五月三日 来訪予告とお泊まり計画
要が学園寮を訪れてから二日。世間はゴールデンウィークで盛り上がっているが、沙織と秋奈は外に出ず部屋にこもっていた。
予定がないというのもそうだが、宿題を終わらせるためでもあった。連休につきまとう問題は、ここでも例外ではなかった。
「ねえ、秋奈」
ベッドで寝転がりながら、沙織が力の抜けたような声を出した。
「何?」
秋奈は机に向かったまま言葉だけを返した。
「暇」
呆れたように短く息を吐き出すが、秋奈の手は止まらない。
「私は忙しいんだけど」
「宿題まだ終わらないの?」
「沙織が早すぎるんだってば」
宿題はそれなりの量が出されていたのだが、沙織は既にすべて片付けていた。
その外見や性格からは想像しにくいかもしれないが、沙織は勉学に関して頭の回転が速いだけでなく、単純に成績も良かった。
決して秋奈が遅いというわけではないのだが、同じ時間に宿題を始めたにもかかわらず、結果はこの通りである。
沙織は意味のない小さな唸り声を出しながら転がり続けている。眼鏡は外しているのだが、長い黒髪が乱れ、沙織の顔にまとわりついている。
「──あのさ、沙織。そんなに暇なら外行ってきたら?」
そんな雑音に耐え切れなくなったのか、秋奈はノートに走らせていた手を止めて振り返った。
「何をしに?」
沙織は顔にかかった髪を払い、秋奈に顔を向けた。
「そんなの自分で考えなさいよ」
「……はぁ」
沙織は仰向けになって天井を見つめた。半端に開かれた目は虚ろな色に染まり、今にも眠りに落ちそうである。
そんな姿を見て、秋奈は手に持ったままだったペンを回しながら考える。足を組んで片目を閉じると、一つの案が浮かんだ。思わず口元が緩む。
「それならさ、要さんに連絡して誘ってみたら?」
要の名前に反応したのか、沙織が勢いよく起き上がる。
「え? 誘うって何を? どうやって?」
予想通りの展開に、秋奈は攻めの姿勢を貫く。
「だからさ、一緒にどこか行こうって。メアドと番号は交換してるんでしょ?」
「した……けど」
「なら問題ないじゃない。ほらほら、携帯開いて」
「……」
沙織は無言で手を伸ばして机から携帯電話を取ると、メール画面を開いて文章を打ち込み始めた。
*
退屈だった。
予定がない連休に要は物足りなさを感じていた。
午前十一時。いつもなら学校で授業を受けている時間である。昼時を目前にして集中力が薄れがちになる頃だ。
要は読んでいた本から顔を上げ、机で震えている携帯電話に目を向けた。マナーモードにしてあるので、着信音は出ていない。振動音だけが規則的に数回響き続け、やがて止まった。
振動の長さからメールだろうと考えながら要は携帯電話を手に取って、届いたメールを確認する。
その瞬間、要は心の空白が満たされていくのを感じた。
『おはよー。今日暇ならどこか行かない?』
沙織からのメールにはそう書かれていた。
誘ってくれたことに対しての嬉しさを噛みしめながら、要はどこに行こうか考える。こういう時にすぐ答えられない自分が嫌になる。
思考の果てに、以前から気になっていた場所が閃いた。
『おはよう。私も暇だからいいよ。ちょっと行きたいところがあるんだけどいい?』
返事を送ると、沙織からのメールを待つ時間が訪れる。
だが、それもすぐに終わった。
『もちろん! どこで待ち合わせする? わたしは今すぐにどこでも行くよ!』
『それなら、三十分後に駅の改札前に集合でいい?』
『りょーかい! すぐに行くね!』
沙織からの返信を確認して、要は外出の準備を始めた。
*
メールを打ち込んで送信すると、沙織は輝かせた顔をそのままに、クローゼットから着替えを引っ張り出す。
「ごめん、秋奈。ちょっと出掛けてくるね」
先ほどまでだらけていたのが嘘のように、沙織は素早く動いていた。
「どうぞどうぞ。ゆっくりと楽しんできてくださいな」
机に向き直っていた秋奈は振り向かず手だけを上げて応じた。背後では慌ただしい準備が続いている。
「じゃ、行ってきまーす!」
準備を終済ませ、沙織は部屋から出て行った。
──残された秋奈は黙々と机に向かっていた。
あと少しで区切りをつけて休憩しようかと思っていたその時である。突然携帯電話が鳴りだした。
「ん? 沙織かな? まさか何か忘れ物したとかじゃ……」
背面の液晶画面に表示されていた着信相手の名前は沙織ではなかった。そこには衿香の名前が光っていた。
携帯電話に伸ばしかけた手が一瞬止まる。それに構わず着信音は鳴り続ける。
「……もしもし?」
秋奈は携帯電話を取り、ゆっくりと応じた。
「あ、秋奈ちゃん! おはよう……じゃなくて、もうこんにちはかな?」
「どうしたの、衿香」
「あのね、秋奈ちゃん明日暇?」
「暇……だけど」
「やった! それじゃ明日よろしくね!」
「え、なんの話?」
「あ、ごめん。明日ね、久永学園に学校見学に行きたいの。だから案内してほしいなって。あと秋奈ちゃんにも会いたいし」
衿香の急な提案に、秋奈は何も考えることができなかった。
*
周囲には焼きたてのパンの香りが漂っている。
目前のガラス越しに中を見れば、オレンジ色の光に照らされた数々のパンが並んでいる。店内で食べられるようになっており、奥ではコーヒーを片手にパンを食べる人々の姿が見える。
要は視線を学園の方へ向ける。沙織はまだ来ていないようだ。そのまま周囲を一瞥する。昼時にふさわしく、駅前に乱立する飲食店に人が流れ込んでいく。ファーストフード店では行列が外まで続いていた。
駅の改札から数歩という直近の位置にあるパン屋。先ほどまで店内の様子を見続けていたそこが要の行きたい場所だった。学園の行き帰りでは毎回この前を通るため、その香りに惹かれるのは当然の結果であった。待ち合わせ場所を改札前に指定したのは、合流後すぐに入れるように考えたからである。
「要、もしかして待たせちゃった?」
突然の声に振り向くと、そこには沙織が立っていた。その息は微かに上がっている。
「ううん、そんなことないよ。急がなくてもいいのに」
「へへ、ちょっとはしゃいじゃったかも。ところで要の行きたい所ってどこ?」
「ここだよ」
要は横に視線を向ける。そこには食欲をそそられる光景が広がっていた。
「そっか、このパン屋だったんだ。実はわたしも気になってたんだよね」
「そうなの? それなら、ちょうどよかったかな」
二人は店内に入り、パンを吟味し始める。いくら空腹とはいえ、無限に食べられるわけではない。それにパンは腹に溜まりやすいので尚更である。
「要はどれにする?」
「ちょっと見てから考えるよ」
いくつも並ぶパンに目を走らせる。普段は優柔不断である要だが、沙織の前で長時間悩むわけにはいかない。そんなことを考えながら、要は目に留まった二つのパンを取り、レジでコーヒーを注文して会計を済ませた。
沙織もその後に続き、パンとカフェオレを買った。
「あそこが空いてるから座ろっか」
二人用のテーブル席に着き、互いに買ったパンを味わう。
要がまず口に運んだパンは、一見すると網目模様の表面からメロンパンのようにも思える。ほのかに甘い焼きたての香りが鼻腔をくすぐり、唾液の分泌を促す。カリっとした生地を噛むと、もっちりとした感触に早変わりした。
二口目を頬張れば、白いチーズクリームが入った空洞が見えてくる。舌先でクリームだけを舐めれば、わずかな刺激のあとに広がる甘みと、最後にふわっと残る酸味が味覚を刺激する。パン生地と一緒に食べると、目の覚めるような味が広がった。
ふと沙織に目をやると、ポテトパイを食べて幸せそうな表情を浮かべていた。要も同じ物を買っていたので、次に食べようと決めた。
「おいしそうに食べてるね」
「うん! だって甘くておいしいんだもん」
そこまで言われると要も食べたくなる。最初のパンを食べ終えて、コーヒーで口内を湿らせてから続けてポテトパイに手を伸ばす。
黒胡麻が乗った光沢のある表面が、誰かに食されるのを待ちわびているようである。何層にも重なった生地の中には、とろけるような甘さのスイートポテトが挟まれている。芋独特の硬さを徹底的に抑え、滑らかで食べやすく仕上げられていた。
「あのね、実は要に話があるんだ」
一通り食べ終えて、沙織が話を切り出した。
「どうしたの? そんな改まっちゃって」
「この前さ、要の部屋に泊まりに行くって話になったでしょ?」
その言葉が、要の記憶を呼び覚ます。
「そう、だね」
「それで、その日をいつにするか考えてみたんだけど、それでいいか確認しておかないとなって」
ついにその日が来るのか。要は心の準備を決める。
「いつ?」
「今週の土曜に行きたいんだ。それで月曜まで二泊三日はどうかなーって思ったんだけど」
沙織の提案は要の想像を超えるものだった。一泊だけだと思っていたが、二泊ときた。つまり日曜は一日中沙織と共に過ごすことになる。初めての経験である。
しばらく考えていると、要の中に生まれた不安は期待へと変わり始めた。
「えっと……やっぱり二泊ってのはずうずうしかったかな」
沙織は俯いてカフェオレを掻き混ぜた。
「いや、別に私は構わないよ。ちょっと突然だなって思っただけだから。その日が一番都合がいいの?」
「実はね、来週の月曜はわたしの誕生日なんだ。だから、その日に要と一緒にいられたらいいなって思って……」
沙織は照れ隠しをするように眼鏡のテンプルに触れた。
「そんな大切な日なのに、いいの?」
「うん。……ダメ、かな?」
「そんなことないよ。沙織がそうしたいなら、私も歓迎する」
その言葉が、ようやく沙織の表情を明るくさせた。
「やった! じゃ、土曜の授業が終わったら行くね」
「いいよ。そうすると、沙織が来てくれるんだし、おもてなしの準備をしないとね」
「え? ホントに? ありがとーっ!」
沙織の笑顔を見ていると、要も土曜日が待ち遠しくなった。




