一月十二日 取引と暗躍
新学期が始まって数日。連休明けの倦怠感が生徒の気力を奪おうとする。早々にそんな試練を与えられて乗り越えた、そんなある日のこと。
「わざわざ呼び出して、今回は何を企んでいるのやら……」
秋奈は扉の前に立つと、小さく溜息をついた。思案顔を浮かべてはいるのだが、憂鬱というわけではない。ただ、この先に待ち受けていることが予想できるだけに、身構えてしまうのだった。
扉の向こうにあるのは、もはや馴染みの場所となった会合場所。秋奈を含めた図書委員会の五人で、人数を変えながら幾度となく使われてきた小部屋である。
そこへ秋奈が向かうことになったのは、今朝の出来事が発端であった──。
「ねえねえナギさん。今日の放課後ってヒマ?」
普段よりも早く教室に顔を見せた彩は、秋奈に向かってそんな第一声を発した。
「えっ?」
朝の教室特有の騒々しさにあって、それでも一際目立つ彩の存在。秋奈は突然の質問に気の抜けた声しか返すことができなかった。手元では操作の途中だった携帯電話のメール画面が開いたままになっている。
「もしヒマだったらさ、いつもの部屋でちょっとお話でもしようよ」
相手に選択肢を残しているようで、実は主導権を握ったままの言動。それもまた彩らしい踏み込み方であり、秋奈もそれはよく理解している。
「んー……特に用事もないし、いいよ」
「オッケー! じゃ、あとでね!」
そう言い残して、彩は自分の席へと向かっていった。短時間で吹き抜けていく様は、まるで弾丸のようであったが、机を一つ挟んだ右隣という近場が彩の席であるために、後半の動きはゆっくりしたものだった。何人かの生徒も、秋奈と同じように彩の姿を目で追っている。
彩を見送った秋奈は、携帯電話へと視線を下ろした。朝の挨拶を含めたメールを衿香に送信して、彩の誘いに含まれるであろう裏を推測する。
目的は何か。自分を呼ぶ理由は何か。真意はどこにあるのか。意味もなく雑談をするだけとは考えられない。
秋奈の中では、要と沙織に関することであろうと予測が出ていた。自身に関係することかもしれないという考えもあったが、現状では目的が浮かばない。
衿香との仲は進展していると言えるが、それは誰にも口外していない。あの口付けは今でも自分と衿香だけの秘密だった。年末年始の動きを知られてない以上、彩と悠希の考えは以前と変わらず静観という姿勢を崩すことはないだろう。
対して要と沙織については理由がいくらでも浮かぶ。特に最近、沙織の様子が目に見えて変化していた。抱えている気持ちが膨らみ始めたのだろうと容易に想像できる。沙織の中で、要が特別な存在になりつつあるのだろう。
彩と悠希がそれを見逃すはずもない。今までの流れからすると、やはり何かしらの行動を起こすに違いない。
それも、おそらくは二人を結びつけようとする類の手段だ。理由や目的はわからないが、彩と悠希は他者の背中を押して深い絆を持たせようとしている。思えば、秋奈自身も助言を受けて衿香との仲を深めたことがあった。
更に言えば、あの二人には協力者がいる可能性がある。
それが寮監であろうことも見当がついていた。彩と悠希が何度か寮監室に出入りするところを目撃したことや、都合が良過ぎる頃合に現れる寮監が色々と口利きをしてくれるという状況証拠しかないが、疑い始めると推理はどこまでも迷走してしまう。
話が飛躍し過ぎていることは自分でも理解している。考え始めると終わりが見えなくなるのは秋奈の悪い癖だった。
携帯電話を操作し、一つの画像を表示する。そこに写っているのは衿香の寝顔。年末に帰省した時、自分への土産代わりに撮影したものだった。
無防備な愛しい人の姿を見ていると、自分が守らなくてはという気持ちになる。続けて意思を固く持ち、揺らぐことのない自我が確立されていく。
一種のまじないにも似た行為で、秋奈に一日の活力が湧き起こる。ひっそりと柔らかい笑みを写真の衿香に向け、秋奈は携帯電話を伏せた。
「──さて、行きますか」
しばしの回想を終え、秋奈は扉に手をかけた。滑らかに動く引き戸の先には、既に彩と悠希が座っている。
「あ、ナギさんだー」
「お待ちしておりました。さあ、どうぞ」
椅子を勧められ、秋奈は腰を下ろした。紅茶を出しながら、悠希が「早速なのですが」と話を切り出す。
「今日お呼びしたのは、薙坂さんにお手伝いを頼もうかと思いまして」
手伝いという言葉に秋奈は内心で反応した。推察は光よりも速く走り抜け、何をさせられるのかと身構えてしまう。
「委員会の仕事ですか?」
もちろん本心からそう思っているわけではない。軽く牽制をしたつもりだった。
「いえ、そうではなく……ちょっと、個人的な用件と言いますか」
悠希の歯切れが珍しく悪い。彩と秘かに目配せをして、ようやく続きを口にする。
「突然ですが、薙坂さん。四十崎さんと麻生さんのこと、どう思いますか?」
「どうって、仲良しだなーとか」
予想範囲の質問に、あらかじめ用意していた答えを投げた。
「そうですね。ですが、もっと先の感情があるようには思えませんか? 笛吹さんを待つ薙坂さんならわかるはずですが」
答えを誘導するような問いかけに、秋奈も心の内を明かしてみることにした。どこまで駆け引きをする必要があるか、それを確かめる意味合いも込めて。
「……まあ、少なくとも沙織は友情以上の感情を持っていると思います。最近、なんだか様子もおかしいですし」
「それはどのように?」
「たいしたことじゃないんですけど、気付いたらぼけっとした顔をしていて、かと思ったら視線を泳がせて俯いたり、とか」
「それが恋煩いであると?」
「多分、今はまだ憧れが強いって感じだと思いますけど。沙織がそんなことを考えるまでになってくれたのは嬉しいことです」
これでどう出るか。秋奈は次の手を考えるが、すぐに悠希が言葉を繋ぐ。
「それなら話は早いですね。薙坂さん。麻生さんのサポートをしていただけませんか?」
「サポート? それがお手伝いってやつですか?」
「はい。あの二人、誰かが背中を押してあげないと進展しないように思えるのです。想い合う二人が結ばれないのは、とても悲しいことですから」
ようやく悠希の明確な胸中を聞くことができた。予想通りと言える内容に、秋奈はそれに乗るべきか思案する。
「……先輩って、おせっかい焼きなんですか?」
まずは様子見を兼ねて、そんな質問を仕掛けてみた。
「そうかもしれません。それか……でもあるのかも……」
「ん? それか、なんですって?」
「いえ、なんでもありません」
呟きを聞き取れずに秋奈は首を傾げたが、悠希は言い直すつもりがないらしい。
「とにかく、薙坂さんは麻生さんのルームメイトであるというジョーカーを持っているのです。それは私たちには使えない強力なカードです」
「そんなに強い切り札でしょうか」
「仮に私と薙坂さんが同じアドバイスをしたとして、どちらをより重視するかを考えてみましょう。一目瞭然ではありませんか?」
買いかぶり過ぎだとも思ったが、説得されるうちに自分もそんな考えに至った。しかし、正直に言うわけにもいかず戸惑ってしまう。
「答えづらい質問ですね」
「頭の中で思うだけで結構です」
読めない悠希の真意に、秋奈はますます惑わされる。要と沙織の仲を取り持つこと自体は歓迎だが、なぜ悠希がそのようなことをするのかという理由がわからない。それらしい答えは最初に聞けたものの、それだけでは弱いようにも思えてしまう。何かもう一つ、柱となる動機があるのではないか。
「あの、ここまで聞いといてなんですけど……もし、協力しないって言ったらどうなります?」
気付けばそんな言葉が零れていた。得体の知れない物に対する不安が、知らず秋奈の心に生まれていた。
「別にどうもしませんよ。ただ、一つ言っておきますが、私たちと寮監は協力関係にあります」
やはり寮監と組んでいたのかという思いに加え、どのような言葉が続くのか身構えてしまう。寮という住まいを脅かすようなことであれば、悠希の言葉に従うしかない。
「……それが何か」
痛い所を突かれたと考えていたせいか、期せずして言葉が低くなっていた。
「我が校の寮は嬉しいことに人気で、入寮の順番待ちがあります。欠員が出れば、すぐにそこから補充されるでしょう」
「そうでしょうね」
「仮定続きで申し訳ありませんが、近い将来に四十崎さんと麻生さんが想いを通じ合わせたとします。そうして仲を深め合い、一人暮らしをなさっている四十崎さんの部屋に麻生さんが引っ越して同居を始めた場合を考えてみましょう」
流れるような言葉は、まるであらかじめ用意された台本を読んでいるようだった。髪を小さくかき上げながら、悠希の話は続く。
「そうすると、薙坂さんのお部屋には一人欠員が生じます。先ほどもお話したように、すぐ誰かが新しいルームメイトとしてやってくるでしょう。しかし、寮監に話を通せば、ある程度の特例を作り上げることもできるのです」
「──あの、それって、もしかして」
ようやく秋奈にも話が読めてきた。
「その気になれば、順番を飛び越して二年後にやってくる後輩を指名してルームメイトに抜擢することも可能だ、ということです」
その後輩が衿香を指すということはもうわかっていた。悠希も具体的な名前を出そうとはしない。言うべきことは終わったとばかりに秋奈の言葉を待っている。
「取引、ですか」
「もしかしたら、という夢物語です」
「そんな、沙織を追い出すようなこと」
「物騒ですね。誰も損をしていないじゃありませんか。全員が想う相手と同じ空間で寄り添える結果になるのですから」
「でも、沙織が要さんのところに行くなんて確証はありません」
「そうですね。だからこそ、早いうちに結ばれていただきたいのです。仲が深まっていけば、それだけ一緒にいたいと思うようになるものですから」
「……」
「他にご質問はありませんか?」
沈黙の中、秋奈は考える。疑問は浮かぶけれど、そのどれもが悠希に論破されてしまうような気がする。
何よりも、衿香との同居に心動かされている自分がいた。仲が深まれば一緒にいたいと思うようになる。まさに悠希が言った通りだった。
今までは、衿香も寮のどこかの部屋に入るのだろうと考えていた。そうすれば、衿香との距離は縮まる。しかし、入寮できるかどうかは確実ではない。そんな漠然とした未来を、悠希は都合良く定めようとしているのだ。
考えるほどに断る理由が消えていく。
唯一沙織のことだけが最後まで気掛かりだったが、要に受け入れてもらうことが一番の幸せなのだろうと容易に想像できる。もしその時が来たら、祝福しながら笑って送り出してあげよう。
「──あの」
やがて、秋奈はゆっくり口を開いた。
「なんでしょうか?」
悠希の表情は変わらない。いつもと同じ、優雅な笑みがそこにある。
「私は……何をすればいいですか?」
「ふふっ、ありがとうございます」
「別に、感謝されることじゃないです」
負けたという思いはない。悠希の頬笑みにも勝ったという色合いなど含まれてはいない。
それでも感じてしまうのは、ばつの悪さとも言うべき気分だろうか。口を噤んで誰もいない部屋の奥を向く秋奈に、悠希がこんな言葉を続ける。
「そうそう。もし薙坂さんが協力を断っていたとしても、私は部屋割について寮監へ口利きをするつもりでしたよ」
不意打ち以外の何物でもない声に、秋奈は視線だけをゆっくりと戻す。目を見開いてしまうのを抑えられない。
「薙坂さんにも幸せになっていただきたいですから」
秋奈は何も言うことができず、胸の中で「敵わないな、この人には」と嘆息するしかなかった。




