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五月八日 お泊まり初日と一緒の布団

「それじゃ、すぐに支度して行くからね」

「うん。私も色々準備しながら待ってるから」


 授業が終わり、二人は一旦別行動をすることになった。沙織は寮に戻り、要の部屋に泊まる準備をしてから来る予定である。

 一方、要は夕食の材料を買うためにデパートに来ていた。買うべきものは頭の中に入っているので、迷うことなく売場を巡る。卵、バター、チーズ、トマト、ハム。沙織の要望に応えた結果だった。

 これだけでは物足りなく感じ、冷蔵庫の中身を思い出す。そこにあるものを使えばもう一品くらいは作れるだろうと判断した。途中で二リットル入りペットボトルの麦茶をカゴに入れ、要はレジで会計を済ませた。


 要は部屋に戻り、買ってきたものを冷蔵庫にしまってから洋室に入る。私服に着替え、和室に移動しながら周囲を見回して掃除が完璧かどうか確認する。昨日のうちに掃除はしておいたのだが、念を入れ過ぎて困るようなことではない。

 和室の机を壁際から中心へ動かす。続いて座布団を置こうとして、どのように置くかを考える。隣り合わせるか、向かい合わせるか。横の距離を縮めるか、顔を見つめ合うか。以前、沙織が来た時には深く考えず隣り合って座っていた。


 だから今回も同じように座布団を置いても良いのだが、隣り合うということが昨日の出来事を思い出させるのだった。

 隣り合って座れば二人の距離は狭まる。手が触れても不自然ではない。さらにこの部屋には二人だけしかいない。もちろん沙織の同意があればこそだが、誰に気兼ねすることもなく手を繋げる。

 要は淡い期待を抱きながら、座布団を隣り合わせて置いた。




         *




 沙織は鞄に着替えやタオルなどを詰め込んでいた。ベッドに置いた鞄とクローゼットを何度も往復している。その全身からは、抑えきれない喜びが滲み出ていた。


「えっと、あとは何がいるかなあ」


 口からは呟きも漏れていた。


「要さんのところで過ごす一日を考えてみたら、何が必要かわかるんじゃない?」


 秋奈の言葉に、沙織は手を止めて振り向く。


「そっか、秋奈グッドアイデア」


 沙織は椅子に座って机に向かい、頬杖をついて想像を膨らませる。

 だが、要と二人きりということを意識すると、それだけで満足してしまう。要以外を求めるなど考えられなくなった。


「──うまく浮かばなかった」


 沙織は救いを求めるような視線を秋奈に向けた。

 秋奈は肩をすくめて小さく息をつく。


「まあ、とりあえずはそれくらいでいいんじゃない? もし何か必要になったら取りに戻ってくればいいし、要さんに借りることもできるんだし」

「そっか。うん。確かにそうなんだけど」


 はっきりしない沙織に、秋奈が続けて口を開く。


「それよりもさ、今は早く要さんのところに行きたいんでしょ?」

「もちろん!」


 沙織は急に元気を取り戻した。


「じゃ準備はその辺にしてさ、ほれほれ、早く行っといで」

「うーん、よし、そうする」


 沙織は鞄を取り、身だしなみを確認する。


「じゃ、行ってきまーす」

「行ってらっしゃい。頑張るんだよー」

「任せといてー」


 秋奈が手を振り、沙織は同じように返してから部屋を出ていった。

 ──沙織を見送った秋奈は椅子に座り、誰もいない部屋を見回す。机に手を伸ばし、本を読んでしばらく時間を潰した。


「さて、そろそろかな」


 秋奈は本に栞を挟み、時刻を確認しながらゆっくりと立ち上がる。軽く伸びをして体を慣らしてから部屋を出た。




          *




 要の部屋への道を歩く沙織には、建ち並ぶ無機質なマンションさえも美しく見えた。

 道すがら要にメールを送り、そちらに向かっていると伝えた。要からも返事が届き、待っていると言ってくれた。一歩ごとに近づく要との距離。早歩きになるのは当然だった。


 マンションに到着し、エレベーターのボタンを押す。下りてくるまでの時間がもどかしい。階段で行った方が早いかもしれない。だが、もう少しでエレベーターが来るかもしれない。

 そんな思考の迷走をしていると、扉がゆっくりと開いた。その中に滑り込み、五階のボタンを押す。エレベーターの上昇で体にかかる重力さえも気にならない。扉が開くと、沙織は左右を確認しながらゆっくりと外に出た。要の部屋はすぐそこだ。

 深呼吸をして心を落ち着けてからチャイムを押す。しばらく待つと、扉が開かれた。


「どうぞ、入って」


 要が扉を押さえ、沙織を中に促した。


「うん。お邪魔します」


 沙織は靴を脱いで用意されたスリッパを履いた。少しだけ奥に進んで振り返り、要が入ってくるのを待つ。

 すぐに要も中に入り、沙織の横に立った。その瞬間、右手に熱を感じた。要に掴まれたのだった。沙織が呆然としていると、要は沙織の手を引きながら言う。


「こっちに来て」


 そのまま要は和室に入り、沙織に座布団を勧めた。処理能力が追い付いていない状態だったが、沙織は何も考えずに正座した。


「ちょっと待っててね。飲み物持ってくるから」


 要が出ていくと、ようやく沙織の思考が追い付いた。自分の右手に左手で触れる。

 要から手を握ってくれた。その事実が今になって沙織の鼓動を速める。


「お待たせ」


 襖が開けたままになっていたので、要は音もなく現れた。コップを机に置き、麦茶を注ぐ。


「私の好みで麦茶にしちゃったけど、よかったかな?」

「うん。要が用意してくれたんだから、これがいい。いただきます」


 沙織はコップを取り、麦茶を飲んだ。多めに飲んで一息つくと、興奮が抑えられていった。コップを置き、左側に座る要の姿を確認する。麦茶を注ぐ姿は美しく、正座をしている脚は大部分がスカートで覆われているが、先から覗く黒い靴下に目が引き寄せられた。


「よければ、もっと飲んでね」


 要と視線が合うと、少しだけ動揺が蘇る。


「うん、ありがとう。それとね、要」


 沙織は要に体を動かし、正面から向き合った。


「何?」


 要もそれに合わせて動き、お見合いのような状態になった。


「今日から月曜まで、よろしくお願いします」


 太腿に手を置き、沙織は礼儀正しさを意識しながら頭を下げた。自慢の黒髪が垂れ下がるのがわかる。


「えっ? ちょっと、沙織、そんなのいいから、頭上げて」


 要は慌てながら沙織の肩に触れ、そのまま体を押し上げた。

 体を起こした沙織は状況の確認を始める。肩を掴まれているだけでなく、要が間近でこちらを見つめている。今までにないことに、口の中が乾き、体が緊張を訴えている。そういえば以前こんな感じのキスシーンを何かのドラマで見たことがあるな、とぼんやり考えていた。


「沙織は友達なんだし、今日はお客様なんだから、もっとリラックスしていいんだよ」


 要は肩を軽く叩いてから手を離した。

 部屋に来てから要が積極的になっているように沙織は感じていた。意外だったために動揺もあったが、それは嬉しい誤算だった。これからの時間がどれだけ楽しいものになるか、沙織の心は期待に膨らむ。


「あのさ、要の部屋じっくり見てもいい?」


 それは麦茶の冷たさでも抑えられず、希望の欠片が飛び出した。


「そんな面白いものはないと思うよ」

「要がどんなところで生活してるのか見てみたいんだ」

「それなら案内するね。そんなに広くないけど」

「うん。お願いします」


 沙織が言うと、要は立ち上がって和室を見回す。


「まずはここね。と言っても見てわかるように何もない部屋だよ。あまり物を置いてないけど、これでも生活できちゃうんだよね」

「でも散らかってるよりはいいんじゃないかな。わたしだったら、こうはならないだろうし」


 和室を出て、隣の洋室に移動する。


「ここは着替え用の部屋にしてるんだ。別にここじゃなくてもいいんだけど、せっかく部屋があるんだからもったいなくてさ」


 ここで要が着替えをするということは沙織も知っていた。以前感じた気恥ずかしさのようなものが再び顔を覗かせている。


「これって、外から見えちゃわない?」

「いや、カーテン閉めるから大丈夫だよ」

「そっちじゃなくて、こっちが」


 沙織は後ろの扉を指した。格子状の木枠にはめ込まれたガラスを透かしてキッチンが見える。


「別に気にしてなかったな。一人だから誰も見ないし」


 あっけらかんとする要を見て、沙織は一応の納得はしたものの、わずかな揺らぎは残っていた。和室と同じく無駄な物が置かれていない洋室内を見回して心を落ち着けた。


「次はどうしようかな。とりあえずキッチンに」


 引き戸を開けた要に続き。沙織は洋室を出た。電子レンジと炊飯器が置かれた縦長のキッチンラックが目を引く。他にある物といえば冷蔵庫くらいである。


「ここも、なんというか広いね」

「物がないからね」


 要は小さく微笑み、戸棚を次々と開けていく。その動きが鮮やかで、沙織はキッチンラックなどに目を奪われていたことを悔やんだ。


「ほら、食器とかもあまり入ってないでしょ? 調理器具も鍋とか包丁とか普通のばっかり」

「でも食べ物はいっぱいあるね。ご飯パックとか缶詰とか。買い込んでるの?」

「親が送ってくれるんだ。しっかり食べなさいよって」

「いいなあ。わたしの親は何も送ってくれないんだよ」

「頼めばきっと送ってくれるよ」

「そうかな? 今度言ってみようかな」


 会話をしながら要は戸棚をすべて閉じていた。それが済むと周囲を見回し、案内を続ける。


「あとは玄関と洗面所くらいかな」


 要は洗面所に移動した。洗面台を正面に見て右には洗濯機があり、左にはトイレ、後ろには浴室と分かれている。


「キレイだね。鏡もピカピカだし、全然汚れてないよ」

「うん。まあ、掃除が趣味みたいなものだから」


 要がはにかんだように見えた。


「お風呂だって新品みたいだよ」

「ここに住み始めてまだ一か月くらいだし、そんなに汚れないよ」

「でも掃除はちゃんとしてるんでしょ?」

「まあ、ね。沙織が来るから頑張ってみたんだけど」


 不意に名前を出され、沙織はむずがゆい動揺を感じた。


「わたしが来るから?」

「だって、初めてのお客様だし、歓迎したいし、来てくれるの嬉しかったし……」

「そ、そうなんだ。あの、ありがとう」


 またしても思考が白く染められそうだった。それに反して顔は赤くなる。要の部屋に来て良かったと沙織は心の底から思った。




          *




「失礼します。薙坂です」


 ドアをノックすると、すぐに扉が開かれる。


「お待ちしておりました。どうぞお入りください」


 顔を出した悠希は室内に手をかざし、秋奈を導いた。

 間取りは秋奈の部屋と変わりないが、飾り付けや調度品は違っていた。来客を歓迎するためか、心なしか綺麗に整えられているように感じる。


「あ、ナギさんいらっしゃーい。食べる?」


 彩は手に持ったクッキーを秋奈に向けた。


「えーっと……」

「どうぞお気になさらずに。自分の部屋だと思ってくつろいでください」


 悠希の言葉に背を押され、秋奈は彩の隣に座ってクッキーをつまんだ。

 机を挟んで正面の椅子に悠希が座り、彩と秋奈に穏やかな視線を向けた。それを感じた秋奈は話を切り出すことにした。


「今日はお招きいただき、ありがとうございます」

「いえ、堅苦しい挨拶はなしにしましょう」


 悠希は掌を向けて遮った。


「わかりました。そういえば前に沙織もお邪魔してたんですよね」

「ええ。あの時は麻生さんがお暇だというので誘ったのですが、楽しくお話ができましたよ」

「お菓子もいっぱい食べてたねー。あの時はスフレだったっけ。あんなにおいしそうに食べてくれたから、作った甲斐があったなーって思ったよ」


 彩がクッキーを軽く振りながら言った。


「沙織らしいね。このクッキーも彩が作ったの?」

「もちろん。隠し味に生姜を入れてみたんだ。悠希の紅茶と合わせて体があったまるよ」

「そりゃいいね。おいしくて体にも優しいなんて一石二鳥じゃない」


 秋奈はクッキーを味わい、飲み込んだ。


「ところで薙坂さん。麻生さんがこの部屋に来た日のことなのですが」

「もしかして沙織が何かやらかしましたか?」

「そんなことはありませんでしたよ。そうではなく、その日に寮の食堂で薙坂さんと会いましたよね。そこで話していたことについてです」

「そうそう。なんかデートしてきたとか言ってたよね。嬉しそうな顔してさ」


 悠希と彩が秋奈を見つめている。


「そのことですか。ええ、あそこで話したように、あの日私は衿香と会ってきました。それを含めて話したことは全部本当です」

「嘘をついているようには見えませんでした」

「ここからは二人だけにしか話せないことです。衿香に会って、自分の気持ちに整理がつきました」

「そうですか。幸せそうな顔をしていましたので、そうではないかと思いました」


 悠希はそれ以上の追及はしなかった。すべてを見通すような表情を秋奈に向けるだけだった。


「はい。もう弱気になったりしません」


 だから秋奈も核心は言葉にしなかった。それを告げる相手は悠希でも彩でもなく、衿香なのだから。


「ナギさん、見違えたね」

「そう? 自分じゃよくわからないけど」

「一皮むけたって感じかな」

「ほめても何も出ないよ」

「あらら、そりゃ残念だ。もうえっちゃんとの話は聞けないのかー」


 彩が手を組んで後頭部に当て、天井を見上げた。


「そんなことはないよ。これからも何かあったら話を聞いてくれると嬉しいんだけど」

「あたしたちはいつでも大歓迎だよ。ねっ、悠希?」

「そうですよ。私たちでよければ、いつでも話し相手になりますよ」

「お二人がいなかったら、私はこんな風にはなれなかったかもしれません。本当にありがとうございます」

「いいんですよ。誰かが幸せになるのなら、それが私の幸せにもなりますから」


 そう言って微笑んだ悠希の表情は透き通っており、純粋で混じり気などないように秋奈には見えた。




          *




 キッチンに立つ要は食事の準備をしていた。米を水に浸し、一口大に切ったかぼちゃを鍋で煮る。他の料理は比較的早く作れるので、時間がかかることを先に済ませた。

 そのおかげで、部屋で休憩しながら沙織と話す時間を確保できた。


「どんな料理を作るの?」

「オムレツにサラダ、あとはかぼちゃのいとこ煮だよ」

「要が作るから、きっとおいしいんだろうなあ」

「あまり期待されると、その、ちょっと照れる」


 要は指を組み合わせ、視線を逸らした。


「ねえ、わたしも作るの手伝っていい?」

「えっ、そんな悪いよ」

「でもね、要と一緒に何かがしたいの。ダメ?」


 沙織が首を傾けて上目遣いで見つめてくる。普段は背が高く、そんな風に見つめられることはなかっただけに、要には新鮮に思えた。


「えっと、まあ、簡単なことくらいなら」

「うん! 要の味が食べたいから邪魔にならないようにするよ」


 料理を再開すると、沙織が要の横に立った。冷蔵庫から材料を取り出したり、野菜を切ったりといった作業をしてくれた。

 実際の調理は要が担当し、沙織が食べてくれるということを考えながら味付けした。


「あとはもう大丈夫だよ。手伝ってくれてありがとう」


 炊飯器から米の炊ける香りが漂い、要は手を止めた。


「どういたしまして。完成が楽しみだな」

「先にお風呂入る? それなら準備するけど」

「要は?」

「私は食事の後に入るよ。沙織はお客様だから、一番に入ってほしいな」

「……それじゃ、お先に失礼します」


 沙織は何かを考えている様子だったが、やがてそう答えた。


「うん。準備してくるね」


 言い残して要は浴室に消えていった。




          *




「……はあ」


 湯船に浸かりながら沙織は長い息をついた。寮の部屋にある浴室と、ほとんど広さは変わらないが、漂う空気が決定的に異なっている。

 体や髪を洗うのに使った石鹸やシャンプーは、ここの浴室に置いてあるものを使った。沙織が持ってくるのを忘れたからなのであるが、それが結果として良かった。

 要が毎日使う物を手に取ると、奇妙な感覚が生まれた。泡が肌に触れると、要が隣にいるように思えた。洗い流すと、残り香が鼻腔を貫いた。飛び散った粒子は空間に留まり、ふとした拍子にそれを沙織に意識させる。顔が赤くなるのは湯船の熱だけが原因ではなかった。


 足を折り曲げ、肩まで浸かる。狭い湯船でじっとしていると、余計な妄想が浮かんでしまう。

 もし要と一緒に入浴できたなら。ここに二人で入るならば、体の密着は避けられない。広さと体の構造から、向かい合うような形で入ることになるだろう。そうすると主に触れ合うのは脚だ。自分の脚を見下ろし、その横に要の姿を幻視する。その輪郭はおぼろげで、本物には遠く及ばない。

 頭を小突いて幻想を散らす。タオルに包まれた髪がクッションとなり、指を柔らかく押し戻した。湯船の縁に頭を預け、両手を腹の上で組み合わせる。耳を澄ませば調理の音が聴こえてくる。沙織は目を閉じて触覚と聴覚に神経を集中させた。


 体が温まったところで浴室から出て体を拭き、ピンクのワンピースを着る。洗面所と台所を区切るカーテンは膝上程度の長さしかない。すぐ近くに要の気配を感じる。

 カーテンを開くと要と目が合った。


「お風呂ありがとう。さっぱりできたよ」

「あ、沙織。ドライヤー使っていいよ。洗面台に置いてあるから」

「ゴメン。使わせてもらうね」


 一旦和室に戻り、鞄からヘアブラシを取り出して洗面台に向かう。ドライヤーの温風を髪の根元に行き渡らせ、ある程度乾いたところでブラシを使い、髪型を整える。途中で引っかかることなく、さらりと通るブラシ。幾度とないこまめな手入れがあってこそだった。

 胸元まで伸ばされた黒髪を沙織自身も気に入っていた。その世話には手間がかかるが、この長い髪が自分を形作るかけがえのない要素だという認識があった。


 沙織は三姉妹の次女であり、姉も妹もそれぞれ違う髪型である。自分だけの長髪。自分が存在するという証。姉と妹に挟まれた自分を定義する要素。髪を大切にすることが、自身の保護に繋がるのだった。

 髪を整えて戻ると、食事の準備がすべて終わっていた。


「部屋に運ぶの? 手伝うよ」

「ありがとう。それじゃ、これとこの皿を持ってくれる?」


 運ばれていく夕食のメニューは白米、舞茸の味噌汁、オムレツ、サラダ、かぼちゃのいとこ煮。それらを沙織はまず視覚と嗅覚で味わう。口内に湧き出る唾を飲み込むと、食道を通過して胃袋に浸透するまでの過程がまじまじと感じられた。

 すべて運び終えた二人は机の前に座る。


「沙織、足崩していいよ」


 要が正座しながら言った。


「ううん。これでいいの」


 沙織は正座を崩さなかった。


「そう。それじゃ、いただきます」

「いただきます」


 沙織は箸を持ち、オムレツに手を伸ばした。箸で一口大に切り分け、口に運ぶ。溶けたチーズと玉子生地が包み込む野菜は、噛むほどに味が出た。


「どう、かな」


 要は不安そうな顔で沙織を見た。


「うん……幸せ。おいしいよ、要」


 沙織は表情を限界まで緩めてオムレツを味わった。


「喜んでくれたみたいだね。よかった」


 安堵の息を吐き出し、要も箸を動かし始めた。

 食べながら沙織は料理の感想を言うが、食べながらなのでどうしても無言の時間が多くなる。だからといって早く要と会話したいがために急いで食べると、料理を味わうことができなくなってしまう。

 料理は味わいたい。だが、要と話もしたい。そんな葛藤を抱きつつも箸は止まることなく食事を運び続け、すべての皿は空になった。




          *




 要は食べ終わった食器を洗っていた。沙織が手伝うと言ってくれたが、これくらいは一人でできるからと休んでもらった。

 食器洗剤が放つ人工的な緑茶の香りに鼻腔をくすぐられながら、今日のことを思い出す。

 こちらから手を繋いだのが良かったのか、沙織も歩み寄ってくれた気がした。二人きりならば積極的になれる。このままいけば、自然な流れで同じ布団に入れるかもしれない。淡い期待とは正反対に、食器を洗う手は冷えていく。


 食器を洗い終え、背後を振り返る。和室の襖は閉まっており、室内の様子を見ることはできない。要は洗い物で冷えた手を頬に当てる。過度な熱と冷気が混ざり合い、適温へと戻っていく。

 沙織との食事は、要に今まで経験がないほどの喜びを与えた。自分が作った料理を心底おいしそうに食べる沙織を見ていると、温かさとむず痒さが合わさった奇妙な感情が芽生えた。そこから絶え間なく熱が放出され、それが顔に出てこないか心配でならなかった。今こうして頬に手を当てると、どれだけの熱が秘められていたのかが実感できた。


「食器も洗い終わったし、お風呂入ってきてもいいかな」


 和室に入り、沙織に声をかけた。


「どうぞどうぞ。わたしはここで待ってるから」


 タオルと着替えを持ち、要は浴室に向かった。

 衣服を脱いで中に入ると、壁や床に残った水滴が見えた。普段は乾いた浴室に入っていたのだが、今日は沙織が先に入ったために湿っている。体を包む余熱も久々だった。実家にいた頃は何度もあったことなのだが、この空間で起こることは特別であるように感じられた。


 体を洗っていても要の思考は止まらない。沙織もこれを使ったのだ。沙織の風呂上がりに漂ったあの香りは、ここから生み出されたのだ。沙織が自分と同じ色に染まったのだ。そう思うだけで体の中心が震える。

 湯船に浸かると、必然的に沙織の姿が浮かんだ。どんな風に入ったのか、どんな風に体を曲げたのか、どのあたりで体を安らげたのか。湯から伝わる熱が要の知覚を刺激し、沙織と間接的に触れ合っているかのような錯覚に溺れた。


 すべての妄想を振り払い、要は浴室から出た。髪をドライヤーで乾かし、上下セットで水色のパジャマを着て和室に戻る。沙織は机に頬杖をついていたが、襖が開いた音に反応して振り返った。


「あ、おかえり」

「うん、ただいま。ってのもなんか変だね」


 要は沙織の隣に腰を下ろした。時刻は午後十時。

 いつもなら眠る準備を始める頃だが、今日はその必要はない。明日は休日であるのもそうだが、沙織と過ごす時間を一秒でも長くしたいという思いがあったからである。


「えっと、ね。あの、要」

「なに?」


 沙織の姿を見ると、落ち着きを忘れたように体や視線を絶えず動かしている。


「そろそろ、寝る時間かな? ほら、要って日付変わる前には寝ちゃうんでしょ?」

「ううん、今日は特別だからいいの。それに……」

「それに?」

「まだ歯を磨いてないからね。沙織は磨いた?」

「まだだよ。要が磨くならわたしも磨く」


 二人は歯ブラシを手にして洗面所へ移動した。沙織は歯ブラシを持ってきたが、歯磨剤は忘れてきたようで、ここでも要が普段使っている物を共有した。泡を含んで互いを見る二人の姿は滑稽でもあり、微笑ましくもあった。

 歯を磨き終えた後は、和室に戻り布団を敷いた。枕は要が使っていない予備の枕を出し、それを沙織が使うことにした。それほど多い枚数ではなかったが、二人での共同作業と、布団から連想される今後が心を急かした。


「えっと、敷き終わったね」

「うん」


 沙織の返事は短かった。


「とりあえず、足だけでも布団に入らない? 壁が近いから寄り掛かれるし」

「うん。そうする」


 相変わらず言葉が少ない沙織が気になったが、並んで布団に足を入れた。

 隣り合ったまま沈黙の時間が続く。どこか遠慮がちな空気が漂っている。


「あの、沙織」

「あのね、要」


 同時に発せられた言葉。それが見えない壁を砕いた。


「ごめん、なにかな?」

「あ、いや、こちらこそごめん。えっとね、わたし、なんだか緊張しちゃってさ……あははっ、おかしいよね。学校では勇気が出せたのに、二人きりだとなんだか恥ずかしいや」


 沙織の顔からは緊張が消え去り、普段の明るい笑顔が戻っていた。


「私だって緊張してるよ。誰かと一緒に寝るなんて初めてのことだもん。でも、私は沙織と二人きりの方が勇気出せるよ。だから昨日も……」

「昨日? あっ」


 沙織も思い当たったのか、不意に言葉を切った。


「そう。お昼に学校の裏庭で、手を握ったこと」

「あ、あれね、うん。もっと要と仲良くなりたいなーって思ってさ。その、態度で示さなきゃダメだって秋奈とかにも言われて、それで、あの、突然でびっくりさせちゃったよね」


 ゆっくりと要は首を振る。


「確かに驚いたけど、嫌じゃなかったよ。それに、沙織が触れてくれたから私も積極的になれたんだよ。ありがとう」

「そう言われるとなんだか照れるなあ。えへへ」


 無邪気に笑う沙織を見ていると、更に近付きたいという欲求が湧き起こってきた。


「ねえ。手、繋いでいい?」

「う、うん」


 途端に表情を硬くした沙織を可愛く思いながら、要は手を伸ばす。すぐに沙織の手と重なり、掌が触れ合った。

 同時に体も沙織の方へ寄り、二人の距離を埋める。手を繋いだまま振ってみたり、見つめ合って微笑んでみたりして楽しんだ。


「なんか、手を繋ぐとね、ほわーんってなるの。要は?」

「私はね、あったかい気持ちになるよ。沙織と同じだといいんだけど」

「きっと同じだよ」


 体を寄せ合ったせいか、沙織の髪が要の顔を撫でた。近くで見ると、その美しさが要の視神経を支配した。


「ねえ。沙織の髪、触ってもいい?」

「いいよ。──はい」


 沙織は少しだけ頭を傾けて要に近付けた。

 左手を繋いだままに、要は右手を伸ばして沙織の髪に触れる。肩にかかった髪を掬い上げ、指の間に通して感触を楽しむ。


「いいなあ、長い髪って」


 要は手を止めずに言った。


「要は髪伸ばさないの?」

「うーん、ずっとこのショートカットだったし、長くすると手入れも大変だろうしなあ」

「そっか。でも、要が気に入ってくれるなら今まで以上に髪のケアをしっかりしないと」

「やっぱり手入れって大変?」

「まあね。だけど、こうして要が触ってくれるなら苦にならないよ」

「そう? ありがとう、かな?」

「ねえ。要の髪も触っていい?」

「いいよ」


 要は髪に触れていた手を離し、沙織に頭を傾けた。

 すぐに沙織が要の髪、そして頭に触れる。その刺激に反応し、要は微かに体を震わせた。


「あっ、痛かった?」


 沙織は不安そうな表情を浮かべた。そんな顔は似合わないなと要はぼんやりと思う。


「んっ、ちょっとくすぐったかっただけ。好きなだけ触っていいよ」

「短い髪もさっぱりしてていいなあ」

「そうかな。私は長い方がいいと思うけど」

「二人とも自分にないものを求めてるんだね」


 会話の最中も沙織の手が止まることはない。


「沙織の触り方、やさしいね」


 要は消えそうな声で呟いた。それが沙織の耳に届いたかどうかはわからない。

 沙織は要の頭を撫で、髪を掬い、摘み、指の間に通しながらゆっくりと手を離した。


「もういいの?」

「うん。要の髪、サラサラだったよ」

「沙織もね」

「それに、なんだかいい香りがする」


 沙織の言葉が要の不意を突いた。思わず顔が赤くなる。


「それは、ほら、お風呂に入ったからだよ」

「じゃあ、わたしも同じなのかな?」

「……うん。髪触った時からずっと思ってた」

「そっかー……えへへ」


 再び訪れた沈黙は、心地良いものへと変わっていた。







「そろそろ、寝る?」


 時刻は午後十一時半。その言葉は要から切り出した。


「そう、だね。寝よう。うん」


 意識はしていたが、その時が来ると緊張が浮き上がってしまう。それは沙織も同じようで、ちらちらと要の顔を盗み見ていた。要が眼鏡を外すと、沙織も慌てたようにその後に続き、ケースに眼鏡をしまった。

 要は立ち上がり、棚からマスクを取り出した。唇にリップクリームを塗り、その上からマスクをつけた。


「あれっ。要、もしかして風邪ひいてるの?」


 沙織が心配そうに言った。


「ううん。そうじゃなくて、寝る時は唇や喉が乾燥しないようにマスクをしてるんだ」

「そうなんだ。あ、だから要の唇ってキレイなんだね」

「えっ。そ、そうかな」


 要がマスクを外すと、沙織はその唇をまじまじと見つめる。


「うん。ぷるんってしてて、やわらかそう」

「あまりじっと見つめられると、その、なんだか照れるよ」

「あっ、ごめんね」


 要は再びマスクをつけ、布団に太腿まで入れて振り返る。


「ちょっと枕がはみ出ちゃってる。狭い布団でごめんね」

「いいの。だって、その方が……」


 沙織の言葉はそこで切れたが、要にも何が言いたいのかなんとなくわかった。


「遠慮とか、しなくていいからね」

「えっ? あ、うん。善処します」


 急に硬くなった沙織の言葉に頬を緩ませつつ、要は電灯から垂れ下がった紐に手を伸ばす。


「電気全部消しちゃっても平気?」

「要はいつも真っ暗にしてるの?」

「そうだけど、沙織が暗いとだめならつけておくよ」

「じゃあ、真っ暗にしていいよ。要と同じところで寝るんだもん」


 要は頷き、電灯の光をすべて消した。部屋が黒一色に染まり、すぐ隣にいるはずの沙織の顔すら見えなくなる。


「それじゃ、おやすみ」

「うん。おやすみ」


 布団を肩までかぶり、枕に頭を乗せる。

 姿は見えなくても、沙織がそこにいることはわかる。体を動かしているからだけではなく、熱が伝わってくるのだった。


「ねえ、沙織」


 視線は真っ暗な天井から動かさなかった。


「なに?」


 何かが擦れ合う音がした。沙織がこちらを向いたのだろうか。


「私、寝返りをよくするみたいだから、もし迷惑かけちゃったら……その、ごめん」

「いいよ。わたしだって同じようになるかもしれないし」

「お互い様だね」


 このまま眠ってしまうのがもったいなくて、つい声をかけてしまう。


「なんだか布団がふかふかしてる」

「朝から干しておいたからかな」

「うーん、あったかくていい気持ち」


 それは沙織も同じなのか、沈黙が生まれてしばらくするとどちらからともなく会話が始まる。


「沙織、起きてる?」

「起きてるよ」

「布団から体出てない? もっと布団引っ張ってもいいよ」

「ありがと。でも大丈夫。ちゃんと全身布団にくるまってあったかいよ」


 次第に目が暗闇に慣れ始め、部屋の輪郭が浮かび上がってくる。横を向けば沙織の顔が見えるだろう。目だけを動かしても限界がある。要はそっと頭を動かした。


「あっ……」


 マスクに遮られた声は沙織に届いたか否か。そこでは既に沙織がこちらを向いていた。


「要も眠れないの?」

「うん。沙織と一緒にいるのが楽しくてさ」

「わたしも。なんか寝ちゃうのがもったいないなって」


 未だ消えずに残るわずかな暗さが、見つめ合いから生まれる照れを感じさせない。裸眼の視力では見えるはずもないのに、まばたきのたびに震える沙織の睫毛まで見えるようだった。


「こうやって向かい合ってたら、ますます眠れなくなっちゃうね」

「じゃあ、このまま朝まで起きてる?」

「どうしよう。でも、たまにはそういうのもいいかな」

「要、とりあえず目を閉じてみない? 二人一緒にさ」

「いいよ。それじゃ、さん、に、いち」

「おやすみ」


 沙織はまだ目を開けていたが、要は先に目を閉じた。

 しばらくして目を開けてみると、沙織と目が合った。


「……ずるいよ」

「ごめん。要の寝顔が見たくてつい、ね?」

「じゃあ、今度は沙織の寝顔を見せて」

「うん……それじゃ、今度こそおやすみ」


 そう言って沙織は目を閉じた。その無防備な顔をしばらく見つめ、要は頭を動かして天井を向いた。元々仰向けでないと要は眠れないのだった。

 改めて目を閉じて気持ちを落ち着けると、すぐに要の意識は途切れた。

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