四月一日 入学式と初めての出会い(3)
大学の講義に使われる東棟は、それぞれの階層の特徴が大きく三つに分けられる。一階から四階は小教室、五階と六階はパソコンルーム、七階から十階は大教室となっている。
二人は各階を見ながら階段を下りる。途中五階と六階では、パソコンルームを見ることができなかった。
「残念だけど、ここは仕方ないよね……」
沙織が申し訳なさそうに言った。
「気にしないで。防犯のためだと思うし、麻生さんのせいじゃないよ」
その踊り場には扉があり、カードキーを使わなければ入れないようになっていた。大学の学生証が専用のICカードとなっており、高等部生徒である二人は中に入れなかったのである。
「うん……じゃ、気を取り直して次に行こう!」
さらに階段を下りると、どこからか話し声が聞こえてきた。一つや二つではなく、複数の声がする。今までの階では起こらなかったことである。
「あ、やってるやってる」
周囲を見渡してそう呟き、沙織は続ける。
「これはね、サークル活動の集まりなんだよ。隣にサークル棟があるんだけど、そこに部室があるのは大きいサークルばかりなの。だから部室がないサークルは、講義がない時に教室を部室代わりにして活動やミーティングをするんだって」
久永学園では、部やサークルの活動が大学と高等部合同で行われている。これも学園長の策であり、両者を隔てる壁を取り払う狙いがある。なお、それらに所属するかどうかは委員会とは異なり各人の自由となっている。
沙織の説明に、要は「そうなんだ」と頷く。耳を澄ませば、単なる話し合いだけではなく、歌声も聞こえる。歌唱サークルが練習をしているのだろうか。
「いや、まあ、これも受け売りなんだけどね」
沙織は照れ笑いを浮かべた。
そんな姿を見て、要は素直な感想を述べる。
「それでも、しっかり覚えて説明してくれたんだから凄いと思うよ」
「そうかなあ……でも、うん、ありがと」
そう言って沙織は微笑んだ。それを見た要は思わず視線を逸らした。
なぜそうしたのか理由はわからない。ただ、決して嫌悪からそうしたわけではないとは断言できる。あえて言い表すならば──照れ、だろうか。
要は逸らした視線を沙織に戻す。沙織は歩きながらさりげなく教室の中を覗いている。一通り見終えたのか、再び沙織が要の近くに戻る。
「活動の邪魔になると悪いから下に行かない? たぶん、一階までこんな感じだと思うから」
「うん、わかった」
実際に三階と二階でも、同じようにサークル活動が行われていた。そこでは教室がどれくらいあるのかを簡単に見る程度で済ませて一階に下りた。
東棟から出て、要が尋ねる。
「次はどこに行くの?」
「んーとね、あそこだよ」
沙織が指差した先には北棟があった。今日の午前中、入学式が行われていた場所である。そのため入ったことはあるのだが、すべてを見たわけではなかった。
「北棟にはね、図書館が入ってるんだよ。これからわたしたちがお世話になるところだね」
「図書委員だからね。──そういえば、麻生さんはどうして図書委員を選んだの?」
「ルームメイトが図書委員にするって言っててさ、それならわたしも同じのにしようって思ったんだ。……ちょっと不真面目だったかな?」
「いいと思うよ。私だって本を読むのが好きだからって理由で決めたから」
会話をしながら二人は北棟に向かって歩く。遠くから見てもわかる大きさ。近付くにつれて、視界の大半を北棟の建物が占めるようになる。
北棟には図書館だけでなく、入学式が行われた講堂、体育館、講義用教室、保健センター、就職課など多数の施設が入っている。
二人は自動ドアを通り、北棟へ入る。
エントランスホールは吹き抜けになっており、目の前には二階へ繋がるエスカレーターがある。左側は広い通路になっており、その途中にはいくつかの扉と部屋があるようだが、その中がどうなっているのかここからではよく見えない。
「まずはこっち。ここが図書館だよ」
沙織は入口から右側の扉へ移動した。その扉の先が図書館である。
図書館は北棟に付属する形で造られており、五階建てとなっている。一階から三階までが一般書架として開放されている。四階と五階は書庫となっており、古書や貴重な本などを多数保存しているため一般には開放されていない。
図書館の入口は、先ほどのパソコンルーム前でも見たような、ICカードを使うタイプのものであった。読み取り部にカードをかざして入るのだが、ここは高校の生徒証でも入れるようになっている。高校と大学、それぞれが図書館を共用しているためである。
「ここにカードを当てて──ほら、開いた。自動改札みたいな感じだね」
沙織が実演してみせた。その言葉通り、入口はまるで駅で見慣れた自動改札そのものだった。読み取り部にカードをかざせば、先にあるフラップドアが開く。要も沙織に倣い、図書館へと入った。
要は改めて図書館内部を見回す。右前方には階段があり、左側には貸出カウンターがある。そこには職員だけでなく、学生や生徒と思われる姿も見える。あの中に図書委員もいるのだろうか。
「どうしよう、とりあえずざっと見てみようか? 明日もまた来るし、その時に詳しい案内もしてくれるだろうから」
「うん。それでいいよ」
沙織の言葉に要は同意した。二人は歩き出し、図書館の探索を始める。
一階には哲学書や歴史書などの専門書の他に、日本語や外国語の各種新聞、雑誌が配置されている。二階には政治経済や法律といった文系の本と、科学技術や数学といった理系の本。三階は芸術や言語学、文学系の本がメインとなっている。高校と大学が共同で使う都合上、入門書から専門書まで幅広く備えられている。
他にも特設コーナーやパソコンもあり、特殊な設備としては静かに読書や学習などをするための静粛室といった部屋もある。そのため館内は当然広く、簡単に見て回るだけでも結構な時間がかかった。
「──やっぱり広かったね。疲れてない?」
入口へと戻ってきて、沙織が言った。
「うん、大丈夫」
「よかった。でも、時間も遅くなってきたし、そろそろ帰ろうか?」
「そうだね」
図書館から出て、北棟からも出る。
「残ったところの案内はまた今度かな……」
そんなことを沙織が呟いた。また今度。それはつまり、次があるということ。また一緒に沙織と歩けるということ。期待してもいいのかどうか要は判断に困っていた。
学園の北東にある門へと向かう。この北門から出ると、すぐに学園寮が見える。寮の入口前に着くと、沙織が要に振り返る。
「今日は付き合わせちゃって、ホントごめんね?」
「ううん、色々と教えてくれたし感謝してるよ」
それは要の本心であった。
「それならよかった」
沙織は表情を緩め、手を振りながら寮へと向かう。
「それじゃ四十崎さん、また明日ね!」
「うん、また明日」
要も小さく手を振って見送った。しばらくして沙織が見えなくなり、要は手を下ろした。そのまま閉ざされた寮の扉を見つめる。
いつまでも見ているわけにもいかず、要も帰ることにした。
その途中、駅前のデパートへと立ち寄った。
小売業界での生き残りを賭けた値下げ合戦の波は広がっており、このデパートも例外ではなかった。様々な商品が値下げされ、その恩恵を要も受けていた。こちらに移り住んで以来ほぼ毎日利用しており、今日も夕食の材料を買うために寄ったのだった。
要が一人暮らしを始めたのはつい最近であるが、以前から料理をしていたこともあり、自炊に関して不便することはなかった。あえて言うならば金銭的な問題くらいだった。
一通り店内を見て回り、山積みセールの野菜をいくつかとシリアル食品を買ってデパートから出た。ここからは寄り道をすることもなく、要は自室のあるマンションへと向かって歩き始めた。
*
ようやく寮の部屋に戻った秋奈は、先ほどの光景を思い返していた。
信頼した様子で寄り添う二人。見ているだけでこちらもうっとりとしてしまった。二人からは、幸せや安らぎといった柔らかな感情ばかりが伝わってきた。
確か背の低い方は、同じクラスだったはず。名前は……小野原彩と言っていた。同じ委員会になったから、なんとか覚えている。
秋奈もベンチの二人も時間を忘れて、それぞれの世界に陶酔していた。それが永遠に続くような錯覚に囚われたが、ふと二人が何かを話し合ったかと思うと、立ち上がってどこかへ去って行ってしまった。
──おそらくあれが、女性同士のカップル。単なるじゃれ合いなどではなく、二人は真剣な気持ちなのだろうと簡単に推測できた。
目標に向けて一歩前進したように感じた。これならば達成も夢ではないかもしれない。机に入れた今日の手紙を意識しつつそう思った。
このまま机に頬杖をついていても始まらない。秋奈は机の端から本を取った。目標に少しでも近づければと考えて買った本である。
本を読んでいても、あの二人の姿が頭をよぎる。いや、こんな本を読んでいるから、なおさら考えてしまうのかもしれない。表情が緩むのを止められない。
あまり読書に集中できずにいると、部屋の扉が開けられた。
「ただいま!」
部屋に入るなり、沙織は開口一番に言った。
「あ、おかえり」
秋奈は本から顔をあげ、沙織の方に向き直った。平静な顔に戻そうと必死になっていると、沙織が嬉しそうな微笑みを浮かべていることに気付く。
「どうしたの沙織、何かいいことでもあった?」
「よくぞ訊いてくれました! 実はね、早くも友達ができたの!」
興奮を隠さずに沙織が答えた。
「それだけじゃないよ。一緒に図書委員にもなれたし、学園の案内もしたんだよ」
「それはよかった。うん、おめでとう」
秋奈は大袈裟に頷き、沙織の言葉を思い返す。
「あれ、図書委員って言った? ってことは……」
「そう、秋奈とも一緒。だから明日紹介するね!」
「それは楽しみだねぇ。一体どんな人が沙織のハートを打ち抜いたのか……」
秋奈は手を顎に持っていき、笑みを浮かべた。
「ちょ、ちょっと、そんなんじゃないってばー」
手を勢いよく振りながらも、沙織は嬉しそうに笑い続けていた。
「それで、学園の案内をしたってことは、ちょっとは私のおかげになるんじゃない?」
「そうだ、秋奈がいなかったら案内なんてできなかったよね。ありがと! それにしても今日は本当に楽しくてさ──」
秋奈は沙織の話が長くなるだろうと感じ、開いたままになっていた本を閉じて机に置いた。表紙にはカバーがしてあるので、どのような内容の本なのかはわからなかった。
薙坂秋奈は沙織のルームメイトである。初めて二人が出会ったのは今年の三月の終わり、学園寮への入寮の時期であった。少しだけ早く入寮していた秋奈の部屋に、後から入ってきたのが沙織であった。
既に学園内を調べ、探索していた秋奈は沙織を連れて案内した。その時の経験を、今回沙織が活用したということである。
──ほんの一瞬だったが、楽しげに話す沙織と、あの二人の姿が重なって見えた。幸せそうな雰囲気がそうさせたのだろうか。
秋奈は軽く頭を振って幻覚を振り払い、沙織を微笑ましく思いながら見つめていた。
*
時刻は夜十一時をわずかに過ぎた頃。テレビやラジオなどは消え、蛍光灯が放つ光だけが部屋を満たしている。
今日やるべきことをすべて済ませ、あとは眠るだけとなった。入浴により火照った体を休ませるため窓際で風にあたりながら、要は今日あったことを思い出していた。
見知らぬ学園で出会った見知らぬ少女。話しかけられ、昼食を一緒に食べ、学園内を回った。今までにはなかった体験だった。最初は戸惑いこそしたものの、いつの間にか受け入れていた。そんな自分を不思議に感じたが、正直な感想を言うならば──楽しかった。嬉しかった。同時に、もっとこちらからも話しかけて喋るべきだったと後悔した。
そして今。この部屋は静まり返り、自分以外に人はいない。それが自ら望んで作り出した状況だとしても、孤独には変わりなかった。
これ以上考え続けると、苦悩の悪循環に陥る可能性がある。早く今日という日を終わらせようと、要は電気を消して布団に潜り込んだ。
春とはいえ、初めのうち布団は少し冷たかった。