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私たちを地下室に閉じ込めた母が、最後はその地下室から出られなくなった

作者: 江合 花果
掲載日:2026/04/02

 石造りの壁には、窓がない。


 これが私の世界だった。


 男爵邸の地下に設けられた貯蔵庫は、もともとワインや塩漬けの食料を保管するための場所だ。


 棚には今でも埃をかぶった瓶が並んでいるが、中身はとうの昔に空になっている。


 冬は骨まで染みる寒さで、夏でも陽光のひとつも届かない。


 そこが、私とお兄ちゃんの「部屋」だった。


 母――イザベラは、私たちをここに押し込めて、鍵を掛けた。


 理由を聞いたことがある。八歳の頃だったと思う。


 お腹が空きすぎて眠れなかった夜、石段を上がって扉を叩いた。


 「うるさい」という声と一緒に、扉の隙間から踵が飛んできた。


 私の額を掠めたそれは、赤い花の刺繍の入ったサテンのミュールだった――母が愛人の貴族に贈られた、お気に入りの一足。


 次の朝、お兄ちゃんが私の額の傷に布を巻いてくれた。


「痛い?」


「ちょっとだけ」


「嘘つき」


 バレていた。お兄ちゃんはいつも、私の嘘を見抜いてしまう。


 レオンお兄ちゃんは私より五歳年上で、その頃すでに冒険者ギルドの雑用として働いていた。


 剣の素振りをしている姿を、私は地下室の扉の隙間から何度も眺めた。


 細い体に、不釣り合いなほど真剣な目をした少年だった。


「アリアは何もしなくていい。俺がなんとかする」


 そう言って、お兄ちゃんはいつも薄い毛布を私の肩にかけてくれた。


 森で罠を仕掛けて捕まえた野兎を、石床の上で丁寧に焼いてくれた。


 木の実を割って、実の大きいほうを必ず私の手のひらに乗せた。


 私はそのたびに、胸の奥が締め付けられるような気持ちになった。


 ありがとう、と言うだけでは足りない気がして、でも他に言葉が見つからなくて――私はいつも、お兄ちゃんの袖をそっと握った。


 それだけが、私にできる唯一のことだった。


 母が来るのは、月に一度か二度だった。


 食べ残しのパンや干し肉を石段の上に放り投げ、「ありがたく思いなさい」と言って、すぐに扉を閉める。


 その時間は一分にも満たない。


 私は母の顔よりも、母の靴の色のほうをよく覚えている。


 赤、金、深緑。


 毎回違う、高価な靴。


 愛人から貢がせたものだ、とお兄ちゃんは静かな声で教えてくれた。


 没落した男爵家の未亡人として――しかし美しい容姿を武器に――母は常に誰かの庇護の下にいた。


 屋敷の上階では毎晩のように宴が開かれ、笑い声と弦楽の音が、石天井を通して地下まで落ちてきた。


 その音を聞きながら、私はいつも眠った。


 怒りよりも、不思議な感覚があった。


 あの笑い声は、本当に同じ人間が出しているのだろうか。


 私たちの母親が。



 転機が訪れたのは、私が十二歳の夏のことだった。


 その夜、母は太った商人を屋敷に連れ込んでいた。


 ドゥービル商会の主人――ファッツェと呼ばれていた男で、お兄ちゃんは以前から「あいつには近づくな」と私に言い聞かせていた。


 深夜、石段を軋ませながら誰かが降りてくる気配がした。


 お兄ちゃんはすぐに起きた。


 体を盾のように私の前に置き、木剣を手にした。


 私は息を殺した。


 ゆっくりと扉が開いた。


 ファッツェは随分と酔っていた。


 ニヤついた顔が、燭台の明かりに照らされて赤く光っていた。


 彼の視線が私を捉えた瞬間、私は自分の体が石になったような感覚を覚えた。


「可愛いじゃないか。大きくなったな」


 一歩、足を踏み出した彼の腕を、お兄ちゃんの木剣が叩いた。


 鈍い音がした。


 ファッツェが悲鳴を上げ、床に転がった。


 お兄ちゃんは無言で、もう一度剣を構えた。


 その目は、私が今まで見たことのないくらい静かで、冷たかった。


「次は顎を狙う」


 短い一言だった。


 ファッツェは這いながら石段を上っていった。


 しかし騒ぎを聞きつけた母が降りてきた。


 乱れた夜着のまま、目を血走らせて。


「なんてことをしてくれたの! あの方は大切なお客様よ!」


 罵声が地下に響いた。


 お前たちには食事を与えない。恥さらし。出て行け。いつか追い出してやる――。


 言葉はいくつも飛んできたが、私の耳はどこかで音を拾うのをやめていた。


 ただ、お兄ちゃんの背中だけを見ていた。


 その背中は震えていなかった。


 母が去った後、お兄ちゃんは私の肩を抱いた。


「大丈夫か」


「うん」


「今度こそ大丈夫か」


「……うん」


 今度は嘘ではなかった。


 お兄ちゃんがいる限り、私は大丈夫だったから。


 でも、お兄ちゃんが一人のとき――私がいない場所でも、お兄ちゃんは大丈夫なのだろうか。


 そのことを、私はずっと考えていた。


 翌週、お兄ちゃんは何かを懐に入れて帰ってきた。


 それは手のひらにすっぽり収まるほどの、小さな金属の装置だった。


 魔石が嵌め込まれた錠前で、ギルド仕事で貯めたなけなしの稼ぎをはたいて購入したのだという。


「魔導錠だ」


 お兄ちゃんは扉の内側に取り付けながら、静かに説明してくれた。


「内側からしか操作できない。術者の魔力を登録すると、登録した魔力以外では絶対に開かない。一度閉まると、外からはどんな力を使っても開けられないんだ」


 魔石の表面には、複雑な紋様が刻まれていた。


 お兄ちゃんが手のひらを当てると、紋様がほんの一瞬、淡い青白い光を放った。


 登録完了の証だ。


「試してみる」


 お兄ちゃんが内側から錠を掛けた。


 石段を上がり、外から扉を引いてみる――びくともしなかった。


 どれだけ力を込めても、扉は一ミリも動かなかった。


 お兄ちゃんが戻ってきて、内側から錠を外すと、扉はあっけなく開いた。


「これで外からは入れない。中にいる限り、俺たちは安全だ」


 私は魔導錠をじっと見つめた。


 小さくて、古びた見た目で、たぶん新品ではなかった。


 でも――


「お兄ちゃん」


「なんだ」


「ありがとう」


 お兄ちゃんは少し困ったような顔をして、頭をかいた。


「俺はただ、アリアが――」


「知ってる」


 私は笑った。


 初めて、あの地下室で、心から笑えた気がした。


 あの日から、私たちの小さな地下室は「牢獄」ではなくなった。


 外から鍵をかけられる檻ではなく、内側から守れる、私たちだけの砦になった。


 同じ場所なのに、世界が変わったように感じた。



 それからの三年間、私たちは静かに、しかし着実に準備を進めた。


 お兄ちゃんは冒険者として依頼をこなし、結界魔法と剣術の腕を磨いた。


 ギルドでは「地下室の魔剣士」という妙なあだ名で呼ばれるようになったと、笑いながら教えてくれた。


 私はこっそりと薬草採取を始めた。


 実は、私には治癒魔法の素質があった。


 指先に光が集まる感覚は、六歳の頃から知っていた。


 でも母には絶対に言えなかった。


 言えば、どこかに売られると思っていた。


 お兄ちゃんにも長らく黙っていたが、あの魔導錠の夜に初めて打ち明けた。


 お兄ちゃんは驚いた顔をしたあと、ゆっくりと微笑んだ。


「そうか。それなら王都で生きていける」


 その一言が、私には十分だった。


 母は私たちに完全に無関心になっていた。


 食事の残飯すら届かなくなって久しかったが、もう何も気にならなかった。


 お兄ちゃんの狩りと私の薬草で、空腹を感じることはなくなっていた。


 そして私が十五歳の誕生日を迎えた朝。


 お兄ちゃんは革の旅嚢をふたつ持って、地下室に降りてきた。


「行くか」


「うん」


 それだけで十分だった。


 私たちは夜明け前に屋敷を出た。


 振り返らなかった。


 石段を上がるとき、私は一度だけ魔導錠に触れた。


 まだそこにある。内側からだけ、開く鍵。


 どこか遠くへ持っていきたいような気持ちがして、でもそれは持っていかなかった。


 あれはここに置いていくべきものだ、と思ったから。


 王都での生活は、最初は決して楽ではなかった。


 でも、お兄ちゃんは強かった。


 S級への昇格は早く、「銀鎖のレオン」として名を知られるようになるまで、三年とかからなかった。


 私は治癒院で修行を積み、六年後には治癒士として独立した。


 小さな診療所を構えると、評判はじわじわと広がっていった。


 温かい部屋があった。


 窓があった。


 毎朝、陽が差し込んだ。


 私はそのたびに、少しだけ泣きそうになった。


 こんな当たり前のことが――窓から光が入ってくるというだけのことが、こんなに胸に沁みるなんて、知らなかった。



 故郷からの手紙が届いたのは、王都に来て八年目の秋のことだった。


 差出人は、かつての領主の代理人だった。


 内容は簡潔だった。


 イザベラ元男爵夫人が近隣でトラブルを起こしており、身元引受人として縁者を探しているという。


 引き取ってほしい、という要請だった。


 お兄ちゃんは手紙を読んで、しばらく無言だった。


「行く必要はない」


 それが最初の一言だった。


「でも」


「……行きたいか」


 私は少し考えた。


 行きたいわけではなかった。


 ただ――何かが引っかかっていた。


「一度だけ」


 お兄ちゃんは目を閉じた。


「わかった。俺も行く」


 故郷への道は、記憶よりずっと短く感じた。


 男爵邸は荒れ果てていた。


 庭の木は枯れ、門扉は半分外れていた。


 かつて屋敷に集まっていた裕福な客たちの馬車の轍は、雑草に塗り潰されていた。


 母がいたのは、かろうじて残っていた屋敷の一室だった。


 私はその姿に言葉を失った。


 八年という時間は、残酷なほど仕事をしていた。


 かつて人を魅了した容貌は見る影もなく、髪は白く、頬はこけ、肌はくすんでいた。


 室内には空の瓶が散乱していた――酒と、いくつかの怪しい薬瓶。


 目は焦点が定まらず、私たちを見ても、最初は誰だかわからない様子だった。


 やがて母が、ぼんやりと呟いた。


「ああ……召使い? お客様を迎える準備を……今夜は伯爵様がいらっしゃるから……」


 誰もいない空間に向かって話しかけていた。


 代理人が耳打ちしてくれた。


 飲酒と薬物の過用で、もう長くはないかもしれない。


 パトロンたちはとうに離れ、借金だけが残っている。


 親族と呼べる人間を探していたが、誰も引き取ろうとしない、と。


 私はただ、黙って母を見ていた。


 怒りを覚えるかと思っていた。


 憎しみか、悲しみか、あるいは復讐の喜びか――何か激しい感情が来ると思っていた。


 でも、何も来なかった。


 それが一番、不思議だった。


 お兄ちゃんが私の隣に立った。


「俺たちは、あの女に捨てられた」


 静かな声だった。


 怒りのない、ただ事実を述べるような声だった。


「もう関係ない。援助も、引き取りも、しない」


 代理人は困ったような顔をしたが、お兄ちゃんの目を見て、何も言えなくなった。


 私たちは屋敷を出た。



 数週間後、また手紙が来た。


 今度の差出人は、領地の衛兵隊長だった。


 イザベラ元男爵夫人が、邸内の地下の貯蔵庫で亡くなっているのを発見した――という報告だった。


 死因は飢餓と衰弱。


 状況はこうだった。


 母は何かの幻覚を見たらしく、「地下に財産が隠してある」と繰り返していたという。


 ある夜、介助の者の目を盗んで地下へ降り、貯蔵庫に入った。


 そして扉が閉まった瞬間――内側に取り付けられたままだった魔導錠が、作動した。


 術者の魔力でなければ開かない錠。


 内側からしか操作できない錠。


 誰も外から開けられなかった。


 発見が遅れたのは、誰も地下に母がいるとは思わなかったからだ。


 手紙を読み終えて、私はしばらく動けなかった。


 あの魔導錠が。


 私たちを守るために、お兄ちゃんがなけなしの銅貨を積んで買ってきた、あの小さな装置が。


 あの夜、私が「ここに置いていくべきだ」と思って、持ち出さなかったあれが。


 かつて私たちを閉じ込めていた場所で、かつて私たちを狙っていた者に向けて――機能した。


 誰の意図でもなく。


 誰の仕掛けでもなく。


 ただ、そういうふうに動いた。


 夕暮れの診療所で、私はお兄ちゃんに手紙を渡した。


 お兄ちゃんは読んだ。


 最後まで読んで、折り畳んで、テーブルに置いた。


 しばらく沈黙があった。


「……私たちのせいかな」


 声に出てしまった言葉を、自分でも少し意外に思った。


 ほんの少し――ほんの小さなかけらだけ――胸に引っかかるものがあったから。


 お兄ちゃんは静かに首を振った。


「いいや」


 そして、私を見て、静かに微笑んだ。


「これで少しは、当時の俺たちの恐怖と絶望が分かっただろ」


 その言葉は責めるような響きではなかった。


 ただ、淡々としていた。


 事実を確認するような、穏やかな口調だった。


 私は窓の外を見た。


 夕陽が王都の屋根を橙に染めていた。


 人々が行き交い、子どもたちの笑い声が通りから聞こえてきた。


 私はここにいる。


 窓のある部屋に。光の届く場所に。


 地下室のことは、もう夢のように遠かった。


 近くて遠い記憶――確かに存在したのに、今の自分とは繋がっていないような、不思議な感覚。


「行こうか」


 お兄ちゃんが立ち上がった。


「どこへ?」


「飯。お前が食べたいって言ってた、南区の魚料理の店」


 私は笑った。


「覚えてたの」


「当たり前だろ」


 お兄ちゃんはそう言って、先に扉を開けた。


 橙色の光が部屋に差し込んできた。


 私は立ち上がった。


 振り返らなかった。


 あの地下室の冷たさも、石壁の暗さも、窓のない息苦しさも――全部、もうあの場所に置いてきた。


 取りに戻るつもりはない。


 お兄ちゃんの背中を追いかけて、私は外へ出た。


 夕陽が、温かかった。


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