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八月三日 プール日和と帰省の決意

「あ、要さんだ。おーい」


 プールの最寄駅の改札口で、秋奈が手を振った。そこへ向かって要が歩く。

 秋奈は沙織と一緒に来ており、皆が来るのを待っていた。


「おはよう。沙織、秋奈さん」


 午前九時五分。まず要が現れた。悠希と彩はまだ姿が見えない。


「おはよう。今日も暑いね」

「おはよ。要さん、彩たち見た?」

「暑いね。早く涼みたい。えっと、見てないよ」

「そっか。まあ、まだプールが開くには時間あるし、待ちましょうかね」


 開園は午前十時からとなっており、それと同時に入ろうとこの時間に集合することにしたのだった。


「ごめーん! 時間まだ大丈夫?」


 声のする方を向けば、彩が手を振りながら走ってくるのが見えた。小脇に抱えた鞄を振り乱し、そのまま飛び込んできそうな勢いだ。

 その少し後ろに悠希が小走りでついている。白いコットンハットを押さえながら、ワンピースの裾が翻らないような小走りで。


「まだそんな慌てなくていいよ」


 秋奈も手を振って二人を迎える。プールまではバスで二十分ほどなので、その言葉は正しい。それでも彩は速度を落とさない。


「いやー、ごめんごめん。準備に手間取ってさ」


 彩は膝に手をつきながら「あっつい」と汗を拭った。


「ほら、汗拭いて。お茶もあるわよ」


 追い付いた悠希が彩にタオルを手渡した。


「ありがと。もらうね」


 それを受け取り、額に当てる彩。上下する肩の横で、悠希が秋奈を見る。


「彩が落ち着くまで、少しだけ待っていただけますか?」

「ええ、それはもちろん」


 数分で彩が落ち着いたので、一同はちょうど来ていたバスに乗り込んだ。駅前の狭い道を抜けると、遠くまで見通しがきくようになる。

 バスを降りたのは、いわゆる陸の孤島と呼ばれる地域である。徒歩での遠出はあまりせず、車での移動が主となる場所。広大な景色の中で、自然が立ち並ぶ穏やかさと、車の走行音が響く騒がしさが混ざり合っている。

 同じバス停で降りた人のほとんどが、同じ方向に歩いていた。もちろん五人もその中に含まれている。バスに乗っていた時から見えていた建物が、次第にはっきりと姿を現す。周囲より頭一つ高い位置に見えるのは、名物のウォータースライダーだ。


「時間は? そろそろ開きそう?」


 彩に訊ねられ、秋奈は携帯電話を開く。


「十時一分だから、もう先の方では入ってるんじゃないかな」


 言いながら行列の先を覗き見た。体ごと頭を動かして色々な角度から見ようとしている。


「あ、前が動き始めたよ」


 それでも、背の高い沙織には勝てなかった。

 秋奈は大袈裟に肩をすくめてみせ、流れに乗って歩きだした。事前に予想していた通り、並ぶ人の数はそれほど多くはない。長時間待つことなく五人はプールの受付をくぐれた。


「さて、水着お披露目会のはじまりはじまりー」


 更衣室で、秋奈が妙なトーンで言った。そのまま他の四人に視線を走らせる。


「お披露目会って……ねえ」


 沙織は苦笑して要を見た。


「秋奈さんっぽくて、いいんじゃない?」

「いやいや、そういう二人がメインなんだからね」

「なんで?」


 沙織がきょとんと首を傾げた。


「そりゃ、二人ともこーんなスタイルいいんだしさ。当然でしょ?」

「アイちゃんとさおりんの水着姿か……授業とは一味違って、いいんだろうなあ」


 秋奈に続き、彩までもが要と沙織を舐めるように見た。


「ちょ、ちょっと、やめてってばー」


 沙織が体を隠すように腕を回した。その隣で要は自分と沙織の体を交互に見ている。


「やっぱり、背が高いといいな」

「要まで同じようなことを!」


 四人がはしゃぎ合っていると、悠希がそこに近付く。


「ふふっ。皆さん、早く着替えないと時間がもったいないですよ」

「あれっ。悠希、いつの間に着替えたの?」


 彩の言葉通り、悠希は既に水着姿だ。先ほどまでのワンピースと同じく白い水着が、肌の白さに同化しそうである。


「それだけ彩がはしゃいでいたってだけのことよ」

「こうしちゃいられない。あたしも着替えないと」


 彩が抜けたのをきっかけに、残された三人も着替えるためロッカーに向かった。







 突き刺すような日差しが、シャワーで冷えた体を瞬く間に温めた。秋奈は空を仰ぎ、太陽に向かって伸びをする。


「んーっ、プールだ!」


 その身を包む水着は、黒混じりのブラウン。沙織に負けず劣らずの身長に加え、凹凸のはっきりしたスタイルの良さも相まって、周囲の視線を集めている。


「どうする? まずはアレ、行っちゃう?」


 彩が指差す先にあるのは、外で並んでいる時にも見えていたウォータースライダーだ。ここからは遮る物がなく、その全景が見て取れる。何度もカーブを繰り返す滑り台の全長は六十メートル。早い時間だというのに、既に滑る人の姿がある。歓喜の声と水しぶきが辺りに飛び交っていた。


「いいね。メインを先に持ってくるの、嫌いじゃないよ」


 秋奈が同意した。


「決まりだね……っと。みんなはどうする?」


 彩が振り向いた。その仕草と赤い水着が眩しく光っている。

 要と沙織は眼鏡を外している。度が入ったゴーグルを着けるという案もあったが、裸眼で全く見えないわけではないので採用しなかった。


「わたしは後でいいや」


 まず答えたのは沙織だった。要がそれに続く。


「私も、まずは他のところを見てからにする」

「わかった。悠希は?」

「そうね……とりあえず、あそこに行こうかしら」


 悠希が見る先には、売店がある。パラソルの下に置かれた机と椅子。そのセットが十個ほど確認できた。


「えーっ、もう休むの? せっかくプールに来たのに」

「だって、暑いんだもの。何か飲みたくて」

「暑いならプール入ればいいのに……」


 そう彩は呟いたが、最後には納得したらしい。


「それじゃ、一時解散だね。泉沢先輩、彩を借りていきます」

「ええ、どうぞ。彩を楽しませてあげてください」

「では皆の衆、また後で!」


 秋奈は手を振りながら、彩と共にウォータースライダーへと向かった。

 その姿が見えなくなってから、悠希は振っていた手を下ろす。


「さて、私は先ほども言ったように売店へ行きますが、よろしければご一緒しませんか?」

「えっと、どうする?」


 沙織は要に意見を求めた。それに頷いて答え、要は悠希に目を向ける。


「構いませんよ。お願いします」

「ありがとうございます。では」


 そう言って悠希が歩きだしたので、要と沙織もそれに続く。

 パラソルが日陰を作っているが、それでも椅子に座る体全部を覆うほどのものではない。特に脚は常時日光を浴びている。


「どうぞ飲んでください。付き合っていただいたお礼です」


 悠希が机に人数分の紙コップを置いた。中身はオレンジジュース。こういった場所での飲食は、理由もなく興奮するものである。


「いただきます」


 一口飲めば、すぐに広がる甘み。ここに来るまでに少なからず疲れていたのだろう。全身に糖分が染み渡るようだった。要の体から無駄な力が抜け、椅子に体重を預ける。


「あー、おいしい」


 沙織も同じようで、幸せそうな顔をしていた。


「少し休んでいきましょう。プールは逃げたりしませんから」


 悠希は普段通り、包みこまれるような笑顔を見せていた。

 それから三人は、しばらく話し込んだ。今の話題は沙織が要の部屋に泊まったことについて。五月の時だけではなく、それ以降も何度か泊まっていた。


「気になったのですが、麻生さんが四十崎さんの部屋に泊まるばかりですね。その逆はなかったのですか?」


 言われて要は沙織と視線を交わす。


「沙織の部屋に行ったことはありますが、泊まったことはありません」

「それはなぜですか?」


 悠希の質問に続くのは沙織。


「それは……秋奈に気を遣いそうというか、気を遣わせそうというか」


 的を射ない沙織の言葉にも、悠希は納得したように頷く。


「そういうことですか。確かに、二人部屋ならではの問題ですね」

「まあ、泊まらなくても沙織といるだけで嬉しいんですけど」

「わたしも要といると楽しいから、別に気にしてません」

「お二人は本当に仲がよろしいのですね」


 悠希は口元に手を当てて上品に笑った。







「そろそろプールに行かなくてもよろしいのですか?」


 ジュースを飲み終わった頃、悠希がそんなことを言った。あまり引き留めては悪いと感じたのか、もう話すことはないということなのか、要にはその真意はわからない。


「では、失礼します。ごちそうさまでした」


 しかし、これは良い頃合だった。わざわざ背中を押してくれたのだから、それに従うのが道理だろう。それに、早く水を浴びたかった。


「ごちそうさまでした!」


 沙織も立ち上がり、要の後に続く。


「付き合わせてしまってすみません。楽しんできてくださいね」


 手を振る悠希に、要と沙織も応じた。

 プールには、それほど人は多くないが、それでも空いているというわけではない。


「要、勝負だ!」

「やるからには負けないよ?」


 何をしたかと言えば、まず何秒間潜っていられるかの競争。


「それっ」

「やったなー。えいっ」


 そして水を掛け合ったりして楽しんだ。互いに眼鏡を外しているからか、文字通り二人の距離が近い。姿をはっきり見るためか、どちらからともなく顔を寄せ合っていた。

 一通り遊んだ後は、プールサイドに座り、膝下を水に浸けながら休んだ。


「そろそろ、あっち行く?」


 そんな時、沙織が言った。示したのはプールの目玉。


「うん。行こうか」


 要もウォータースライダーを見た。ぼやけてはいるが、その大きさは十分に把握できた。

 ウォータースライダーの近くへ行くと、秋奈と彩に出会った。こちらに向かって歩いて来る。


「おー、おふたりさん。これからあっちいくのかい?」


 自分の後方を示す秋奈の声は、力が抜けていた。体も疲れ果てたように背筋が曲がっている。


「あれはたのしいよおー。たのしすぎてはまっちゃうよおー」


 それは隣を歩く彩も同じだった。微笑んでいるのだが、疲労が滲むせいか不気味な印象を放っている。


「どうしたの、二人とも」


 要が心配そうに声をかけた。


「いやなに、ちょっとはしゃぎすぎただけですよ。はは」

「秋奈、肩で息しながら言われても……」


 沙織は苦笑していた。


「ほらほら、あたしたちはいいから、いってらっしゃい」


 彩は手を動かして二人を促すが、だらりとしたその様子は依然として不気味さが拭いきれていなかった。


「えっと、泉沢先輩がまだ売店にいるかもしれないから行ってみたら?」

「そうする。ありがとね」


 秋奈は力無く手を振り、彩を連れて歩いていった。

 階段を上り、ウォータースライダーの頂点に立つ。数人が順番待ちのために並んでいるが、待ち時間は短く済みそうだ。


「要、ちょっとあれ見て」


 沙織が示したのは列の先頭、人々が滑り落ちていく場所だった。


「なんか、二人で滑ってるね」


 そこでは、専用の浮き輪を使い、二人一緒に滑り落ちる姿があった。専用とはいえ、小さなゴムボートのような物だ。二人の体は見事に密着している。


「あれ、使ってみない?」


 切り出したのは沙織だった。


「いいね。でも……」

「どうしたの? あ、もしかして有料なのかな」


 見当違いの心配をする沙織に、要は首を振る。


「どっちが前になるのかなって」


 その言葉に、沙織はしばし考える。


「何度も滑ればいいんじゃない? それで前後を交替してさ」

「いい考え。流石だね」


 自分たちの順番が来て、二人は揃って係員に告げる。


「その浮き輪、使ってもいいですか?」




          *




「二人とも、落ち着きましたか?」

「ええ、おかげさまで。ジュースありがとうございました」


 パラソルの下、俯く秋奈と彩の姿があった。悠希はその隣で相変わらずの表情を浮かべている。


「疲れが取れたら、なんだかお腹減ってきた」


 彩が腹をさすった。言葉通り、先ほどと比べて二人は随分と回復していた。


「何か買って来るわよ?」

「お願い。軽いのでいいから」

「では、少し席を外しますね。薙坂さんは何か食べますか?」

「いえ、私は大丈夫です」


 秋奈は軽く会釈し、悠希を送った。


「それにしてもさ、アイちゃんとさおりん、前と比べたら仲良くなってるよね」


 二人になった途端、彩がそんなことを言い出した。


「確かにね。沙織にいじり甲斐がなくなったのが残念だけど」


 余裕を含んだ秋奈の笑みは長く続かず、続く彩の言葉で固まることになる。


「ナギさんはどうなの? えっちゃんと何か進展あった?」

「私は……」


 ゴールデンウィークから今まで、これといった進展はなかった。いや、あるはずもなかった。今は二人が望んだ停滞の中にいるのだから。顔を合わせることもなく、電話やメールで連絡を取り合う日々を重ねていた。


「何もなかった、って顔に書いてあるよ」


 言葉を続けない秋奈に、彩が呆れたような表情になる。


「うん、面目ない」

「あたしに謝ることじゃないよ。相手が違う」


 鋭い言葉だった。衿香との関係はこのままで良いのか不安になる。衿香が待っているからというのは逃げではないのか。自分に都合良く解釈しているのではないか。衿香のためとはどんなことなのか。衿香に謝るべきなのか。


「そう、だよね」


 溢れ出す疑問は止まらない。何が正しいのか、何が誤りなのか。


「彩、悩ませてはいけないと前にも言ったでしょう」


 気付くと、悠希が横に立っていた。その手にはチキンナゲットを持っている。


「そうだった。ごめん、ナギさん。あたしの言ったことは気にしないで」


 彩は手を合わせながらも、悠希の持つ物に興味津々といった様子だ。


「薙坂さんが思うように、望むように、後悔のないようにすればいいんです」


 秋奈が抱く小さな不審の種火は消えていない。だから優しい言葉をかけてくる悠希が少し恐ろしい。手の内がわからない。今回も、まるで事前に打ち合わせしていたかのような役割分担だった。もちろん、考え過ぎという可能性もあるのだが。

 それでも無下にすることなどできない。色々と相談に乗ってもらって衿香への気持ちが固まったのは確かなのだから。抱えきれないほどの感謝もあるのだ。


「そうですよね。私たちは、今はこのままでいいんです」

「でもさ、たまには会ってもいいんじゃない? 夏休みなんだし」


 彩は早くもチキンナゲットを半分たいらげていた。


「それは、まあ」

「でしたら、今回は薙坂さんが会いに行くというのはどうですか?」


 悠希が思わぬ提案を投げかけた。


「いいね。互いに行き来するなんて、まさに遠距離恋愛って感じで」


 彩もそれに乗っかった。


「そっか、それもいいかも」


 そして、当事者である秋奈も相乗りした。


「おーい」


 向こうから、要と沙織が歩いて来る。疲れているようだが、爽快感が全身から溢れていた。







 その夜のこと。秋奈は寮一階のエントランスホールにいた。多くの寮生は長期休みを利用して実家に帰っている。秋奈や沙織のように残っている寮生もいるのだが、それでも普段より人の気配が少なくなっている。

 なんとなく周囲に走らせていた視線を落ち着け、秋奈は携帯電話の通話ボタンを押す。ソファーに体を預け、衿香が出るのを待つ。


「はいはーい」


 弾んだ声が届いた。自然と表情が柔らかくなる。


「こんばんは。衿香、今いい?」

「もちろん。どうしたの?」

「夏休みで時間あるからさ、そっちに帰ろうかなって」

「ほんと? そしたら、また秋奈ちゃんに会えるんだね」


 素直に喜ばれると、照れ隠しをしたくなる。


「まあ、私が実家に顔出すついでに、ね」

「それでも嬉しいな。会うの久しぶりだもん」

「三日間くらいそっちにいる予定だからさ、ゆっくり過ごそうよ」

「うん。待ってるね」


 それから行く日を決めて、会話は終了した。携帯電話を大事そうに手で包み、秋奈はしばらくそこから動かなかった。

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