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五月九日 二人の世界と電話の一日(2)

 デザートを食べ終わってからも会話がしばらく続き、店を出たのは午後二時過ぎだった。


「これからどこか行く?」


 歩きながら要は訊いた。


「うーん。あ、買い物行かない? また要の手料理が食べたいよ」

「いいよ。じゃデパートに」


 自分の料理が褒められると、また作る気力が湧き上がった。


 駅前のデパートへ入り、二人で食材を選んで買った。何を作るか話し合うと、料理を囲む二人の姿が浮かんだ。

 店内を歩いていると、何かに引き寄せられるように沙織が足を止めた。一角に設けられた専門店のスペースで、旅館にある土産物屋のような商品が並んでいる。

 その中で沙織の目を引くのは様々な種類のクッキーの詰め合わせだった。沙織は値札を睨んでいる。


「それ、欲しいの?」

「うん。でも、この値段はなぁ……」

「私もいくらか出そうか?」

「それはダメ! いいの、また今度にするから」


 沙織がその場を離れたので、要はそれ以上何も言わず買い物を続行した。

 デパートの他にはどこにも寄らず、真っ直ぐに帰宅した。


「買った物も置いたし、またどこかに行く?」


 一旦部屋で落ち着いてから要は言った。


「ううん。ここで要といたいな」

「でも、どこかに行きたいって沙織言ってたじゃない」


 沙織はそっと首を横に振る。


「もう行けたからいいの。それに誰かいると要から触れてくれないんだもん」


 確かに外にいる間、要から沙織に触れることはなかった。沙織からは肩を叩かれたり手を握られたりということが何度かあったのに。

 結局、要は周囲の目が気になっていたのだった。


「わかった。ここで一緒に過ごそう」


 要は沙織の隣に移動して肩を密着させた。触れ合う指先に神経を集中させながら、そっと沙織の手に重ねる。要の指先を規則的に打つ沙織の親指が、要の鼓動と共鳴するようだった。

 特にどこというわけではない。デパートから部屋への帰り道、要は考えを巡らせていた。マンションの周辺を歩くだけでも良い。網の目状に区切られた住宅街も、その中にぽつんと開かれた公園も、沙織とならば楽しめる。だが沙織は楽しめるのだろうか。思い切って同じ市内だが少し遠い遊園地まで足を伸ばすべきだろうか。自身の貧相な発想力に嫌気さえ差した。

 だが、当の沙織はそれらすべてを興味から外し、要との時間を選んでくれた。それが要にとって最高の幸せだった。だから要は沙織の手を握り、その幸せが伝わるように願った。


「ねえ、要」


 耳元で囁かれた言葉は、小さくても要の鼓膜を十分過ぎるほどに震わせた。


「どうしたの?」

「要の眼鏡、かけてみてもいい?」


 先ほどのことを思い返すと、要は沙織の眼鏡をかけたが、沙織は要の眼鏡をかけていなかった。それに気付いた要は眼鏡を外し、沙織に向ける。


「いいよ。眼鏡、取ってくれる?」


 沙織が眼鏡を外し、そっと目を閉じる。要はブリッジを持ったまま沙織の顔に眼鏡を近付け、そのままテンプルを沙織のこめかみに滑らせる。自分の眼鏡をかけた沙織は普段と異なるように見えたが、それは眼鏡のせいか、それとも霞んだ視界のせいだろうか。


「これが要の眼鏡……」


 目を開いた沙織は視線を動かし、眼鏡の具合を確かめている。


「どう、かな」


 要の視界は霞んでいるが、裸眼で生活できないほどのものではなかった。


「要の顔、よく見えるよ」


 不意に向けられた沙織の顔が、要の脳裏に焼き付いた。

 眼鏡が生活に欠かせない人間にとって、眼鏡を交換することの意味がこれほどまでに大きかったことを思い知りながら、要は沙織に寄り掛かった。




          *




「さて、そろそろ帰ろうかな。歩きまわりすぎて疲れちゃったよ」

「もう、秋奈ちゃんったら」


 電波の向こうで衿香がくすくすと笑っていた。それを聴いて苦笑しながら秋奈は自身の好奇心旺盛さに呆れていた。

 ファミリーレストランの席で秋奈が衿香と会話をしていると、斜め奥の席に要と沙織が座るのを発見した。背を向けている要はもちろん、こちらを向いている沙織からも気付かれた様子はなかった。


 秋奈は店内に溢れる人々の隙間から二人を観察し続けた。それは二人が店を出てからも終わらず、秋奈は適当な距離を置いて後ろを歩いていった。衿香と話す声も小さく抑え、二人の様子を逐一話題に取り上げた。デパートでは携帯電話で何を買うか指示されているように振る舞い、実際にいくつか消耗品を購入した。

 最後に二人がマンションに入っていく場面を見送って、ようやく尾行は終わった。

 そこで秋奈は要の住居を今まで知らなかったことに気付いた。マンションを見上げていると、二人が扉を開けて部屋に入るのが見えた。要の意思とは関係なく部屋番号まで知ってしまい、一瞬の鈍い痛みが心に生じた。


「これで沙織のネタがまた一つ増えたよ」


 その痛みを覆い隠すように秋奈はいたずらな笑みを浮かべた。


「でも、要さんと沙織さんが楽しそうでよかったよね」

「そうだね。沙織があの様子なら一安心かな」


 秋奈は小さく息をつき、遥か遠くを見通すように目を細めた。


「秋奈ちゃん、どうしたの?」


 衿香の心配そうな声が、秋奈を現実に引き戻した。


「なんでもない。そろそろ帰るよ」

「うん。先に帰っちゃってごめんね」

「いいんだよ。私が勝手に追いかけたんだから」


 秋奈はマンションに背を向けて歩きだした。




          *




「沙織、そこの戸棚からお皿取ってくれる?」

「えっと、これくらいの大きさでいい?」

「ありがとう。そこに置いちゃっていいよ」


 食事の支度をする二人の姿があった。今日も要が一人で支度をしようとしたのだが、沙織が手伝いたいと言ったので、一緒にすることにしたのだった。一人よりも二人でやる方が効率も良く、何よりも共同作業の楽しさがあった。

 一人では決して経験できない楽しさは、要の原動力となった。調理をする手つきや仕草は普段よりも心なしか弾んだものとなっている。毎日自分だけのために作っていた料理を沙織に食べてもらえた。おいしいと言ってくれた。


 それが嬉しくて、もっと何かをしてあげたいと思ってしまう。またおいしそうに食べてくれるだろうか。未来を想像すると口元が緩む。それは後ろにいる沙織に伝わることはなく、要だけの秘め事となった。




          *




 今日も沙織が一番風呂を勧められた。要に悪いと一度は断ったのだが、熱烈な押しに負けて結局入ることになった。


「はぁ……」


 湯船で温まりながら、これまでとこれからのことを考える。要との時間は楽しく、あっという間に過ぎていった。これから夕食を済ませ、二度目の夜が訪れる。眠ってしまえば月曜になってしまう。この時間が終わってしまう。学校でも要と過ごすことはできるが、二人きりではない。残された時間を有意義に使おうと沙織は決意した。

 そのことで頭が満たされてしまい、明日がどういう日なのか完全に忘れていた。




          *




 寮の食堂では夕食が振る舞われていた。満員になるほどの寮生が集まり、それぞれが食事を楽しんでいる。

 その中で秋奈は急いで食事を済ませ、足早に食堂を後にした。夕食で賑わう食堂で携帯電話を使うわけにもいかず、その時だけは衿香との通話を切って食事に専念した。比べるまでもなく、今の秋奈には食事よりも衿香の方が必要だった。


「ごめんね、衿香。待った?」

「ううん、全然待ってないよ。ちゃんと食べてきた?」

「まあね。衿香はどうなの?」

「こっちはまだだよ。もうすぐできるって言ってたけどね」

「私が食事してる間、衿香は何してたの?」

「お風呂に入ってたよ。だから体がポカポカしてるの」


 秋奈は火照った衿香の体を想像する。いとも簡単にその姿が目の前に浮かんだ。


「それならあとはずっと話していられるかな」

「秋奈ちゃんはお風呂どうするの?」

「部屋のやつでさっと済ますよ」

「ケータイお風呂に持って行ったら壊れちゃわない?」

「濡れないようにすれば大丈夫だと思うけど」

「じゃお風呂でも話せるね」

「言ったでしょ? ずっと話せるって」


 一日中衿香と繋がったことで、秋奈は自分の気持ちを再確認した。


「そういえば、昔は一緒にお風呂よく入ったよね」

「そうそう。くっついてお湯に浸かってね」

「秋奈ちゃんの体、すべすべでやわらかくて……キレイだったなあ」


 儚げな衿香の言葉を聴いて、秋奈は自分の体を見る。

 衿香はこの服に覆われた内側を想像しているのだろうか。そう思うと胸の鼓動が速まった。


「衿香だって、小さくてかわいい体してたじゃない」

「あーっ、あたしの胸が小さいって? 気にしてるのになあ。大きい人は余裕だなあ」

「別にそんな大きいわけじゃ……ってそんな話じゃないでしょ」

「秋奈ちゃんの胸の感触、覚えてるよ。あの時いっぱい堪能したから」


 あの時。その言葉が秋奈の記憶を呼び起こす。

 衿香がこちらに来た日のこと。別れを悲しむ衿香を抱き寄せた夕暮れのこと。腕の中に衿香の柔らかさが蘇る。


「私も覚えてるよ。衿香も、ずっと覚えててね」

「うん。絶対忘れない」


 しんみりとした沈黙が訪れた。このまま沈黙に浸り続けるのも悪くはないなと思いながらも秋奈は口を開く。


「衿香は今、何してるの?」

「ベッドでごろごろしてるよ。ご飯ができたら食べに行くから、今はご飯待ちだね」

「じゃあ、衿香が食べ終わってからお風呂に入るよ」

「うん、りょーかい。あ、そろそろご飯できるみたい」

「行ってらっしゃい。ゆっくりよく噛んで食べてね」


 秋奈は充電器をコンセントに繋ぎ、もう一端を携帯電話に挿した。




          *




 要との時間は一瞬で過ぎ去り、あとは睡眠を残すのみとなった。


「今日で終わっちゃうんだね」


 沙織が視線を落とすと、要がその手を握る。


「明日だって会えるじゃない」

「そうだよね。あのね、この二日間とても楽しかったよ。ありがとう」

「よかった。沙織がそう言ってくれると私も嬉しいよ」

「また泊まりに来てもいいかな?」


 沙織が握る手に軽く力を加えると、すぐに要からの返事が届く。


「もちろん。いつでも歓迎するよ」

「ありがと。絶対また来るからね」


 沙織は空いている左手を要と繋いでいる右手に重ね、二人分の手を覆った。




          *




「あのさ衿香。パソコン持ってたっけ?」


 秋奈は自分用のノートパソコンを見ながら言った。


「うん。でも家族共用だけどね」

「あのね、ネット電話ってのがあってさ、パソコンを使うんだけど、これも無料で話せるんだ」

「へーっ。パソコンって凄いんだね」

「でもマイクとか用意しないといけないんだ。他にもウェブカメラってのを使うと、顔を見ながら話せるんだよ」

「それはいいなあ。秋奈ちゃんをいつでも見られるんだね」

「電話するのに必要なソフトは無料でダウンロードできるけど、道具を揃えるのにお金かかるんだよね」

「うーん、考えてみるよ。今日は秋奈ちゃんといっぱい話せてよかったよ」

「私も楽しかった。衿香分を補給できたよ」

「なにそれー。じゃ、あたしも秋奈ちゃん分が満タンになったよ。いい夢が見られそう」


 時刻は午後十一時になろうとしている。互いに明日学校がある身分だということを忘れそうになっていた。


「そろそろ寝る? 寝坊したら大変だし」

「そっか、ちょっと寂しいけど仕方ないよね」

「またこうやって話そうね」

「うん!」

「じゃ、またね。今日はありがとう。ゆっくり休んでね」

「秋奈ちゃんもね」


 携帯電話を置くと、静寂の時が訪れた。周囲は無音のはずなのに、重低音が鼓膜に張り付いて離れない。

 今日の思い出を反芻しながら、秋奈は就寝の準備を始めた。




          *




 布団に入った要と沙織は手が触れるか触れないかの距離を保っていた。

 だが、昨日と同じなのはここまでだった。沙織は小指で要の指に触れる。


「手、繋いでもいい?」


 沙織が囁いた。


「いいよ」


 要が手を動かすと、沙織の手の甲に触れた。指の背で何度か触れ合ってから、二人の手が繋がれた。要の手は少しだけ冷たかった。


「やっぱり、要と手を繋いでると安心する」


 沙織は要に顔を向けた。


「私も、こういうのいいなって思うよ」


 要も沙織に顔を向けた。暗闇に白いマスクがおぼろげに浮かんでいる。

 手を繋ぎ、向かい合う二人。その距離は拳二つ程度である。マスクで要の顔が半分隠されているが、それが逆に良かった。もし唇が晒されていたなら、変に意識してしまったであろう。純粋に要の目を見つめられた。

 与えられ続ける熱が沙織を眠りへと誘う。離れないように手を握り直し、沙織は目を閉じた。左手を動かし、自分の腕ごと要の腕を抱き込むと、要が握った手の指を動かし、沙織の手の甲を二度軽く打った。

 それが沙織に安らぎを与え、自然と眠りに落ちていった。

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