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十月十七日 日常と風景

 この季節にもなれば朝は肌寒いものだが、二人分の熱を持った布団には通用しない。

 目覚めの時は緩やかに沙織を揺り動かす。まどろみの中で、すぐ近くにある柔らかい熱に気付いた。


 沙織が目を開くと、要の寝顔がそこにあった。安らかに寝息を立てる姿は二度寝の誘惑には十分過ぎる。寝顔を眺めながら、予期せぬタイミングで意識を手放したい。

 それでも沙織が体を起こしたのは無意識だからこそ成せる所業か。もし完全に覚醒していたならば、自分からその誘いに乗っていただろう。一旦和室を後にする。

 戻ってきた時には、いくらか沙織の意識は明確な像を結んでいた。魅力的な誘惑に溺れず、かつ自分の望むことができるくらいには。


 布団に潜ると、まだ残る温かさが体に染み込んでくる。新たな温もりを求めて要の方へ。隣で色々と動きがあったというのに、要は起きる様子がない。

 要の手がどこかにあるはず。布団の中を探ると、それはすぐに見つかった。沙織は自分の手を重ね、そっと握る。要からの反応がないのは残念だが仕方ない。残った左手は要の顔を目指す。

 要は眠る時には毎回マスクを着けている。もちろん今も要の鼻と口はマスクで覆われている。眠っている間に取れることも多いようだが、今日は外れなかったらしい。

 白いマスクの上から、要の唇に触れてみた。布越しでも唇の弾力が感じられる。直に触れると恥ずかしくなってしまうので、これくらいがちょうど良い。


 枕元に置かれた時計を見る。要が目覚ましをセットしていたかは知らないが、仮にしていたとすれば、もうすぐうるさい音が鳴り響く時間だ。そんな音で要を起こすくらいならば。

 沙織はさらに要との距離を詰め、互いの額を密着させた。文字通り、すぐ目の前にある相手の顔。この近さならば、何よりも先んじて要に干渉できる。


「要……か、な、め」


 小さく、ゆっくりと。呼ぶ声は何度も繰り返す。いくつかの声が届いた時、要の瞼が震えた。それからは一言ごとに要が覚醒する様子を観察する。目を開いた要がどのような反応をしてくれるのか想像しながら。


「おはよう、要。今日も一日がんばっちゃおう」


 大きな事件など何も起きない。そんな平凡な一日が、この瞬間から始まる。







「いただきます」


 朝食、机には一皿のコーンフレーク。牛乳をかけずに、そのまま食べるのが要の流儀である。沙織も一緒に食べる時はそれに従っている。


「いただきます」


 沙織も手を合わせ、スプーンに手を伸ばす。机の向かい側では、要が同じようにスプーンでコーンフレークをすくっている。


「それにしても、あの起こし方は心臓に悪いよ……体がビクンってなった」


 要がスプーンを沙織の口にやった。そこに乗ったコーンフレークを食べ、沙織もスプーンを要の口元へと動かす。


「えへへ。サプライズプレゼントだよ」


 咀嚼し、飲み込んでから要が言葉を返す。


「それ絶対後付けの理由でしょ」


 もちろんスプーンも一緒に差し出された。それを食べ、沙織は言葉とスプーンを要に向ける。


「えーっ、そんなことないよー。わたしの心からのプレゼントだったもん」


 要はそれを食べて、スプーンを沙織の口へ。


「どっちにしても、ああいうのはもうダメ」


 机の上を、交互にスプーンが飛び交う。


「じゃあ、どんなのならいいの?」


 コーンフレークは、もう残り少ない。


「それは……なんだろう。気分、かな」


 ザクッというすくう音に、カツンという皿の底を叩く音が混ざる。


「こうやって食べさせ合ってるのも?」

「そうしたい気分だったから」

「わたしもおんなじ」


 半分寝ぼけている二人の、そんな朝食の一コマ。







「近くにスーパーがあるっていいなあ」


 要のマンションから歩いてほんの一、二分。住宅街の中にある地域密着型のスーパーに二人は来ていた。食材から総菜、生活用品まで揃っている。


「もし買い忘れがあっても、ここに来ればだいたいあるからね」

「寮の方は学校の購買くらいしかないんだよなあ」


 流れる有線の音楽を聞き流しながら店内を進む。季節柄か、秋をテーマにした曲が多く流されている。


「あ、そうだ。ポイント貯まってるんだった」


 このスーパーでは、ポイントカードの点数に応じて特定の商品と交換できるというサービスを行っている。米から果物まで、主に食品が対象となっている。


「どれにするの?」

「えっとね……この新鮮卵ってのにする」

「要、それ好きなの?」

「と言うか、沙織が好きでしょ?」

「えっ?」

「これがあれば、沙織が好きな玉子焼きを作ってあげられるから」


 要の想いが感じられた、そんな買物の一コマ。







「そういえば宿題あったよね」


 昼食後のゆったりとした時間。そこに投げ込まれた要の言葉は、まるで湖に落とした石のように波を呼ぶ。


「え、あれっ? あったっけ?」

「ほら、英語の和訳。ノート提出するの火曜だよ?」

「あ、あー、あれね。うん。あったあった」

「忘れてたんだ」

「……うん」

「てことは、やってないよね」

「……」

「……一緒にやる?」

「うん!」


 そうして始まった宿題との戦い。沙織はノートも何も持ってきていなので、一緒にやる代わりに後で見せてもらうという条件をつけた。


「この単語、どんな意味だったかな」

「あ、これは熟語で訳すんだよ。だからこの文を訳すと──」


 しかし、その必要もなさそうだった。沙織は要がつまずく箇所をことごとく答えて解説していったからである。もちろん、辞書を引いているわけでもない。沙織は要の隣に座り、広げた教科書とノートを見ているだけだ。


「沙織って、宿題はギリギリまでやらないタイプ?」

「そうでもないよ。でも、やる時は一気に全部やっちゃうな。毎日少しずつとかじゃなくて」

「なんか、わかる気がする」


 沙織の学力を垣間見た、そんな勉強の一コマ。







「小腹空かない?」


 午後三時。日本各地では間食が行われているであろう頃合。沙織は要に問い掛けた。


「そうだね。簡単なお茶でもしよっか」

「要、何か忘れてない? ぴったりのお菓子があるってこと」


 そう言って沙織は冷蔵庫から昨日のシフォンケーキを取り出した。取り皿とフォークを添えて和室の机に置く。お供がインスタントティーというのは味気ないが、そこは気にしないでおく。あくまでメインはケーキなのだから。


「これくらいなら今の時間にちょうどよさそう」


 各自で好きな量を切り取り、口に運んでいく。朝にしていた食べさせ合いは、ここでは行われないようだ。要の言葉を借りるなら、それもまた気分なのだろう。


「冷たくておいしいね」

「うん。日が変わっても味はそのままって、沙織はお菓子作り上手だね」

「えへへ。彩の教え方がうまかっただけだよ」

「でも作ったのは沙織なんだから。私は凄いと思うよ。また作ってほしい」

「もちろんだよ! わたしの作ったものを要が食べてくれると、なんだか嬉しいし」

「それは私も同じだよ。私の料理を食べておいしいって言ってくれると、作ってよかったなって思うから」

「……要」

「なに?」

「はい、あーん」


 差し出されたケーキを要がくわえた、そんな間食の一コマ。







 夕食の準備も、することの内容は違えども大筋では変わらない。米を炊き、野菜を切り、調味料を混ぜる。漂うのは空腹を誘う香り。昨日と変わらぬ光景。

 それでも、違うことが起こらないとは限らない。


「今日はわたしがお風呂掃除する!」


 沙織のそんな宣言が一例だ。変化を求めての言葉だろうか。


「じゃあ、お願いしちゃおうかな。スポンジはこれ。洗剤はこれね」


 要から必要な物を受け取り、沙織は浴槽を磨き始めた。日々の手入れが行き届いているのか、目立つ汚れは見当たらない。洗剤が必要ないほどだ。

 手を動かしながら、沙織は余計なことを考える。今日もまた要と一緒に入浴できるだろうか。そうしたら、昨日のお返しに要の髪を洗ってあげようか。


 シャワーで洗い流しながらも雑念は止まらない。明日からは要だけが使うこの浴室。そもそもこの二日間だけが特別で、普段から要はこの浴槽に一人で浸かっているのだ。一人で体を洗い流す要の姿を脳裏に浮かべ、言い表しがたい感情で体を熱くさせる。

 浴槽の隅を撫で、ぬめりがないことを確認してから掃除を終えた。目を閉じて息を吐き出し、気持ちを平常に戻す。秘かな悪ふざけをした心は、なかなか高ぶりを抑えられない。

 沙織が撫でたのは昨夜要が腰を落ち着けていた場所だった、そんな夕方の一コマ。







「ほら、沙織。これすっごくおいしくできたんだよ」

「んーっ。ほんとだ。もう一個いい?」

「何個でもいいよ。はい」

「……ふぅ。今度はわたしが食べさせてあげる」

「沙織は何をくれるのかな?」

「それはもちろんこれだよ。わたしが作ったキャベツとキュウリの浅漬け」

「どんな味になったのかな。早く早く」

「待ってね……はい、あーん」

「……あ、ちょうどいい味になってる。パリパリしてておいしい」

「ね、ね。もう一回」

「じゃあ、今度は──」


 少しずつ食べさせ合うからなかなか食べ終わらない、そんな夕食の一コマ。







「要、今日はわたしが頭も洗ってあげる」


 浴室にて、沙織は挽回の一手を繰り出した。


「うん、いいよ。沙織の洗い方が優しいのは知ってるから」


 言葉通りに要の髪を洗う。だが、もちろんそれだけで終わる気はない。そのまま体も洗ってしまおうと思っていた。

 けれど甘かった。スポンジに伸ばした手が掴まれてしまう。


「実はね、いいこと思いついちゃったんだ」


 楽しそうな声の要に導かれ、沙織が座らされる。何をされるのかと身構えたが、髪を洗われただけだった。長い黒髪を慈しむような手つきが感じられる。

 洗い終わり、髪をまとめながら要を見る。浴槽の蓋に手を伸ばしているようだが、裸眼では明確な結論が出せない。


「実はね、体洗うスポンジをそろそろ変えようかと思ってて」


 その手には新しいスポンジがあった。どうやら蓋の上に置いてあったらしい。沙織はまったく気付かなかったし、仮に見えていても正しく認識できなかっただろう。


「さて、沙織。ここに二つのスポンジがあるわけだけど──」


 元々あったスポンジを手渡される。沙織は未だその考えを見抜けない。いや、仮に見抜いていたとしても、この段階で逃げることなど不可能だった。


「──これなら、同時に洗いっこできるよね?」


 その瞬間、沙織は理解した。一を聞いて十を知るよりも、一を聞く前に十を知る方が良いということを。それなら対策もできるというのに。


「ほらほら、立って」


 あっという間に要と向き合う体勢にされてしまった。泡立てられたスポンジが体をなぞる。くすぐったさをあまり感じなかったのは、突然のことに対応し切れなかったせいか。

 けれど、段々とこの状況が素晴らしいことに気付く。沙織も要の体を洗い放題なのだから。つまり、思う存分じゃれ合えるということ。要の発想はこれ以上ないほどの妙案だった。


 抱き締めるように手を回す。要も同じようにしているので、さながら抱擁し合っているかのように見える。いや、この密着具合では本当に抱き合っていると言っても構わないだろう。

 先ほどから感じているのは要の胸だろうか。改めてその大きさを実感する。同時に自分の胸と比較してしまう。身長差のため、要の顔は胸へ抱き入れるのにちょうど良い位置にある。もし自分の胸が豊かなら迷わず抱き込んでいたのに──と、沙織は少しだけ悔しい思いをした。

 けれど、こうして触れ合えたことは貴重な思い出になりそうな、そんな浴室の一コマ。







「はぁ……」

「ふぅ……」


 熱い湯に浸かると声が出るのは自然なことなのだろうか。それでも二人の少女が出す声は、ある種の幻想を抱く人には聞かせられないほど気が抜けていた。

 要と沙織は互いに斜め向かいの角に腰を落ち着け、できる限り足を伸ばして浴槽に入っている。多少膝が曲がって三角座りのようになるが、それは要も同じことなので仕方ない。

 沙織のすぐ横には要の足がある。その先端から徐々に視線を進めていく。脛、膝、太腿。揺らめく湯面は元々はっきりしない視界を歪ませる。それでも辿り着いた顔では、求めていた微笑みが待っているのがわかった。


 要が湯の中で手を伸ばす。沙織はすぐに自分の手を重ねた。繋いだ手を振り動かしたり、握り合ってみたり、指を絡めてみたり。昨日よりも触れ合う面積は少ないけれど、それでも沙織は満足していた。

 どちらかがのぼせそうになるまで続く、そんな入浴中の一コマ。







「涼しいなあ……」

「もう秋だからね」


 長湯で火照った体を冷ますため、二人はベランダで涼んでいた。住宅街の明かりがちらほらと見え、明かりが消えている家の方が目立っている。午後十一時ともなれば、ここでは珍しい景色ではない。

 二人が座るのはキャンプ用の携帯椅子。要は実家でもこうして使っていたらしい。二つ用意できたのは予備があったためである。


 いくつか虫の声が聞こえる。鳴き声の主がどのような虫なのかは二人にもわからないが、それでも構わない。ただ二人の世界を彩る音でしかないのだから。うるさくもなく、独特の旋律で、時に途切れたりもする気まぐれな演奏。

 暗い空に輝く月と、数えるほどしか確認できない星たち。眺める対象はいくらでもある。たとえば、すぐ隣にも。

 なんとなく手を繋いでみる、そんな夜の一コマ。







「今日は昨日みたいにすぐ寝ちゃったりしないからね」

「別に寝たっていいんだよ? 沙織の寝顔かわいいんだから」


 既に部屋の電気は消え、二人は布団の中。当たり前のように手を繋ぎ、思いつきの会話をする。


「あ、目が慣れてきた」

「今頃? 私はとっくに沙織の顔を見てたけど」

「きっと要は毎日暗くしてるから慣れてるんだよ」


 会話が止まれば、代わりに手が動く。体をつつき合い、握る手に力を込める。顔を向け合い、微笑み合う。時間がどれだけ過ぎても気にしなかった。


「来年の誕生日も、こうやって過ごせるといいね」


 ふと、沙織がそんなことを口にした。幸せすぎると、それを失った時のことを考えることが恐ろしくなる。そんな感情から来た不安だろうか。


「きっと過ごせるよ。少なくとも私はそう思ってる」

「わたしだって思ってるもん。要だけじゃないよ」

「ふふっ」

「えへへ」


 繋いだ手が離れないように指を絡めた、そんな就寝前の一コマ。


 大きな事件が起こらなくても、二人が楽しめればそれで良い。何もないと言っても、要と沙織は確かにそこにいるのだから。

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