七月三日 試験勉強と秘密の計画
今日は土曜なので、授業は午前中で終わった。昼食を各自で済ませ、図書館の入口で待ち合わせる。
要と沙織が向かうと、既に秋奈が立っていた。
「やあ、お二人さん。待ってたよ。今日は色々と教えてもらうつもりだから、よろしく」
「私が教えられることなら」
要が答えると、秋奈は真剣に考える素振りをする。
「そうだねえ。まずは二人がなぜこんなに仲良くなったのか、何がきっかけになったのか……やっぱりあのお泊まりが決め手だったのかな?」
その言葉に、要と沙織が視線を交わす。きょとんとしたその表情は、すぐに微笑みへと変わる。
「なんでって、相性が良かったんじゃないかな」
「うん。沙織といると、なんだか楽しいんだよね」
「わたしも要と一緒だと嬉しくてたまらないんだ」
「お揃いだね」
二人だけの世界が作られようとしていた。完成する前に秋奈が入り込む。
「うん、わかった。私が悪かったよ」
「なんでそんなに疲れた顔してるの?」
「沙織にはわからないでしょうね。それより、中に入ろうよ。もう彩は先に行ってるからさ」
秋奈は図書館の扉を開き、二人を促した。奥の部屋へと向かう途中、カウンターに座る悠希が声をかけてくる。
「皆さん揃ったようですね。私は仕事がありますのでここを離れられませんが、終わり次第顔を出しますので先に始めていてください」
三人は「ありがとうございます」と頭を下げ、改めて奥の部屋を目指した。建ち並ぶ本棚の間を通った先にある一角。そこにある扉が目的地である。
「彩、入るよ」
秋奈が扉を叩くと、中から「どうぞ」と声がした。
「あれ、お茶会は?」
部屋に入るなり沙織が言った。机には教科書や参考書が並び、どう見てもお茶会の雰囲気ではない。
「勉強が一段落したらね。と言うか、すればね。ほらほら、座って」
秋奈は手近な椅子に座り、要と沙織に手招きした。
「お茶会……」
「後で泉沢先輩も来るって言ってたから大丈夫だよ。ほら、とりあえず座ろ?」
目に見えて落胆した沙織の手を引いて、要も席に着いた。秋奈と彩は、机を挟んで反対側に座っている。
既に秋奈と彩は教科書やノートを開いている。
「さてと、始めますかね。打倒、数学」
「あたしは世界史やらないと」
「歴史系なら沙織が得意だから教えてもらったら?」
「ほんと? さおりん、王朝の名前が多すぎて困ってるんだけど、いい覚え方ない?」
「……前後の出来事、たとえば誰が開いて誰に滅ぼされたとかを一緒に覚えるといいよ。なんでもそうやって繋げて覚えると頭に残りやすいから」
俯き加減の沙織が呟いた言葉に、皆が感心する。
「さすが沙織。こんな有様でもいいこと言えるじゃない。あとで私の数学もよろしく」
「なるほど。さおりんってほんとに頭いいんだね」
「沙織、歴史好きだもんね。私にも教えてほしいな」
最後の言葉だけが届いたようで、沙織は顔を上げる。
「しょうがないなあ。どこがわからないの?」
その表情から暗い感情が消えていたので、要はひっそりと安心する。
「日本史なんだけど、文化史がちょっと不安なんだ」
「これも繋げて覚えるのが基本なんだけど……わたしの覚え方、聞いてみる?」
「うん。お願い」
「あのね、頭の中に部屋をいっぱいイメージするの。それぞれが一つの時代、縄文時代とか平安時代とかの部屋なのね。部屋の中には誰が何年に何をしたかって流れがあって、その横に文化史も一緒に並べちゃうんだ。それで最後に、部屋を全部くっつけるの」
「そうすると、全部が一つにまとまって繋がるから覚えやすいってことかな」
「その通り! さすが要は頭いいなあ」
要と沙織がそんな会話をしている反対側では、彩と秋奈が目を合わせている。
「なんだか、あたしにはついてけないかも」
「大丈夫。私もだから。あの二人の話はシグマの計算式よりも難しいよ」
「……なんだっけ、それ」
「一緒に数学やる?」
「うん。二次関数も不安だから」
それから四人は試験勉強を続けた。
本のページをめくる音と、ノートに文字を記す音。わからない部分を質問する声と、それに答えて教える声。冷房で冷やされた静かな部屋には、勉学に励む少女たちの姿があった。
「んーっ、ちょっと休憩しようか」
秋奈が伸びをしながら言うと、他の三人も続く。
「もう二時間たってる。早いなあ」
「そろそろお茶の時間?」
「原点と第二象限の任意の点Xを通るグラフがあり、これをY軸方向に平行移動させるとき、次の問いに答えなさい」
「彩、あんたは数学の世界から戻ってきなさい」
秋奈は彩の肩を揺すった。
「二次関数、解の公式、たすきがけ、忘れちゃいけない、平方完成」
「ダメだ。本格的に休まないと取り返しがつかなくなる」
秋奈は彩の手から教科書を取り、机に開いたままのノートと共に閉じた。
沙織と要も本を閉じながら話している。
「要、覚えるの早いから教えてて楽しかったよ」
「沙織の教え方が上手だからだよ」
「えへへ。今度は要に教えてもらいたいなあ」
「いいよ。なんでも教えてあげる」
「じゃあね、試験範囲全部」
「もう、しょうがないな」
「うん。ホントにしょうがないや、これ」
秋奈が肩を落とし、深い溜息をついた。
不意に扉を叩く音が聞こえたかと思うと、すぐに開かれる。
「すみません。遅くなりました」
入ってきたのは悠希だった。その顔を見て、秋奈は安堵して立ち上がる。
「待ってましたよ……もうクタクタです」
表情に疲労を隠さず悠希へと近付いた。
「あの、どうしたのですか?」
悠希は秋奈を見やり、続けて部屋の内部へと視線を走らせる。
ぐったりとした秋奈、心ここにあらずといった様子で何かを呟いている彩、周囲に花畑でも浮かびそうな空気を振りまく要と沙織。勉強会の空気はどこにも感じられない。
「泉沢先輩が最後の希望なんです……なんとかしてください。お願いします」
「えっと、まずは状況を説明していただけますか?」
「勉強してたら、いつの間にかこうなりました」
「よくわからないのですが……」
「私にもわかりません」
困惑する悠希と、放棄した秋奈。この場が収束するには、もう少し時間が必要となる。
その後、悠希が顔を寄せると彩は驚くべき速度で正気に戻り、沙織が悠希の存在に気付いてお茶会を要求したことで、場の空気は正常に戻った。
「やっぱり泉沢先輩の紅茶は最高です!」
そして開かれたお茶会。早くも沙織が舌鼓を打っていた。今は夏だということもあり、飲んでいるのはアイスティーである。
「今日はアールグレイを淹れてみたのですが、どうでしょうか」
「少し渋みがありますけど、それが引き立て役になっておいしいです」
答えた要に、沙織が続く。
「その通りです。渋みが引き立ってます」
「それじゃ意味合いが違ってくるでしょうが」
秋奈が沙織の肩を叩いた。彩の隣は悠希に譲り、今は沙織の隣に座っている。
「ねえねえ、マフィンの味はどう?」
もちろん今日のお茶菓子も彩が作ったものである。ふっくらとした見た目とは対照的に、カリッとした食感の表面。その中にはしっとりとした生地が詰まっている。
「もう最高! 彩の作るお菓子ってアレンジが凝ってるから好き」
「このマフィンはね、バナナと苺ジャムを練り込んでるんだ。あとはアクセントにハチミツを少し入れてるよ」
「いいね。そういうお店じゃ売ってないようなアレンジ。わたしもお菓子作り覚えようかな」
沙織は要をちらりと見た。紅茶を飲み、小さく息を吐き出している。
「ん? どうしたの?」
気付いた要が投げかけてくる視線に、沙織は微笑み返して手を振る。
「ううん、なんでもない。──今度、簡単なのでいいから作り方教えてね」
言いながら沙織は彩に向き直った。
「いいよ。さおりんなら覚えるのも早そうだもんね。それで、作ったら誰にプレゼントするの?」
「えっ? それは……」
再び沙織は要を横目で見た。今回は要に気付かれなかったようだ。
「なるほど、わかりやすいなあ」
彩が小さく呟いた。その声は聞こえなかったようで、沙織は向き直って言う。
「えっとね、秘密」
「ふーん、秘密かー。誰にあげるんだろうなー」
誰が聞いてもわかるほどの棒読みだった。
「教えなーい」
得意気にそっぽを向いた沙織だったが、悠希や彩はもちろん、秋奈にも見抜かれているようだった。心得たとばかりの視線が三つ沙織に向けられている。
ただ一人要だけが、二度目の沙織の視線に気付かなかったために確信を持てず、紅茶を飲み続けていた。




