四月一日 入学式と初めての出会い(1)
季節は春。新しい生活が始まる時期である。
都心から下り方向に電車で一時間ほど行けば、都会と田舎の雰囲気を併せ持つ町並みが見えてくる。
葛上山市。駅前や大通り周辺は賑わっているが、少し道を外れれば緑が溢れ、また別の道を行けば住宅街へ辿り着く。その内の一つ、公営住宅が建ち並ぶ先には、学園の敷地が広がっている。
そこが久永学園である。女子校として創立されて数十年。現在その組織内容は大学と高等部のみであるが、将来の展望としては中等部から初等部、さらに幼稚舎の設立を視野に入れている。学園長の運営手腕が功を奏したようで人気の上昇が続き、堅実な地位を築いている。
この日、学園では高等部生徒の入学式が行われていた。会場となっている講堂内メインホールには多くの新入生が集まっている。彼女たちの表情を彩るのは期待や不安、そして緊張。ホール前方の舞台上では痩身の女性が開会の挨拶を始めている。
「皆さん、ご入学おめでとうございます」
新入生たちがその姿を見つめている。ショートカットで整えられた髪に、凛とした目つき。引き締まった体を併せ持ち、人生経験の豊富さが滲み出ている。それでいて若々しさも感じられるのは、その人格があるからこそ成せる業か。彼女の名は栗山留美。久永学園を治める学園長である。
「この久永学園は、高等部と大学が同じ敷地内にあります。それぞれの生徒と学生の交流も深く、皆さんの助けになると確信しています。学園寮に入る方々は、より一層先輩方との交流があることでしょう」
栗山は学園運営において、高等部と大学を隔てる壁を極力取り除くような環境作りに力を入れている。その例として、食堂や図書館などの施設は共用となっている。寮では同学年同士だけではなく、学年が違う二人が同室になることも多い。
「さて、それでは今後皆さんを見守る担任教師の方々を紹介します」
栗山が目配せをすると、舞台袖から教師たちが現れた。
教員の紹介が終わると再び学園長の話が始まる。こういった式典は、えてして長引くものである。
入学式を終えた生徒たちは教室に戻った。周囲を見渡せば様々な光景が目に映る。見知った仲間同士で話し合ったり、見知らぬ人に話しかけ新しい環境に馴染もうとしたり、逆に馴染めずにいたりと、この狭い空間だけで様々な人間模様を観察できる。
しばらくすると担任教師が扉を開けて入ってきた。教卓に手をついて話し始める。
「皆さん、入学式お疲れ様でした。私は担任の渡辺美幸です。よろしくお願いします」
まず担任教師が挨拶をして緊張した空気を和ませる。そんな考えがあるのか否か。向けられる生徒たちの視線を受けてさらに話を続ける。
「それでは早速ですが、皆さんに自己紹介をしてもらいたいと思います」
途端に教室内がざわめきに包まれる。緊張によるものではなく、なぜ自己紹介などをするのか理解できない。そんな気持ちが原因であろう。
廊下側の列、一番前に座る四十崎要も同じ考えを持っていた。耳を覆う程度で整えられた髪にハーフリムの眼鏡を掛け、鋭い視線で前方を見つめている。
その苗字と座席の位置からもわかるように、要の出席番号は一番である。全員が順番に行うべきことは、大抵が出席番号順となる。今回もその法則に従って自己紹介をするのであろうか。
「はい、皆さん静かにしてくださいね。それでは……出席番号順でやりましょう」
予想通りの言葉を渡辺が告げた。そのまま要に目を向ける。要は「またか」と内心うんざりした。だが結局は今まで何度も繰り返してきた作業にすぎない。今回も一時しのぎで済ませて構わないだろう。
要は立ち上がり、振り返るとクラス全体を見渡す。
「四十崎要です。よろしくお願いします」
それだけ言い、着席した。
あまりにも簡素な自己紹介に渡辺は呆気にとられていたようだが、すぐに気を取り直して次を促す。
「……はい、ありがとうございました。それでは次の人、お願いします」
渡辺は要の後ろへと視線を向ける。それを受けた後ろの生徒が立ち上がる。
「は、はいっ! えっと、あの、麻生沙織です。得意教科は歴史で趣味は……」
後ろの生徒、麻生沙織が自己紹介を続けているが、要は耳を傾けようとはしなかった。特に必要はないと考えていたからである。何も考えず机に視線を向けたまま、終わるのを待っている。決まりきった定型文を並べるだけの自己紹介に、果たしてどのような意味があるというのだろうか。
同じように繰り返される自己紹介を聞き流していると、いつの間にか全員分が終わっていたらしい。既に教室内では、誰がどの委員会に入るかを決め始めていた。
「委員会は必ずどれかに所属しなければなりません。委員会一つにつき、二人が定員です。数が多いので、どれにするかよく考えてくださいね」
そう言って渡辺は黒板に委員会名を書き始めた。要はその文字を目で追いかける。学級委員会や保健委員会といった普遍的なものから、交流委員会や講堂管理委員会といった聞き慣れないものまであるようだ。
続いて渡辺がそれぞれの委員会の仕事内容を説明する。その中で要は、どれが一番無難な委員会であるかを考えていた。
要の考えが固まった頃、渡辺の説明が終わった。
「それでは順番に訊いていきますので、入りたい委員会に手を上げてください」
最初に学級委員。敬遠されると思いきや立候補者がいて、すぐに決まった。
続いて保険委員、放送委員と次々に決まっていく。
「では、図書委員希望の人はいますか?」
渡辺の言葉に、すかさず要は挙手する。図書といえば読書。読書は嫌いではない。他の委員会には面倒なイメージも持っていた。それらの理由で決めた結果であった。
渡辺が教室内を見回して挙手した生徒を確認している。
「──はい、それでは図書委員は四十崎さんと麻生さんですね」
聞き覚えのある名字に、要は考える。確か後ろの席で自己紹介をしていた人だ。特に注意して聞いていなかったから、どんな人なのかよくわからない。結局はなるようにしかならないだろう。
要の考えはそこで完結したが、委員会を決める作業は続く。
「皆さんが協力してくれたおかげで、無事すべての委員会が決まりました。明日、委員会の初会合がありますので、配布したプリントに書かれている場所に時間通りに集合してください」
要はプリントに目を通す。図書委員は明日午前十時に図書館集合とある。他の委員会は場所こそ違うが、ほとんど同じ時間のようだった。
「それでは今日は解散します。皆さん、さようなら。明日に備えてゆっくり休んでくださいね」
渡辺の言葉を合図にして、先ほど決められた学級委員が号令を済ませる。礼が終わると渡辺は教室を出て行った。
教師の姿が消えた途端に、生徒たちはそれぞれの行動を始める。友人との会話、仲間との集団帰宅、携帯電話による誰かとの通話。時刻が正午を過ぎているためか、食事を始める生徒もいる。もちろん、数人で集まってである。
その騒がしさから逃げるように、要は帰宅しようと席を立った。
「あの……四十崎さん、だったよね?」
不意に聞こえた自分を呼ぶ声に振り向く。
「そうだけど、何か用?」
「突然ごめんね。さっき自己紹介でも言ったけど、わたし麻生沙織って言うの。よろしくね。わたしの席、四十崎さんの後ろなんだよ」
早口で言って沙織は要に歩み寄る。
「それで、同じ図書委員になったでしょ? だから、その……少しお話がしてみたいなと思って」
好都合だ、と要は思った。これから同じ委員会で関わりを持つ以上、相手を知る必要がある。自己紹介もまともに聞いていなかったからちょうど良い。
「うん、いいよ」
要の返事を受けて、沙織は嬉しそうな顔になる。
「本当に? やった! それじゃ、まずは歩きながら話そう?」
要と沙織は共に教室を出て歩き出した。
「──へぇーっ、これでアイザキって読むんだ。珍しいね」
「うん。よく言われる」
要が答えると、沙織は手に持った座席表のプリントへ視線を戻した。
麻生沙織とは一体どんな人物なのか。要は悟られないように観察する。肩を少し過ぎ、肩甲骨の辺りまで伸ばされた黒髪が歩みに合わせて揺れている。縁なし眼鏡を掛けており、すっきりとした印象が目元から感じられる。背は要より少し高い。制服は着崩さず、しっかりと着用している。外見だけで判断するならば、明るく元気な優良生徒という印象がぴったりだろう。
突然、沙織が要に顔を向ける。
「わたしね、ここの寮に住んでるんだ。四十崎さんは?」
唐突な質問に要は内心驚いたが、それを表さずに答える。
「学校の近くに部屋を借りて、一人で暮らしてるよ」
「えっ、それって凄い! だって家事全般ができないとダメでしょ?」
「いや、むしろ一人だと落ち着けるし、家事も苦にならないから特に大変だとは思わないかな」
「そうなんだ……あ、それじゃさ、この学園の中を見るのは初めて?」
「うん」
「わたしね、寮に来てから入学式まで日にちがあって見て回ったこともあるから、どこに何があるかはそれなりに知ってるんだ。完璧じゃないかもしれないけど、よかったら一緒に見て回らない?」
「それじゃ、お願いしようかな」
ここまで好条件で話が進むとは予想外であったが、拒む理由も見つからないので要は同意した。むしろもっと知りたいと思い始めていた。この学園のことも、沙織のことも。
沙織が要を先導して歩く。しばらくすると高等部校舎の中心、L字型の曲がり角に辿り着いた。
「ここまでが普通教室で、ここから先が特別教室の場所だよ。他の階も一緒の造りなんだ」
沙織の説明を受けつつ歩き、視聴覚室や音楽室の前を通り過ぎる。行き止まりにある階段を下りると、一階に辿り着いた。
下りた先には外へと続く扉があった。沙織がその扉を開く。
「ここは南棟に続く渡り廊下になってるんだ。外を通るんだけど、屋根があるから雨の日でも大丈夫なんだよ」
「へぇ……考えられているんだね」
そう言いながら要は周囲を見渡す。扉が開かれた先には、硬く冷たいコンクリートの道が伸びている。渡り廊下に出て正面には、これから向かう南棟が見える。左側の中庭には机と椅子が設置されており、生徒や学生たちが談笑している。右側には通用門。久永学園には東西南北それぞれに一つずつ門があり、ここは南門にあたる。
短い観察は終わり、南棟が目前に迫る。
「えっと、ここが南棟ね。右側にあるのが購買で、筆記用具や本以外にもパンとかドリンクとかも売ってたりするんだよ」
沙織の説明を聞き、要は購買の方を見る。南棟の入口とは別に購買への入口が見える。南棟と建物が連結しており、内部は広そうである。
「それで、この扉を入るとね──」
沙織が自動ドアを開け、二人は南棟に入る。
最初に感じるのは食品の香り。揚げ物、煮物、炒め物。様々な匂いが混ざり合っているのだが、不快感はなくむしろ心地よい。続けて食堂の光景が目に入る。昼食時ということもあり、長い行列ができている。
「──見ての通り、ここが食堂だよ。まずこっちでサンプルを見て、あそこの販売機で食券を買うの。そうしたら前に見えるカウンターで食事と引き換えるんだよ」
沙織の言葉を受けて、要は前方に目を凝らす。行列の先にカウンターが見える。その行列の長さから判断すれば、待ち時間は相当長くなると覚悟しなければならないだろう。
「まあ、見てわかるようにお昼の食堂はこんな感じなんだ。だから購買でパンとかを買って済ませる人もいるんだよ」
改めて行列を見る。最初に見た時と比べて列が進んでいない。それどころか人が増えているように感じる。それだけで並ぶ気が失せるには十分だった。
「じゃあ、購買に」
「うん、やっぱりそうした方がよさそうだよね」
そう言って沙織は要を購買へ導く。食堂と購買は屋内で繋がっているので、外に出て入り直す必要はない。
購買の入口である自動ドアが開き、最初に見えたのはまたしても行列だった。室内の中心にレジが三つあり、その全てに行列ができている。それぞれ十人にも満たない列であったが、要は少し怯んでしまった。
「こっちも人がいっぱい……」
「やっぱりお昼時は仕方ないよね……待つついでに、この中ちょっと見てく?」
「うん。折角だから」
そう言って二人は購買の中に進んでいく。
入ってすぐ、ノートやルーズリーフ、ファイルなどが積まれたゴンドラが目に入った。新学期に必要な物を目に付きやすい場所に置き、販売促進を狙っているのだろうか。ゴンドラの脇には、ボールペンやシャープペンシルなど筆記用具が並んでいる。
その横を通りながら沙織が話し出す。
「何か買う? 学園生は全商品一割引きで買えるからお得だよ」
「いや、もう一式揃えてあるから……」
そうは言ったものの、値引きされるというのは嬉しかった。同時に、ここで買い揃えれば安く済ませられたという後悔も覚えた。せめて買い替える時は、ここを使おうと要は決めた。
「そっか。準備がいいね」
「そうかな」
「うん。しっかりしてるなって思うよ」
会話をしつつ二人は書籍売場に移動する。文庫、新書、参考書などが陳列されている。
ここにも山積み展開された商品がある。ふとプライスカードの宣伝文句が要の目に留まる。
『話題の学園卒業者、薬丸リミ執筆! 渾身の幻想小説』
沙織も気付き、その本を手に取る。
「この本ね、前に見たときにも積んであったんだよ。売れてるのかな?」
「山積みに惑わされて衝動買いする人が多いんじゃないかな」
「あー、それわかる。ついつい買っちゃうんだよね」
次に二人は食品売場に辿り着いた。おにぎり、パン、飲料以外にも菓子や即席麺が売られている。大勢の客がいたせいか、残っている商品は少ない。
「何か買ってく? 人も少なくなったし」
沙織に言われ、要は改めてレジを見る。店内を見ている間に行列は消えていた。使われているレジも三つから二つに減っている。忙しい時間帯を乗り切ったということか。
「そうだね、何か買おうかな」
要は棚に移動して品定めを始めた。品数の少なさがあるため、それほど選択の余地はない。しばらく考えてハムエッグサンドとツナサンドを取り、レジへ持っていく。
「あ、ちょっと待って。わたしも今選ぶから」
沙織は手早く商品を選び、小走りで持ってくる。
──二人は会計を済ませて南棟を出た。