四月二日 委員会召集と秘密の追跡
「ね、四十崎さん──」
翌日。新入生向けのオリエンテーションが終わり、委員会召集の時間になった。がやがやと話し合いながら、生徒たちが教室を出ていく。
「──委員会行こう?」
沙織が要に声をかけたのは、そんな時だった。
「うん。それじゃ、行こうか」
要は答え、沙織と共に図書館へ向かった。
図書館の入口には二人の生徒が立っていた。背の高い方の生徒が声をかけてくる。
「新しく入った図書委員の方ですか?」
「はい、そうです」
沙織が答えた。
「えっと、どこに向かえば……」
「中に入って、右側にある部屋の席に座ってください。空いている所で構いませんので」
背の高い生徒はバスガイドのように図書館へ手を向けた。
「ありがとうございます」
軽く頭を下げ、図書館へ入った。
指定された部屋の扉を開け、中の様子を伺う。
「あ、沙織。こっちこっち」
近くの机から声が聞こえた。ポニーテールに笑顔がよく似合う、明るく元気な姿を体現したかのような少女が手を振っている。
「秋奈、もう来てたんだ」
言いながら沙織は、呼びかけてきた少女に向かって小走りに駆けて行った。要はその場に取り残されてしまった。
沙織は少女と何やら楽しそうに話しこんでいる。まるで要のことなど忘れてしまったかのように。どうしたものか迷っていたが、このまま棒立ちを続けるわけにもいかないので、とりあえず要も机の方に歩き始めた。
机に近付けば近付くほど二人の姿が大きくなる。それに比例して自分の孤独感も大きくなっていく。
不意に、ポニーテールの少女と目が合った。その瞬間、少女が含みのある笑いを浮かべた。
「ほら沙織。大事なこと、忘れてない?」
その言葉にはっとさせられ、沙織は勢いよく振り返る。
「そうそう! ごめんね四十崎さん」
沙織は少女に手を向ける。
「えっと、昨日も少し話したけど、私のルームメイトで──」
「──薙坂秋奈でっす。よろしくねー」
秋奈が手を振る。
「あなたが四十崎要さんね?」
要は呆気にとられながらも「うん」となんとか答えた。
「なるほど。この人が沙織の……ねぇ」
秋奈が品定めをするような視線を要に向ける。要はますます居心地が悪くなった。
「もう、そんなにジロジロ見たら悪いってば!」
沙織が秋奈の目前に手をかざし、もう片方の手で要に手招きをする。
「四十崎さんも、ほら、こっちに座ろう?」
その言葉に促され、要は空いている椅子に腰を下ろした。要、沙織、秋奈と三人並んで座っている。
間に沙織がいるにもかかわらず、秋奈は要を観察し続けているようである。唐突にその目が沙織に移る。
「まだ苗字で呼んでるんだ。初々しくていいねぇ」
秋奈がそう言うと、沙織は視線を泳がせてあたふたし始める。
「え、初々しいって、ちょっと、え?」
秋奈は要へと視線を戻す。
「ねえ、要さんって呼んでいい? 私のことは秋奈でいいから」
唐突な申し出に、要はすぐに返事ができなかった。会ったばかりの人にこんなことを言われるなんて。だからと言って邪険に扱うのも気が引ける。
しばらく続いた沈黙は、はっと我に返った沙織の言葉によって破られた。
「ちょっと秋奈! そんないきなり……」
「いいじゃない。それとも沙織、私が先に名前で呼び合う関係になるのが悔しいの?」
秋奈はからかうような微笑みを浮かべて沙織と向き合った。沙織は再び冷静さを失い、目を泳がせて「うーん、でも、その……」と呟いている。
その姿を見て満足したのか、秋奈は要に向き直り言葉を続ける。
「それでさ、いいかな? 要さん」
話が勝手に進められている。ここまで来たら、後戻りはできない……。
そんな空気を要は感じていた。もう、どうにでもなれだった。
「うん、まあ、別に構わないけど……」
要がそう言うと、沙織が弾かれたように顔を上げた。
「じゃ、じゃあわたしも!」
その声に反応するように、要と秋奈が沙織を見た。要は驚いたような、秋奈は澄ましたような表情をしている。二人の顔をちらりと見て、消えそうな声で沙織は続ける。
「……わたしも、名前で、呼び合いたい」
そう言うと沙織は照れ隠しのように目を伏せてしまった。
そんな姿を見て、要は騒いでいた心が安らぐのを感じた。同じ言葉を秋奈に言われた時よりも、素直に受け入れられそうな気がした。自然と表情も柔らかくなっていく。
「いいよ。……沙織」
だからだろうか。要の口が自然とそんな言葉を紡いだ。それに反応するように、
「──えっ?」
沙織は驚いたように目を見開いた。
「ほうほう、なるほど」
秋奈は満足したような笑みを浮かべて頷いた。
「……」
要は決まりが悪そうに視線を泳がせた。
思わず名前で呼んでしまったが、変に思われたりしていないだろうかと心配だった。
「あの、ありがとう。……要」
おずおずと沙織は口にした。照れ笑いを浮かべ、視線も定まっていない。
その言葉を聞き、要もなぜか照れてしまった。鏡映しのように二人で同じようなことをしている。
「やれやれ。初々しいお二人さんだこと」
秋奈は楽しげに観察しつつ小さく息をつく。
「それで、私は結局どうなるのかな?」
その言葉に、要は何とか平静を取り戻そうと意識しながら答える。
「あ、うん。構わないよ。秋奈さん」
「おや、私はさん付けなんだね。沙織のことは呼び捨てなのに」
秋奈は未だ意味ありげな微笑みを崩さない。
「まあ、いいけどね。私が最初に要さんって呼んだわけだし。なんだか呼び捨てよりもさん付けの方がしっくりくるんだよね。雰囲気かな?」
「私もそんな風に思ったから秋奈さんって呼んだんだけど……いいのかな」
要は戸惑いながら言った。
「いいっていいって! お好きなように呼んでくださいな。それに、沙織もまんざらでもないみたいだし」
「えっ? まあ、それは仕方ないと言うか……」
沙織の動揺は収まっていない。
「んもう、いいじゃない! ね?」
「はーいはい、沙織がいいならそれでいいよ」
秋奈は手をひらひらとさせて言った。
思いがけない展開だったが、結果的には名前で呼び合うという進展を得られた。今はまだ照れが強いが、ゆくゆくは自然に呼び合う仲になれるだろうか。
そんな未来を要は想像してみるのだった。
*
「ところでさ、入口に生徒が二人いたでしょ?」
要と沙織が落ち着いたところで、秋奈がそんな言葉を口にした。
「うん、いたね。先輩かな?」
沙織が答えた。
「半分正解。背の高い方は二年生の先輩なんだけど、背の低い方は私たちと同じ一年生だよ」
秋奈は一度入口に目を向けて、すぐに戻す。
「でね、先輩の方は泉沢悠希さんって言って、なんと図書委員長なんだって。一年の方は小野原彩さん。私と同じクラスなんだけどね、これが委員長の泉沢さん直々に指名されて書記になったんだって」
「そっか、だから秋奈は一人だったんだ。委員会は一クラス二人のはずなのに、変だなって思ってたんだ」
沙織は要と一緒になって、秋奈の話に頷いている。なぜそんなことを知っているのかと問い詰められる心配はなさそうである。秋奈は内心ほっとしていた。
秋奈が詳しく知っているのには理由があった。昨日、北棟の裏で見かけた二人が悠希と彩だったのである──。
早めに図書へに到着した秋奈は驚いた。入口に昨日見た二人が立っていたのだから。
内心では不安を抱えつつも平静を装って図書館へと入ると、素早く行動に移った。
「あの、すみません。入口にいたのって、もしかして委員長さんですか?」
少なくとも新入生ではないと思われる人物に話しかけた。向かうように促された部屋の席に座っておらず、年長者の雰囲気を出している。少し観察すれば見分けるのは簡単だった。
「そうよ。背の高い方が、だけどね。背の低い方は一年生なの。まあ、でも役員ってことには変わりないんだけどね」
これは二人の情報が一気に得られるかもしれない。何も知らないふりで通すべきだろう。
「そうなんですか。その二人、お名前は何とおっしゃるんですか?」
秋奈はその人物から悠希と彩について聞き出したのであった。しかし、二人の詳しい関係はわからなかった。──恋人同士なのではないかということが。
「そろそろ席に着いて。あたしも一応仕事中だからさ」
「はい。ありがとうございました」
それでも、ある程度の情報は入手できた。話を終えて席に座っていると、図書館に入ってくる沙織が目に入った。その隣には見慣れない女性がいる。もしかすると、沙織が昨日話していた人かもしれない。
とりあえずは、呼びかけてみないと。
「──あ、ほら、委員長さんが入って来たよ」
沙織の声で、秋奈は現実に戻った。
悠希と彩が、役員の集まる机に向かって歩いている。他の生徒もそれに気付いたのか、私語をやめて注目する。場所が場所なだけに、あまり大声で喋っていたわけではなかったのだが、それでもある程度の騒音となっていたのは確かである。喧騒が消え、周囲に図書館らしい静寂が満ちる。
役員たちと何かを話し合っていた悠希が、新入生が集まる机に顔を向ける。
「皆さん、図書委員会へようこそ。私は委員長の泉沢悠希です。これからよろしくお願いします」
悠希が一礼する。それに合わせて長い髪が揺れた。
「まずは私の自己紹介から始めたいと思います」
そう言って悠希は自己紹介を始め、委員会の説明も付け加えた。堂々と話すその姿は、自分たちと一つしか年が違わないということを感じさせないものだった。
雰囲気が大人びている。単純ではあるが、それが一番しっくりくる言葉だった。
「──では、続いて他の役員を紹介していきます」
悠希は副委員長や会計などを紹介していく。指名された役員が一歩前に出て簡単な自己紹介をする。やがて彩が指名された。
「書記の小野原彩です。あたしも同じ一年なので、皆さんと委員会を繋ぐパイプみたいな役割ができたらなって思います。よろしくお願いします」
彩は軽く頭を下げた。秋奈はその姿をまじまじと見つめた。明るい笑顔に、エアウェーブをかけたショートヘアが似合っている。大人びて落ち着いている悠希とは逆に、活発で元気そうである。意識して見ると、昨日よりも感じることが多かった。
役員の紹介が終わると、図書館での仕事日程を決めることになった。日替わりで何人かが図書館に集まり、貸出業務や書架整理などを行うのである。
「目安としては、一日に二クラス、四人体制でやってもらいたいと考えています。最初の数週間は私たちが一緒に付いて仕事を教えます。日程は既にこちらで仮に決めてあります。今から日程を印刷したプリントを配りますので、都合の悪い日がある場合は申し出てください」
悠希が言うと、役員たちがプリントを配り始めた。皆がそれに目を落とし、軽いざわめきが起こる。
都合の悪い日と言っても、委員会を休んでまでの用事となると言い出しにくいのではないか。そんな秋奈の考え通り、申し出る生徒はいなかった。
「皆さんのご協力に感謝します。それでは、これを正式な日程とさせていただきます」
悠希は役員たちに合図をする。
「続きまして、図書館の案内に移ります。皆さん、ご起立ください」
その言葉を合図に、生徒たちが立ち上がる。役員たちが誘導を始め、その先頭に悠希が立っている。
「ではまず一階から案内していきます」
そう言って悠希は歩き出した。その隣で、いつの間にか彩が寄り添うように並んで歩いているのを、秋奈はそれとなく見つめていた。
*
「それでは、今日の委員会はここで終了とします。お集まりいただき、ありがとうございました。また後日、お会いしましょう」
悠希は一礼し、役員たちと共に小部屋へと入って行った。
今日の反省会でもするのだろうかと、その姿を見ていた要は思った。そのまま視線を隣に移すと、沙織と目が合った。
一瞬の間。第一声を発する機会が失われ、二人の間に沈黙が落ちる。決して居心地の悪いものではなかったが、やはり照れはあった。
「ほらほら、どうしたのさ? 帰らないの?」
秋奈が言うと、二人は同時に破顔した。それが緊張をほぐしたらしい。
「うん、そりゃ帰るけど……ね、要?」
沙織が伺うように見つめてきた。
「そうだね、帰ろうか」
要の言葉を合図に三人は立ち上がる。しかし、出口に向かったのは二人だけであった。
「あれ? 秋奈は帰らないの?」
沙織が振り返ると、秋奈は周囲を見回しているようだった。
「ちょっとこの中を見て回りたくてね。いくつか探したい本もあるし、長引きそうだから先に帰ってていいよ。それに、若い二人の邪魔をしちゃ野暮ってもんだからねぇ」
秋奈が手を振って去ってしまうと、取り残された二人は顔を見合わせる。
「……秋奈はほっといて帰ろうか」
「いいのかな……」
「いいんじゃない? 本人がそうしてくれって言ったんだし」
要は秋奈の様子に不自然さを感じていたが、一応は納得することにした。
外に出ると、暖かな陽気が二人を包んだ。吹く風も冷たくなく、穏やかな気持ちにさせられる。時刻は十一時。昼時までには、まだ時間がある。
「これからどうしようか?」
沙織が要に問いかけた。今日は委員会が終われば、そこで自由解散となっていた。授業は明日から始まる予定である。
「どうしようかな……」
要も同じ言葉を繰り返して考える。
「あっ、そうだ」
「なんか浮かんだ?」
「学食、見てみたいなって。昨日は人が多かったし……」
「それいいアイデア! 今なら席取れるかも!」
決まれば早い。二人は学食へ向かった。
幸い、まだ席は埋まっておらず、先に場所取りをしなくても座れそうであった。
「どれにしようかなー」
沙織がメニューのサンプルを見て迷っている。日替わり定食やラーメン、カレーにパスタといった定番メニューが並んでいる。要も同じように見ているのだが、こちらは迷っている様子はない。
「要はもう決めたの?」
「うん。これにする」
示したのは日替わり定食の一つ。メニューには「久永ランチ」と書かれている。
「そっかー。それじゃ、わたしもそれにしよっと」
沙織が決断したところで、二人は券売機に向かい、食券を購入した。
全体的にメニューの値段は安めになっており、一番高い定食でも五百円でお釣りがくる。二人が選んだ久永ランチは二百六十円という手頃な値段を売りにしており、それでいて値段以上のボリュームがある人気メニューとなっている。連日できあがる行列は、ほとんどが久永ランチを求めてのものである。
二人はランチをテーブルに置いて席に座った。外の景色を見渡せる窓際の席である。周囲の席にも人はまばらで、落ち着いて食事ができそうである。
食べ始めれば、自然と感想が出るものである。
「うーん、安いのはいいんだけど、やっぱり値段に合った味というか……」
沙織が少し首を傾げた。
「私はまあ、これでもいいかなって思うよ」
「要がそう言うならいいんだけど……」
そんな会話をしつつ食事を終えた。一息ついて落ち着くと、話題は先ほどのことに移る。
「それにしても秋奈さんって、いつもあんな感じなの?」
要が問いかけた。沙織はコップに汲んでおいた水を飲んで答える。
「そうだね。気まぐれに動くというか、それでいて一本筋が通っているというか……でも、面白い人だってのは確かだよ。一緒にいると楽しいし」
「そっか……うん、そんな感じだよね」
そう言って要も水を飲んだ。コップを置く音が、やけに大きく聞こえた。
「──ねえ、要って秋奈のこと、気になるの?」
突然の言葉に、はっとする要。
「えっと、まあ、ただ単純に気になっただけだよ」
「そっか」
沙織が要を見つめる。
「あのね、気付いてるかな。今のって、初めて要から話題を振ってくれた話だったんだよ?」
「えっ?」
要は虚を突かれたような顔をした。そんなこと自分でも意識していなかったことなのに。もしかすると、沙織は結構注意深いところがあるのかもしれない。
「でもね、なんて言うかな……」
沙織は視線を下に向けて泳がせている。
「その話題が秋奈についてだっていうのが……その、ね?」
不意に沙織の視線が要に向いた。眼鏡のレンズを通さない上目遣いで見つめられる。その困ったような、それでいて照れたような表情を見て、要は考える。
これは──自惚れでなければ──やきもちなのではないか。こんな時、どんなことを言ってあげればいいのだろうか。
会話が途切れた。新しい話題を始めるには最適だ。
「──ねえ、沙織のこと、訊いてもいい?」
直球過ぎただろうか。そんな心配をよそに、沙織の目は輝き、要を見つめている。
「うん、いいよ! なんでも訊いて!」
とりあえずは成功したようだが、要には新たな問題が生まれていた。なんでもと言われると逆に困ってしまう。自由研究でテーマを何にするか悩むのと同じことである。
要は「うーん、そうだね……」と呟きながら考え、思いついたことを口にする。
「沙織はさ、この学校のこと、どうやって知ったの?」
それは自分が訊かれたくないこと。それなのに、なぜ訊いてしまったのか。
要の思いを知らずに、沙織は答えを考えているようだ。
「えっとね……一度は家族と離れて暮らしてみたいなって思ったのが理由かな。でも一人暮らしは色々と大変だし、女一人じゃ不安だって親に言われてね。だから高校は寮のあるところにしようって決めたんだ。あとはさ、ほら」
沙織は苦笑しながら頭をつつく。
「こことの相談。わたし、結構がんばったんだよ」
久永学園は人気に比例するように入学難易度も上昇している。当然、求められる学力は高くなる。要も入試への努力は怠らなかった。
「それで、要は?」
無邪気な瞳で沙織が訊いた。やはり自分に質問が返ってきた。予想できていただけあって、それほど戸惑わずに要は答えることができた。
「私も沙織と同じような理由だよ。一人暮らしがしてみたいなって思ってね。ここって割と自由な校風らしいし、落ち着いて生活できそうだったから」
嘘はついていなかった。事実をすべて話さなかっただけだった。話すべきではないと判断したのである。
それでも沙織は満足したらしく「そうなんだー」と頷いている。
「なんだろうね、湧き上がるこの一人で生活してみたい! って気持ちは」
沙織は目を閉じ、首を傾げて考える仕草をした。
「あ、もしかしてあれかな。若気の至りってやつ」
その突拍子もない言葉に、つい要は微笑んでしまった。
「あ、今のそんなにおもしろかった? 真剣だったんだけどなー」
沙織は口を尖らせている。
「ううん、そうかもしれないって思っただけだから」
少しはおもしろいと感じたのも事実だったが、それは秘密にしておいた。
──ふと周囲を見ると、いつの間にか人が増え始めていた。時刻は十二時を過ぎている。
「なんだか人が増えてきたね。どうしよう、もう出る?」
あまり人ごみには揉まれたくない。そう思って要は沙織に問いかけた。
「そうね、じゃ、片付けよっか」
沙織は賛同し、ランチトレーを持って立ち上がった。
要もそれに続いて立ち上がる。その時、視界の端に映る人影があった。
「あっ、あれって……」
その姿を目で追ってみたが、増え続ける人の波が邪魔をして、再確認はできなかった。
「どうしたの、要?」
「今、あそこに秋奈さんがいたような気がして……」
要は既に長くなっている行列を指差した。
「ふむ、どれどれ──」
沙織は行列をつぶさに観察した。
「んー、見つからないよ?」
「私もちらっと見ただけだから、気のせいだったのかも」
「秋奈の話をしてたから、幻を見たとか?」
「そうかな?」
そんな話をしながら、トレーを回収棚に置いた。学食から出る時にもう一度探してみたが、秋奈の姿は見つからなかった。
*
時間は少し戻る。
一人図書館に残った秋奈は本を読んでいた。それは確かに目当ての本ではあったのだが、読書に没頭していたわけではない。この机から見える扉に意識を集中させていた。その扉の中では、悠希や彩を含む役員たちの会議が行われている。
要と沙織の二人と別れた後、秋奈はすぐに行動を始めた。悠希たちが入った扉を観察するのにうってつけの机の場所を確認すると、本棚から適当な本を取り出し、狙った席に置いた。
これで場所取りはできた。無駄に時間を潰す気はない。探したい本があるのは本当なのだから。
以前から調べて気になっていた本をいくつか取り、カウンターに持っていき貸出手続きを済ませる。手続きをせずに持ち出そうとするとセンサーが反応し、出口ゲートでブザーが鳴ってしまう。秋奈は本を置いていた机に戻り、場所取りに使った本を元の位置に戻した。すべての準備を済ませ、秋奈は席に落ち着いた。
手続きの済んだ本を開いて目を通す。あまり本に集中できないのは残念だが、読書は部屋に戻ってからでもできる。今は他に優先するべきことがあるのだから。本に落とされた視線は、ちらちらと扉にも向けられていた。
動きがあったのは三十分ほどした頃だった。
扉が開き、何人かが出て来る。秋奈はそれを目で追った。しかし、その中に悠希と彩は見つからない。閉まりかけた扉に目を向けると、部屋の中に二人の姿が見えた。二人を残して他の全員が出て行ったということだろうか。それならば、まだ離れるわけにはいかない。
さらに十数分すると、再び扉が開いた。当然ながら、出て来たのは悠希と彩だった。秋奈は本を閉じ、素早く鞄にしまうと立ち上がった。二人を追って図書館を出る。先に貸出手続きを済ませていたのが功を奏し、出口ゲートを簡単に通過できた。
二人は何やら話しながら歩いている。気付かれないように離れているので、会話の内容はわからない。向かう先は学食のようだ。時間を確認すると十二時を過ぎている。周囲の人の流れも学食に向かっているように見える。人ごみに紛れて見失っては困る。これだけ人が多いのだから、もう少し距離を詰めても構わないだろう。
秋奈は細心の注意を払いながら尾行を続ける。学食の行列に並んだ時は、あまりの人の多さに席を確保できるか心配になったが、一人で座る分には問題なかった。複数のグループで陣取っていることが多く、その隙間を埋めるように座れば良いのだ。秋奈は視線を戻し、二人がどの席に座るかを観察する。
やはり二人以上の場合は席の確保が難しいようだ。悠希と彩は座れそうな場所を探しており、ようやく窓際に空いた席を見つけると向かって行った。秋奈もその近くに行きたかったのだが、ちょうど良い距離には席が空いておらず、結局は少し離れているが、二人の姿は確認できる場所で妥協した。
二人が食事を始め、会話をしている。耳を澄まして聴こうとしたが、離れているだけでなく、周囲の喧噪も激しいこの状況である。秋奈にはその表情から内容を推測することしかできない。おそらく、他愛もない雑談を楽しんでいるのだろう。
食事が終わっても、二人はすぐに席を立つことはなかった。食後のお喋りをしているのだろうか。秋奈も既に食べ終えており、コップの水を少しずつ飲みながら、右斜め前方に座る二人の姿を眺めていた。
彩が悠希に話しかけている。悠希が頷いて口を動かす。彩は何か呟くと、首を動かして周囲を気にし始めた。彩がこちらを向いた時、一瞬だが秋奈と視線がぶつかった。すぐに秋奈は目を逸らしてごまかしたが、気付かれたのではないかと内心焦っていた。
それでも諦めることなく横目で観察していると、彩が立ち上がるのが見えた。まさかこっちに向かって来るのではないかと秋奈は本気で考えた。実際はそうではなく、悠希も席を立ち、二人でトレーを回収棚に戻しただけだった。秋奈も少し遅れてトレーを返却して後を追った。
学食の人ごみを抜けると、外の静けさが新鮮に感じられた。
秋奈は再び距離を取って歩きながら二人の後ろ姿を見る。左側を歩く彩が悠希に話しかけている。悠希は困ったように微笑みながら言葉を返す。彩は嬉しそうに笑って、右手で悠希の左手を取り、しっかりと指を絡めて繋いだ。さらに彩は残った左手で悠希の腕にしがみついた。自然と彩の体が悠希に寄り添う形になる。
その光景を見て、秋奈は思わず周囲を見回してしまった。別に自分のことではないのだが、つい人の目を気にしてしまったのである。当の二人は気にする様子もなく、仲の良さを見せつけながら歩いている。すれ違う人々も、二人を冷やかすことなく去っていく。
考えてみれば当然だ。あれくらいならば、仲良くじゃれ合っているだけだと思われても仕方ないだろう。
もっと具体的な証拠が欲しい。二人が恋人同士だという確かな証拠が。
二人は北門から外に出た。秋奈はどこに向かうのだろうと疑問に思ったが、その答えはすぐに出た。学園寮に入って行ったのである。
寮に住んでいる。それが分かっただけでも収穫だが、ここまで来たのだから行けるところまで行きたい。同じ寮に住んでいるのだから、このまま進んでも問題ない。自分に言い聞かせて、秋奈は寮に入った。
西側の階段で二階に上がると、二人は廊下を西に向かって進んで行った。周囲には人がちらほらと見える。この状況で顔だけ出して覗くのは不自然すぎる。
少し考えて、秋奈は廊下を反対側に曲がって歩いた。そして自然な様子を装い、後ろを振り返った。
二人が廊下の途中、扉の前で立ち止まっている。悠希が鞄に手を入れて中を探っている。あそこが二人の部屋で、悠希は生徒証を探しているのだろう。
寮自体の出入りは、寮生であれば基本的に誰でも可能なのだが、部屋は施錠されている。その鍵となるのが生徒証や学生証である。扉にある差し込み口に入れれば扉が開く仕組みになっている。カードキーの役割を果たしていると言えばわかりやすいだろうか。
秋奈は前に向き直る。何度も後ろを向くと気付かれるかもしれない。ゆっくりと歩きながら、タイミングを計る。
五秒、十秒、十五秒──。頭の中で数え、再び振り返る。
廊下から二人の姿は消えていた。
遠かったために、どの扉に入ったかはわからなかったが、寮の二階に住んでいることは確認できた。それだけで今日は満足するべきだろう。
秋奈は自室に戻るためにエレベーターの前に立ち、上向きのボタンを押した。