第3話 細くなる
私は、太っていた。
正確に言うと、体重が「問題になるほど」太っていた。
35歳、広告代理店の営業部長。
毎晩の接待と残業弁当で、標準体重を30キロ以上オーバー。
医者には「このままじゃ40歳前に心筋梗塞ですよ」と言われ、妻には「もう見てられない」と泣かれても、
「あと少しで昇進だから」と言い訳して、ダイエットはいつも三日坊主だった。
ある雨の夜、残業帰りにコンビニでビールと唐揚げを買って車に戻る途中だった。
信号のない横断歩道で、急に白い影が飛び出してきた。
老婆だった。
白い着物のようなものを着て、傘もささずに立っていた。
ブレーキを踏む間もなく、車体が彼女を跳ね飛ばした。
ガツン、という鈍い音。
ワイパーが血を拭うように動く。
私はパニックになった。
周りに人はいない。
監視カメラもない路地。
老婆は動かない。
首が不自然に曲がっている。
私は、車をUターンさせてその場を離れた。
家に帰ってからも、震えが止まらなかった。
ニュースに事故の報道はなかった。
翌朝、会社の同僚が「昨日、近所で変な爺さんがうろついてたらしいよ。白い服着て、呪いみたいなこと呟いてたって」と笑い話にした。
私は笑えなかった。
それから、体重が減り始めた。
最初は「やっとストレスで食欲落ちたか」と喜んだ。
1週間で3キロ。
体重計の数字が減るたび、鏡の中の自分が少しシャープに見える。
妻は「頑張ってるね」と褒めてくれた。
会社の人間も「痩せた?」と驚く。
でも、2週間目で異常がわかった。
どれだけ食べても、減り続ける。
むしろ、食べると加速する。
ステーキを一本丸ごと食べた夜、翌朝4キロ減っていた。
皮膚がたるみ始め、頰が落ち、目がくぼむ。
医者に行くと「異常な代謝亢進。原因不明」としか言われない。
検査は何度もした。癌も甲状腺も陰性。
ただ、毎日体重が減る。
1ヶ月後、私は元の体重の半分近くになっていた。
骨が浮き出る。
服がぶかぶか。
妻は怖がって実家に帰った。
「あなた、死ぬ気?」と。
夜中、玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、白い服の老人が立っていた。
老婆を轢いた夜と同じ、皺だらけの顔。
手に小さな鈴を持っている。
「お前は、穢れた」
低い声で言う。
「だから、細くなる。
穢れを削ぎ落とすまで、細くなる」
私は叫んだ。
「事故だった! わざとじゃない!」
老人は首を振る。
「隠しただろう。
逃げただろう。
それが穢れだ」
老人が私の頰に触れた。
冷たい。
でも、その瞬間、体の中から何かが抜け落ちる感覚がした。
体重が、また減った気がした。
老人は去った。
私はドアを閉め、体重計に乗る。
針が、信じられない数字を指す。
さらに2キロ減っていた。
それから毎日、減り続けた。
食べ物を詰め込んでも、無駄。
点滴をしても、無駄。
皮膚は紙のように薄くなり、血管が透ける。
指は骨だけ。
鏡を見ると、骸骨が笑っている。
最後に、ベッドで横たわっていると、
老婆の声が聞こえた。
どこからともなく。
「細くなったね。
もう、穢れはほとんどない」
私は最後の力を振り絞って、体重計に這いずる。
針が、ゼロに近づく。
いや、もうゼロを越えていた。
マイナス。
体が、軽くなりすぎて、
浮いている気がした。
最後に見たのは、部屋の隅に置いた体重計。
数字が、ゆっくりと回り続ける。
減り続ける。
私は、もう何も感じない。
ただ、細くなる。
いつか、完全に細くなって、
消えるまで。




