体の道順は確認したから」


 あの時沙織が熱心に景色を眺めていた理由を、ようやく要は理解した。







 要の部屋で、要と沙織は隣り合って座っていた。

 和室の床に座布団を敷き、そこに座っている。

 目前の机には麦茶が入ったコップが二つ。買い置きしていたペットボトルの麦茶を注いである。手つかずのコップの表面には水滴が付き始めている。


 形容しがたいざわめきが、要の心を支配しつつあった。

 隣に座る沙織を横目で見る。沙織も落ち着かないのか、視線をあちこちに動かしている。

 最初、要はそう思っていたが、よく見ると目だけでなく首も一緒に動かしている。まるで部屋の中を観察しているようだった。


 無理もないか、と要は思った。

 この部屋は一般的な「女の子の部屋」というものと比べると、あまりにも殺風景過ぎた。

 部屋にある主な物といえば、小さな箪笥が二つ、目覚まし時計、小型のテレビ、ノートパソコン、机、コップくらいである。他の細かな物は二人の後ろにある押入れに入っている。そこに入りきらない物は隣の洋室に置いてある。

 要はこの和室を生活用の部屋とし、洋室を物置として使っている。


「──ごめんね、こんな部屋で」


 要が申し訳なさそうに言った。


「どうして謝るの?」

「だって、何もない部屋だし、大したおもてなしもできてないし……」


 さらに落ち込んだ要を見て、沙織は大袈裟に手と首を振る。


「ううん、そんなことないよ。こうやって要の部屋に入れてもらっただけで、わたしは満足してるもん」

「……そういうものなの?」

「そういうものなの! ね、だから気にしないで?」


 沙織の笑顔が、要の気力を呼び戻した。


「うん、わかった」

「あ、そうだ」


 沙織は机のコップに目を向ける。


「麦茶、飲んでもいい?」

「どうぞ」


 そう言って要もコップに手を伸ばす。沙織が麦茶を飲み、続けて要も飲み干した。

 コップを置いて沙織を見ると、視線がぶつかった。しばらく見つめ合っていると、どちらからともなく微笑みがこぼれた。


「ごめん、わたし要の部屋に来られたってことで、なんだか緊張しちゃってたかも」

「私も少し緊張しちゃってた。沙織はもう平気?」

「うん、完璧オッケー」


 それから二人は雑談に花を咲かせ、時が過ぎた。




          *




 秋奈は寮の自室に戻っていた。図書館では一時はどうなるかと思ったが、結果を見れば決して悪いものではなかった。最後は円満に話が終わり、悠希と彩は笑顔で見送ってくれた。

 そして、二人が恋人同士であるという確証も得られた。

 その会話の中で、秋奈に愛を告白した少女がいると話した。名前こそ出さなかったが、秋奈は彼女のことで頭がいっぱいになっていた。


 笛吹衿香うすいえりか。二歳下の幼馴染で、気付けば秋奈の隣にはいつも衿香がいた。どこへ行ってもついて来る衿香。慕われている嬉しさはとても大きかった。

 進学に伴う引っ越しの直前に告白された時も、嬉しさは確かにあった。それでも戸惑いが秋奈をためらわせた。そんな秋奈を気遣ってか、返事は急がなくていいと衿香は言ってくれた。その期間も数週間や数か月ではない。衿香が中学を卒業するまでの約二年間である。衿香は秋奈と同じ高校に入学できたら返事が欲しいと言ったのだ。

 それに甘えてしまった秋奈は、自分勝手なことをしたと悩んでいた。


 そして、今もまた自分勝手な行動をしようとしている。衿香の声が聴きたい。自分から離れておきながら、欲望のために再接近を考えている。

 手に持った携帯電話を見つめる。液晶画面には衿香の電話番号が表示されている。通話ボタンを押せば繋がる。


 ──それなのに踏み出せない。

 今の時間なら衿香も学校が終わっているだろう。電話をすれば、留守電になる可能性も否定できないが、少なくとも嫌がられることはないだろう。長い間を過ごしたからわかる衿香の優しさ。それに甘えようとしている自分への嫌悪感が増えていく。


 それでも欲求は抑えられなかった。秋奈は通話ボタンを押し、携帯電話を耳にあてる。手首や胸に触れなくても、その鼓動が感じられるようだった。

 呼び出し音が耳の中で反響する。秋奈は衿香と何を話すか考える。手紙の返事はメールで出したが、声で直接伝えてはいないから、まずはそこから話そうか。それをきっかけにして世間話を始めて──。


「もしもし、秋奈ちゃん?」


 その声を聴くと、考えていたことが全て吹き飛んだ。


「……うん。今、電話大丈夫?」


 声が不自然に震えたりしていないか不安だった。


「もちろん! いいよ!」


 聴きたくて堪らなかった衿香の声は嬉しそうだった。


「いきなりごめんね。なんか、声、聴きたくなってさ」


 空白と化した思考に残されていたのは本音だけだった。


「えっ? あたしの声を?」

「まあ、ね」

「ふふ、こんな声ならいつでも、いくらでもどうぞ」

「……ありがと」

「ん? 秋奈ちゃん、なんだか元気ない?」

「そんなことないよ。衿香の声聴いて元気出たし」


 調子の良い言い方でしか本音が言えない。


「あ、いつもの秋奈ちゃんに戻った」

「戻るも何も、私はいつもこんなだってば」

「そう? ……あたしも秋奈ちゃんの声聴けて嬉しいよ」


 不意打ちだった。秋奈は残っていた本音も霧散したのを感じた。


「……」

「秋奈ちゃん、ホントに大丈夫?」

「う、うん。大丈夫だよ」

「ならいいんだけど。ねえ秋奈ちゃん、学園の生活ってどう?」

「ん? そうだねえ……私なりに楽しめてるかな。ルームメイトともいい感じだし」

「ルームメイトって、前に話してた沙織さんって人?」

「そうそう。最近やっと沙織が明るくなってきてね……」


 それから秋奈は沙織のこと、要のこと、図書委員会のことなどを衿香に話した。

 話の内容よりも、誰と話しているかが重要だった。自分の発言に反応を返してくれるのが嬉しかった。思い切って電話をして良かったと感じた。

 それなのに幸せを感じるたびに苦しくなっていく。耐えがたいほどに辛かった。


「今日は電話、ありがとね」

「あ、待って衿香。その……」

「なあに?」

「手紙、ありがとう。とても嬉しかったよ」

「どういたしまして。それじゃ、また手紙書いちゃおうかな?」

「うん、待ってる」

「そうしたら、また電話してくれる?」

「……手紙が来なくても電話したい」

「秋奈ちゃんの電話なら、いつでも大歓迎だよ」

「うん、ありがと。……それじゃ、また」

「あ、うん。またね」

「きっと、また電話するから」

「うん」


 衿香の返事を最後に、無言の時間が訪れる。名残惜しさはあったが、自分でけじめをつけなければならない。

 秋奈は耳に携帯電話をあてたまま、指を滑り込ませて通話終了ボタンを押した。


 思い返せば、衿香は以前と変わらない態度で話してくれた。告白についての話はせず、待ち続けてくれた。そんな衿香の心遣いが嬉しく、そして苦しかった。

 椅子に深く座り直し、背もたれに寄りかかる。考えてしまうのは衿香のこと。衿香から離れて一か月も経っていないというのに、複雑な感情を抑えられない。

 脳内で思考が渦巻いている秋奈を、外から届くチャイムの音色が包んでいた。




          *




 要と沙織が雑談を続けていると、五時を告げるチャイムが聞こえてきた。市役所から毎日放送されているのである。


「あれ、もうこんな時間なの?」


 聞き慣れた音が流れる中、沙織は名残惜しそうな顔をした。


「沙織、もしかして寮生活だと門限が厳しかったりする?」


 要が心配するように聞いた。


「ううん、そんなに厳しくないよ。一応門限は夜だし、七時からの夕食に間に合えばいいから。そういうの意外と緩くてさ、寮に誰かを入れたり外泊したりするのも、その相手が学園生なら事前に届け出ればいいんだって」

「そうなんだ。どうする? もう少しゆっくりしてく?」


 要が尋ねると、沙織が難しい顔をして考え始める。


「むー……まだ要と話していたいけど、時間までに帰らないと後が面倒だし……うん。今日はここでお開きにしようか」

「うん、わかった」


 二人は玄関まで歩く。沙織が靴を履き、要もそれに続こうとする。


「あれ、要どこかに出かけるの?」

「ううん、沙織を見送ろうかなって」

「そんな、そこまでしてくれなくてもいいよ。なんか申し訳ないよ。元はと言えばわたしが来たいって言ったんだし」


 照れ隠しをするように、沙織は必死に手を振った。


「それじゃ、ここで」

「うん。また明日ね、要!」


 沙織が開いた扉の向こうで手を振っている。扉が徐々に閉まっていく。それでも沙織は手を振り続けていた。要も同じように手を振り続ける。

 扉が完全に閉まり、要は手を下ろす。玄関横にある台所の窓を見ると、歩いている沙織の影がカーテンに映っていた。

 要は扉に鍵を掛け、和室に戻った。机には二つのコップ。畳張りの床には二つの座布団。ついさっきまで沙織がこの部屋にいたという証があった。要は嬉しさと同時に、少しだけ寂しさを感じた。


 沙織が使ったコップ。沙織が座った座布団。要は片付けるのが惜しく思えた。この部屋に誰かを招いたのは初めてだった。このままにしていても、特に不都合なことはない。

 要は部屋をそのままにして隣の洋室に移動すると、制服を脱いで着替え始めた。それが終わると台所に向かい、夕食の準備を始める。

 明日また沙織に会えるとわかっていても、要はこの思いを消してしまいたくなかった。




          *




 扉が閉まったのを確認して、沙織は振り続けていた手を軽く握りながら下ろした。

 階段に向かう足取りは軽く、笑みがこぼれるのを止められない。友達の部屋に行くということが斬新だった。

 部屋は目に焼き付けるほど見たのに、要のことはあまり見られなかった。まじまじと見つめていたら、きっと変に思われてしまっただろう。明日また要に会った時には、いつも通りに振る舞えるだろうか。

 マンションを出て歩き始めても、沙織の思考は止まらなかった。


 ──沙織は寮に着き、扉の鍵を開けて部屋の中に入る。


「ただいまー」


 部屋の中には既に秋奈がいた。椅子に座って机に向かい、何か考えごとをしていたようだったが、沙織の声を聞いて顔を上げた。その顔が沙織にはどこか儚げに見えた。


「おかえり。帰り遅いじゃない。どこか行ってたの?」

「うん、要の部屋に行ってた」


 その言葉を聞くと、秋奈の表情が変わる。獲物を見つけた顔だ、と沙織は直感した。


「おいおい、進展早くないかー? 頑張ったねぇ。うりうり」

「ちょ、ちょっと、ほっぺ突っつかないでよ」

「ま、沙織が楽しそうで私は満足だよ」


 そう言って秋奈は優しい顔になり、沙織の肩を軽く叩いた。

 その態度に、沙織はわずかな違和感を覚えた。


「なんか今日の秋奈、あっさりしてない? いつもならもっと色々言ってくるのに」

「ん? そうだねえ……」


 秋奈は沙織から離れ、自分の机に向かって歩いて行く。


「心境の変化ってやつかな。いつまでも昔の私じゃないのよ」


 おどけた様に答えた秋奈を見て、沙織は思わず吹き出してしまった。


「でも、沙織が要さんの部屋で何をしていたのかは興味津々だけどね」

「え?」

「さあ、洗いざらい白状して楽になっちゃいなさい」


 秋奈が再び沙織に詰め寄った。


「そんな、特別なことはしてないよ。ただお喋りしただけで……」

「それだけ? まったくもー。ウブだなー。微笑ましいなー」

「その目はやめてってばー」


 秋奈の攻撃は、夕食が始まるまで続いた。

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