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五月九日 二人の世界と電話の一日(1)

 沙織が目を覚ますと、まず見えたのは自分の左腕だった。

 どうやら眠っている内に布団から飛び出してしまったようだ。その手で目元をマッサージしてから布団の中に戻した。

 裸眼では視界は常にぼやけているが、寝起きということもあってさらにはっきりしない。奇妙に歪んだ世界の中で、沙織の近くにある姿。それを見た瞬間、自分が要の部屋に泊まったことを思い出した。


 要に声をかけようと思ったが、少し考えてやめた。そっと上体を起こして要の顔を見る。要はまだ眠っており、安らかな寝顔で静かに呼吸をしている。マスクは少しずれて鼻から外れ、唇だけを辛うじて覆っている。

 体を戻し、顔を横に向けて要を見続ける。いつもは朝起きるのが辛いのに、今日はこんなに早く起きた。時計を見れば、まだ午前五時である。普段なら見ることのない、少しずつ明るくなっていく世界が周りにある。そんな中で体を休める要がいる。沙織を迎えるための準備で疲れたのだろう。静かに寝息をたてている。


 このまま要の寝顔をもっと見ていようか。そんなことを考えてぼんやりしていると、二度寝の欲求に襲われた。

 まばたきのつもりで閉じた瞼は離れることなく、沙織は再び眠りについた。




          *




 午前七時、要は目を覚ました。普段は六時前後に起きるのだが、今日は特別だった。沙織に悪いと思い、目覚まし時計を切っておいたのだった。左を見れば、沙織は昨夜と変わらない寝顔で安らいでいる。

 このまま布団に居続けるか、それとも起きるかの選択で迷う。体は寝起きの気だるさに支配されている。マスクを外し、ぼやけた視線を沙織に向ける。流れるように投げ出された黒髪を手に取りたくなるが、沙織が眠っているのでは卑怯な気がして手が出せない。

 間近で顔を向かい合わせているが、沙織の目は閉じられているので要からの一方通行の視線だけがそこにある。しばらく見つめていても沙織が起きる様子はない。要は眼鏡をかけると布団からそっと出て、部屋の外へ向かった。




          *




 携帯電話が鳴る音で秋奈は目覚めた。

 眠い目を擦りながら見れば衿香からの着信だった。今日がその日だったなと思いながら電話に出る。


「もしもし」


 掠れた声が出た。


「おはよう、秋奈ちゃん。眠そうな声だけど、もしかして寝起き?」


 秋奈と対称的な元気な声だった。


「うん。電話の音で起きたよ。こんなに朝早くから電話が来るなんて思わなかった」

「ご、ごめん。メールでこれから電話するって先に伝えた方が良かったかな。あの、都合悪かったら一度切って掛け直すよ?」


 衿香の声が戸惑いを含み、か弱いものになった。


「いいよ。このまま電話してようよ。衿香が目覚まし代わりになっただけだし。それに、衿香の声を朝から聴けて嬉しいよ」

「やった。ありがと。それにしても、秋奈ちゃんってお寝坊さんだね」

「休みの日だからいいの。いつもは早く起きてるんだからバランスとらないと」

「寝ちゃってもいいよ。そしたら秋奈ちゃんの寝息を楽しむから」

「それはまた今度ね。今日はもう起きるよ」


 秋奈はベッドから出て洗面所に向かった。もちろん携帯電話は持ったままである。


「ねえねえ、朝ごはん何食べるの?」

「その前に顔洗うから、ちょっとだけ電話置くね」

「いいけど、音が聴こえるとこに置いてね?」

「うん。すぐ近くだから話もできると思うよ。じゃ置くね」


 秋奈は鏡の前に携帯電話を置いて顔を洗い始めた。濡れた顔をタオルで拭いて鏡を見る。ブラシで髪を梳き、寝癖を直していく。


「秋奈ちゃん、聴こえる?」

「聴こえるよ。衿香のかわいい声がね」

「もーっ、すぐそういうこと言うんだからー」


 耳から離していても、その声が嬉しそうに弾んでいるのがわかった。髪は結ばず、長く流した状態のまま携帯電話を取る。


「お待たせ。終わったよ」

「音で秋奈ちゃんの姿を思い浮かべてたから退屈しなかったよ」

「ふふっ。それはよかった。で、朝ごはんだっけ?」

「うん。あたしまだ食べてないんだけど、秋奈ちゃんはどうするのかなって」


 ちょうど冷蔵庫の前にいた秋奈はその中を確認する。


「そうだなあ……あ、ドリンクゼリーがあるからこれでいいや」

「そんなのでお腹いっぱいになるの?」

「朝だからこれくらいでいいの。で、衿香は何を食べるの?」

「昨日の残りかな。ご飯とおかずを適当に」

「朝から食べるねえ。健康的でうらやましいよ」

「秋奈ちゃんもしっかり食べないと体壊しちゃうよ?」

「昼と夜に食べてるから大丈夫だって」


 秋奈はドリンクゼリーを持ったまま部屋に戻り、椅子に腰掛けた。


「ねえ、秋奈ちゃん。一緒に朝ごはん食べない?」

「いいけど、親が何か言ってこない?」

「大丈夫だよ。ね、お母さん?」

「えっ?」


 秋奈が戸惑っていると、衿香とは違う声が届いてくる。


「あ、もしもし、秋奈さん?」

「は、はい。その声は衿香のお母さんですね?」

「お久しぶり。この前は衿香がお世話になったみたいで、ありがとうね。それまで秋奈さんがいなくなって元気なさそうだったのに、あの日帰ってきたらそんなことすっかり忘れてウキウキしちゃって……え、余計なこと言うなって? はいはい、わかったわよ。ごめんなさいね、秋奈さん。衿香につっつかれちゃった」

「いえ、大丈夫です」

「それで本題ね。普通ならずっと電話するなんてことは許さないけど、相手が秋奈さんだってなら安心できるから、今回は特別に認めてあげたってわけ。通話料も無料みたいだしね」

「そうなんですか。ありがとうございます」

「だから、衿香をよろしくね。今日だけと言わず、これからもずっと」

「はい、私もそのつもりです」

「いい返事ね。それじゃ衿香に代わるわね」


 ごそごそと雑音が入る。


「というわけで、親公認の電話なのですよ」

「おみそれいたしました」

「じゃ、朝ごはん食べよ?」


 その声を合図に、秋奈はドリンクゼリーの蓋を開けた。




          *




 再び沙織が目を覚ますと、隣にいるはずの要が消えていた。無意識に手を伸ばし、要が寝ていた場所に手を這わせる。まだ残っている温もりに酔いしれ、さらに意識の境界が歪んでいく。体を要が寝ていた場所に動かし、そこにある枕に顔を沈めようとする。


「あ、沙織、起きた?」


 その瞬間に襖が開かれ、要と目が合った。


「へぇっ? あ、お、おはよう」


 沙織は一気に覚醒した。その急激さで体が震える。布団から飛び出し、身なりを整えた。


「朝食だけど、どうする? 食べるなら用意するけど」

「えっと、じゃ、お願いします」

「何か食べたいものはある?」

「要と同じものがいいな」

「私はコーンフレークを食べるけど……ほんとにいいの?」

「確か牛乳かけないでそのまま食べるんだっけ」

「そうだよ」


 沙織は少しの間考える。


「……うん。わたしもそれ食べる」

「わかった。沙織がそうしたいなら一緒に食べよう」


 要がキッチンに移動したので、沙織もその後に続いた。コーンフレークと皿を出して準備する要を横で見る。


「あ、要と一緒のお皿でいいよ」

「え、でも」

「一緒がいいの」

「……そうだね」


 要も微笑んで大きめの皿に二つのスプーンを添えた。その光景が沙織の想像を掻き立てる。昔テレビドラマか何かで見た、豪華に飾られたジュースから伸びる二又のストローが頭に浮かんだ。

 二人は部屋に戻り、机にコーンフレークが入った皿を置いた。


「それじゃ、食べようか」

「うん。いただきます」


 二人はスプーンを取って食べ始めた。コーンフレークを掬う音と噛む音が部屋を支配する。


「昨日はよく眠れた?」


 食べる合間を縫って要が言った。


「うん。さっき起きるまでずっと寝てたよ」


 沙織は小さな嘘をついた。正直に言っても問題はないはずなのに、要の寝顔を思い出すとなぜか恥ずかしさが込み上げて来るのだった。


「そう、良かった」

「それに要の寝相も悪くなんてなかったよ」


 嘘を隠すために被せた言葉。それが要の動揺を誘ったらしい。


「ほ、ほんと? 蹴飛ばしたりしてなかった?」

「キレイな寝相だったよ。あと寝顔も」

「それは沙織も同じだったよ」

「ふふっ、お互い様だね。こういうのって、なんかいいな」

「うん。こういうのを、まったりっていうのかな」


 食べ終わって片付けが済むと、朝日に包まれた温もりの時間が訪れる。


「要は休日にいつも何してるの?」

「うーん、洗濯かな。でも昨日まとめてやったから、今日は特に何もないね」

「そっか。どうしよっかなあ」


 沙織は体を伸ばした。


「沙織はいつも何してるの?」

「んとね、昼前くらいまで寝てて、午後は部屋でゴロゴロするか外に出るかしてるよ」

「外って、たとえばどこに行くの?」

「適当に歩きまわるのがほとんどかな。体動かさないと夜寝れないからさ」

「じっとしてると体力が余っちゃうんだね」

「まあね。ところで、これからどうする?」

「そうだねえ。晴れてるからまた布団でも干そうかな」

「じゃあさ、それが終わったらさ、その、デートしない?」

「えっ?」


 驚きの声を発した要だけでなく、当人の沙織も顔を赤くしている。


「いや、あの、デートというか、要とどこか行ってみたいなって思っただけで、ほら」


 取り繕うような言葉ばかり浮かぶが、うまく口にすることができなかった。


「──いいよ」


 ゆっくりと、小さな声で要は言った。


「えっ?」

「デート、しよ?」


 要が予想外の言葉を発した。沙織は思わず目を見開く。


「いいの?」

「沙織がそうしたいのなら、いいよ。一緒にどこか行こう」

「うん!」


 沙織は全身で喜びを表現した。




          *




 朝食を済ませてからも電波越しの会話は続いていた。


「衿香の部屋って昔と同じ?」


 会話の途中で衿香は自分の部屋に戻っており、ふと懐かしさを覚えた秋奈はそんな言葉を口にした。


「同じだよー。机も、カーテンも、ベッドもね」

「そっか。昔はよく衿香の部屋に行ったっけ」

「懐かしいなあ。あの日秋奈ちゃんが泊まりに来たのが最後だったよね」

「もう二か月か。あっという間だったな」


 秋奈が卒業式を終えてから久永学園寮に引っ越すまでの一週間、二人は可能な限りの時間を共に過ごした。一秒ごとに失われる時間を惜しむように絆を深め合った。


「あたしにとっては長かったよ。秋奈ちゃんがいなくて、毎日が寂しくてさ」

「それは私も同じだよ。でも色々なことがあったから、慌ただしい毎日だったなあ。衿香は友達と遊んだりしなかったの?」

「たまにはするけど、やっぱり秋奈ちゃんが一番だもん」

「ふふっ、ありがと」


 簡単な言葉を返したが、顔が赤くなるのは止められなかった。

 それから二人はとりとめのない話を続けた。椅子に座っているとか、パソコンに向かっているとか、そんな現在の状況を伝えるような内容だったが、中身よりも声を聴けるということが重要だった。


「いやー、それにしても電話って意外と体力使うね」


 何度か携帯電話を持つ手を替えていたのだが、それでも手と耳に溜まった疲労が秋奈の体力を奪っていた。


「大丈夫? 少し休む?」


 衿香の気遣いに、秋奈は首を軽く鳴らして答える。


「気分転換に出かけるとするよ。お昼もなんとかしないといけないし」


 寮では昼食が用意されないので、各個人が都合をつけなければならない。部屋のキッチンで自炊したり、外出して済ませる他にも、むしろ食べないという選択もある。


「じゃ、あたしも外に行く。えっと、まずは着替えないと」

「まだパジャマ着てたの? もうお昼なのに」

「だって今日はずっと秋奈ちゃんと話すんだって考えてたから、外に行くなんて思いもしなかったんだもん」

「とりあえず着替えちゃいなよ。待ってるからさ」

「うん。携帯は近くに置いとくから話はできると思うよ」

「はーい、行ってらっしゃい」

「行ってきます。……なんかこういうのっていいね」


 衿香が微笑する声に続いて、硬い音がした。携帯電話を置いたのだろうと思いながら、秋奈は電波の向こう側を音だけで空想する。断続的に届く衣擦れの音が想像力を掻き立てる。

 秋奈の脳裏にかつて共に入浴した時に見た衿香の全身が浮かび始めた。目を閉じて瞼の裏側にその姿を映し、着せ替え人形のごとく思うがままに服を着せてみた。それらすべてが美しく、遠慮なく放たれる魅力が秋奈の脳に浸透した。


「ただいま。待った?」


 突然の言葉が、秋奈の鼓膜だけでなく全身を震わせた。


「おかえり。早かったね」

「着替えてる間秋奈ちゃんの声がしなかったから、どこか行っちゃったのかと思った」

「ずっとここにいたよ。衿香が着替える音を聴きながらね」

「えーっ? まさか変な想像とかしてないよね?」

「変なって、たとえばどんな?」

「それは、ほら……あのー」

「ほれほれ、どうしたの? 遠慮せずに言ってみ?」

「……いじわる」


 小さく放たれた言葉が秋奈の心に突き刺さった。


「ごめんってば。うん、衿香が考えてるようなことで合ってると思うよ」

「やっぱり。ほどほどにしないとダメだよ?」

「肝に銘じておきます」


 秋奈は部屋を出て、外へ向かった。寮の出口で寮監と目が合ったが、衿香と会話をしていたため会釈だけした。寮監はすべてを把握しているかのような顔をして同じように返してきた。


「で、秋奈ちゃんはどこに行くの?」

「そうだねえ、ファミレスにでも入ってようかな。まだ早いけど、その分すいてて静かだろうし」


 現在の時刻は午前十時過ぎである。歩く道には休日らしく子供の姿が目立っている。


「それならあたしもどこかに入ろうかな」

「でもその辺ってあまりそういう店ないよね。特に女の子一人で入るようなところってさ」


 衿香の家は、いわゆる下町と呼ばれる地域にある。特に衿香が住む地域はチェーン店が長く居付くことが少なく、大手私鉄沿線だというのに駅前にはファーストフード店が一つしかない。さらにそこは昼からの営業で、この時間ではまだ開店していない。


「そうだなー。あ、そうだ。あの喫茶店にでも行ってみようかな」

「喫茶店? 駅前にあったのは焼肉屋になっちゃったし……」

「ほら、駅の先にある十字路のところだよ」

「ああ、向かいにコンビニがあるところね」

「そうそう。あそこのチーズケーキおいしかったよねー」


 互いの目的地が決まったことで、再び他愛のない雑談が始まった。先に目的地に到着したのは秋奈だった。扉を開けるとすぐに店員が顔を出し、そのまま導かれて席に座った。


「ふう、まだ人も少ないし落ち着いて話せそうだよ」

「あたしもこの横断歩道渡ったらすぐ着くよ。先に何か頼んじゃえば?」

「じゃ遠慮なく」


 秋奈が呼び出しボタンを押すと、程なく店員が来た。秋奈はドリンクバーとサラダを注文した。


「サラダだけでいいの?」

「まずはね。ドリンクバーだけだと高くなっちゃうから、そうならないように頼んだのもあるし」

「さっすが、秋奈ちゃん賢いなあ」

「お褒めいただき光栄です」

「あ、もうすぐあたしも喫茶店に着くよ」

「うん。それじゃ少し黙ってようかな」

「ほんとに少しだけだよ? どっか行っちゃやだよ?」

「大丈夫。私はここにいるから」


 運ばれてくるサラダを見ながら秋奈は優しく言葉をかけた。




          *




 午前中、要と沙織は共同作業をして過ごした。その内容は布団を干したり部屋の掃除をしたりといったものであったが、それでも普段一人でしていたことだけに、要にとって有意義な経験となった。


「お昼どうする?」


 掃除を終えて部屋で休む二人。二つのコップに麦茶を注ぎながら要が訊いた。


「どうしようかな」


 沙織も決めかねているようだった。


「それなら、外に食べに行こうか?」

「いいね、それ。どこに行く? 要が行きたい所についてくよ」

「えっと……ファミレスなんてどうかな」

「あ、それって駅前のあれ?」

「うん。あそこ今キャンペーンやってたから行ってみたいなって」

「知ってる。デザートが無料になるやつだよね」

「そうそう。行ってみない?」

「もちろん行くよ」


 沙織が快諾すると、要の心が楽になった。断られたらどうしようか悩んでいたことが愚かしくさえ思えた。

 マンションから出た二人を暖かな日差しが出迎えた。過ごしやすい陽気の道を二人は歩いていく。外に出ると周囲の視線が気になるが、昨日縮めた距離が要に自信を与えたのか、それほど影響はないように思えた。


 五分ほど歩けば駅前の騒音が周囲に満ち始めた。行き交う人々の足音や話し声が響き、パチンコ屋の扉が開くたびに景気の良い音が飛び出してくる。そんな喧騒から逃れるように二人は線路の高架を抜けてビルの前に立った。この二階に目的のファミリーレストランが入っている。

 階段を上って扉を開くと、そこには先ほどと異なる喧騒が満ちていた。昼のピークが来ているのだろう。他に席を待つ人の姿はなかったが、忙しそうだということは一目でわかった。

 そのまましばらく待っていると、店員がやって来た。店内は混雑しているものの満席というわけではないようで、二名だと伝えるとすぐに席へと案内された。


「座れてよかったね」

「ほんとにね。沙織は何を食べる?」


 要はメニューを見ながら言った。ランチセットメニューが目立つように書かれているが、グランドメニューも捨てがたい。

 キャンペーンは千円ごとにデザートが無料になるというものなので、それを目指すのならばランチセットだけでは足りない。二人で同じものを注文すれば千円以上になるが、二千円には届かないためデザートは一つだけとなってしまう。一つを二人で分けるというのも魅力的だが、どうせ食べるのならば二人で同じ量を楽しみたいという思いもあった。


「えっと……ランチセットかなあ。お昼だし」

「私もそうしようと思うけど、それだとデザート一つしか出ないよ?」

「あ、デザート食べたかった? いいよ、要が食べちゃって」

「違うの。沙織と一緒にデザート食べられたらなって思ってたから」


 要がそう言うと、沙織は少し考える素振りを見せて、なぜか頬を少し赤く染める。


「じゃあ、デザート、二人で食べよ? 半分こしてさ」

「沙織はそれでいいの?」

「うん。だってそうすれば要とデザート食べられるもん」


 はにかむ沙織を見ていると、要の動揺は跡形もなく溶けて消えた。


「わかった。そうしよう」


 要は店員にランチセットを二つ注文した。


「ねえ要、ドリンクは何がいい?」


 ランチセットにはドリンクバーが付いているのである。


「紅茶かな。どの種類にするかは見てから考えるけど」

「それならさ、わたしが選んで持ってきてもいい?」

「えっ。そんな悪いよ」


 そうは言ったものの、沙織がどんな紅茶を選ぶのか興味もあった。


「遠慮しないで。それに誰かが荷物を見てないといけないんだし、同じことだよ」

「うん。それじゃ、お願いしちゃおうかな」


 だから、要はそれ以上引かずに任せることにした。


「とびきりおいしいのを持ってくるからね」


 意気込んだ様子で沙織は席を立って歩いていった。

 沙織を待つ間、要は周囲の様子を観察する。休日であるせいか人が多い。家族連れやカップルだけでなく、一人の客もいるようだ。

 視線を巡らせて後ろを確認しようとした時、机に固い物が置かれる音がした。


「お待たせ。砂糖は一応持って来たけど入れる?」


 机にはアップルティーが置かれていた。見ると沙織も同じ紅茶だった。


「とりあえずそのまま飲むよ。ありがとう」


 要はスプーンで軽く混ぜてからアップルティーに口を付けた。大量生産を思わせる風味だが、沙織が淹れてくれたという事実が最高の隠し味となっていた。


「どう、かな? お湯の加減とかパックを出すタイミングとかよくわからなかったんだけど……」

「おいしいよ。またお願いしちゃいたいくらい」


 要が微笑むと、沙織の顔から心配そうな色が消え、明るい表情を取り戻した。


「はあ、よかった。要が喜んでくれるとわたしも嬉しいよ」


 それから二人は雑談を始めた。途中眼鏡の話題が出ると、やはりそこは眼鏡を使用する者同士で思うところがあるようで、料理が運ばれてきても終わることはなかった。


「沙織の眼鏡って軽そうだよね。ずっとしてても疲れにくいんじゃない?」

「うん。軽いよ。確かに朝から夜までほとんど外さないけど、あまり疲れないかな。ちょっとかけてみる?」


 返事を待たずに沙織は眼鏡を外し、ブリッジを持って要にテンプルを向けた。


「じゃ、お言葉に甘えて」


 要は眼鏡を机に置き、沙織の眼鏡をかけた。テンプルがゴムのように柔らかく、力を入れると曲がりそうなほどの弾力がある。レンズ越しの視界は普段と異なり、過剰に強調されたような歪みで満ちていた。

 そんな世界の中で沙織がこちらを見つめているのがわかった。沙織も普段とは異なる世界を見ているのだ。それは要とは違い、晴れることのない霧で満たされた不可視の世界である。


「どうかな? ちょっと度が強いかもしれないけど」


 そんな世界を見ているのに沙織の声は普段と何一つ変わっていない。要は眼鏡を外して沙織に向ける。


「ありがとう。やっぱり人の眼鏡だと合わないね。周りがぼやけて見えたよ」

「やっぱり? わたし視力低くてさ。結構きつい度が入ってるんだ」


 言いながら眼鏡をかける沙織を確認してから要も眼鏡をかける。


「眼鏡かけ始めて長いの?」

「小学生くらいからずっとね。要は?」

「私も小学生で初めて眼鏡かけたんだけど、一日中するようになったのは中学生になってからだったな」

「どうして?」

「なんでかな。たぶん、あの頃は色々と思うことがあったんじゃないかな」

「でも、要が眼鏡かけるようになってよかったな」

「私が?」

「うん。だって、眼鏡してる要ってかわいいんだもん」

「えっ。──えっ?」


 ハンバーグを切っていた要の手が止まった。


「眼鏡ってさ、視力を高めるってのはもちろんだけど、魅力を引き立てるアイテムでもあると思うんだ」


 沙織の言葉から熱が伝わってくるようだった。


「うーん、そうなのかなあ」

「そうだよ、きっと。眼鏡はチャームポイントになるんだよ」


 熱弁を続ける沙織を見て、要の口が自然と言葉を紡ぐ。


「確かに、沙織もかわいいね」


 沙織の視線が泳ぎ、口元を緩めて笑みを浮かべる。


「そうかな。えへ、ありがと」


 沙織と楽しく会話ができるということが、要には特別なものであるように感じられた。

 ランチセットを食べ終えてしばらくすると、デザートが運ばれてきた。プリンとティラミスが一つずつ乗っている。メニューの写真と比べると小さく感じるのは否めないが、それは要にとって大した問題ではなかった。


「沙織はどっちが食べたい?」


 要が訊くと、沙織は一瞬だけデザートの皿に目を落とし、すぐに要に視線を戻す。


「両方。要も両方一緒に食べよ?」


 当然とばかりに放たれた言葉。皿に添えられた一つだけのスプーン。それらを合わせて導かれる答えが要の脳内を駆け巡る。

 要が頷くと、沙織はスプーンを取り、プリンを掬って要の口へ動かす。


「はい、あーん」


 予想はしていたものの、実際にされると感じるものがあった。照れや嬉しさなどが混ざり合った感情が胸を叩く。思わず飲み込んだ生唾の音が沙織に伝わっていないか心配になる。

 要がゆっくりと口を開くと、それに合わせてスプーンが差し込まれる。舌に乗ったプリンをすり潰すと、カラメルソースで引き立てられた甘さが広がった。引き抜かれたスプーンの金属的な味もあったが、それも甘さと幸せの引き立て役にすぎなかった。


「どう、おいしかった?」

「とってもおいしかったよ。ありがとう」

「よかった。じゃ、次は……」


 沙織はスプーンを置き、デザートと要を交互に見た。


「うん。──はい」


 要はスプーンを取り、プリンを沙織の口に運んだ。味わい、飲み込むのを惜しむように口を動かし続ける沙織を要は見続けた。


「──んっ。はあ、おいしい」


 沙織がようやく口を開いた。その微笑みが要にも伝染する。ここに来て良かったと心から思った。

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